群生の夢

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 喉がいがらむなと思って病院に行ってみたら、珊瑚礁だった。

「珊瑚礁ですね」

 管のようなカメラを口の中に入れられて、モニタを見せられた。
「ほら」
 見えますかと言いながら、医者は私の身体の中身を明るく照らした。湿り気を帯びたその空洞の壁面は赤黒く、確かに珊瑚礁と言われればそう見えなくもなかった。青い空や砂浜がないだけ。
 本当に私の口の中なのか?
 これなら放っておいても問題ないでしょう。そう言った医者の口の中にも、礁が鈍く光っているのが見えた。
「大事にしてくださいね」
 喉に管を突っ込まれたままそう言われたので、返事が出来なかった。


 三十八階建てのビルの9Fまで上がって、カフェでコーヒーを飲んだ。喉の襞をなぞるように、コーヒーは流れていく。熱が喉を伝ってお腹の中まで落ちると、喉のいがいがまでお腹に移動していったみたいだった。
 仕事を辞めてから、時間の感覚が薄れていた。雲の端が焼けているのを見て、もう夕方かと思う。
 ガラスの向こうに、高いビルがひしめいていて、その隙間を埋め尽くすように人や車が行き交っている。
 携帯電話で珊瑚礁について調べてみる。

サンゴ礁(サンゴしょう、珊瑚礁、さんご礁、Coral reef)は、造礁サンゴの群落によって作られた地形の一つ。熱帯の外洋に面した海岸によく発達する。

 携帯電話の画面が変わって、母親、私の母親から電話がかかってくる。
「辛いなら、もうやめてもいいのよ」
 お義母さんには、私からも話すから。大人なのに、とか思わなくていいのよ。デリケートな問題なのだから。
「傷ついている?」
 傷、ついているだろうか、といつも自分で考える。傷つくとはどういうことなのだろうと思う。私が悲しいのは、私と、私の旦那の身体の相性が悪いということだけど、それは傷ついていると言えるのだろうか。
 夫から放たれた精子を、私の身体は異物と見做して殺してしまう。殺してしまう、と本に書いてあった。やっつけてしまう?排除する?受け付けない?どの言葉でも同じように傷、ついただろうか。
 夫のことをとても愛している私と、夫のことを拒否する私と、どちらが本当の私なのだろう。
 母親、私の母親の声を聞きながら、私は窓を、窓の外を、私を取り巻く環境を見つめ、そしてゆっくりと窓の外から、窓そのものに焦点を合わせていく。小さな引っかき傷の向こうに、色とりどりにぼやけた街並みが見える。豆粒のような人の群れの中に、母親の、姿を探す。
 いつも冗談めかしながら「犬とか猫とか飼ったら」と言ってから電話を切る母だけど、今日は言わなかった。
「またそっちに遊びに行くわ」
 そう言って母親、私の母親は電話を切る。
 視界はぼやけている。


サンゴ礁の生態系
サンゴ礁はきわめて多様な生物が、高い密度で生息している環境である。ちょっと覗いただけでも、色とりどりの魚が乱舞するのが見られる。岩の上にはナマコ類がゴロゴロしており、また、サンゴの隙間や転石の下を見ても、さまざまな無脊椎動物を見ることができる。このように多様な生物が高い密度で生息できる理由として、いくつかの要因が考えられる。


 私たちが小さな羽虫の生き死にに一々惑わされないのと同じように、神様とか地球も、私たちの生き死ににいちいち惑わされないのだろうか。

 卵をかき混ぜる夫の腕を眺めながら私は思う。
 地球の表面に張った膜のような海の上に浮かびながら私は思う。
「そんなこと考えてたら生きていけないよね」と、夫が言う声が聞こえる。喋っていなくても聞こえる。私たちは分かり合っている。一定のラインで。だから夫は卵をかき混ぜて、私に雑炊を作る。
「でも神様である以上は、そういう悲しみとか喜び全部を、ちゃんと咀嚼して受け入れていくキャパシティがあるのかもね」と、暗い海の底を眺めながら私は言う。海は透き通っている。切り立った礁はどこまでも深く続いている。
 夫が何も言わずに、冷蔵庫からぽん酢を出してテーブルに置く。
 花火が音もなく弾けるみたいに、礁の狭間を魚たちが乱舞する。
「気にしなくて良いよ」と夫は呟く。僕も君も。
 ここに在るだけの私を、生き物たちが取り巻いている。

「はい」と返事した自分の声は、やっぱり少しいがらんでいる。


 夜になって眠りにつくと、夢の中で私の肉体は削げ落ちて、白くてかさかさした骨だけになっている。
 夕方コーヒーを飲んだ高層ビルにも、夜の闇が覆っている。白いビルは闇の中でますます白く、黒い紙の上に貼り付けたみたいに平面的に見える。昼間と違って人の気配が全くない。
「あと五、六十年もすればこうなっている」
 夫が言う。私が言う。「私もあなたも」
 夜の闇と同じ量の海の水が、街に満ちていた。
「いつか無くなってしまうものを、惜しんでもしょうがないんだよ」
 絶望しているからこういう声が聞こえてくるのだ。絶望しているから、こういう声しか聞こえてこないのだ。
 誰かの命が地面から浮かび上がって、空高く上っていくところが見えた。
 骨だけの私たちは、それを見つめていた。

 目を醒ますと、カーテンの向こうはまだ暗闇で、夫が私の手を握っていた。
 薄明かりの中で腕を持ち上げる。夫は力なく、死んだように眠っていた。
 どこからどこまでが自分の指なのだろう、と絡み合った手を眺めながら思う。
 指が、夫の指が、ぴくりと驚くように動いて、私は私の境界を見つめた。
 指の隙間から、ほとんど透明の糸のようなものが伸びてきて、私の体を取り巻いていく。息を吐くと、その糸がくにゃりと折れ曲がった。私はその糸が絡まりあってしまわないように、息をひそめてそれを見守る。
 でも糸たちはひとりでに空回りあって、小さな繭のようなものを無数に形成していく。それらはふくふくと膨れ上がって、また私たちの寝床の周りをたゆたう。

 命があるなあと私は思う。
 私の周りには、生まれてこなかった無数の命がある。
 誰も目にすることがなかった命だ。


 その日、夫は仕事に行かなかった。三十九度の熱が出たからだ。
「船酔いしているみたいだ」
 夫は薄く瞼を開けてそう言った。
「何か食べたいものはある?」と聞くと、「何もない、気持ちが悪い」と答える。
 私たちは私たちだ、と思いながら、私は卵をかき混ぜた。久しぶりに朝きちんと起きて台所に立ったな、と私は思う。
 外で魚が泳ぐのが見えたので、私は窓を開けた。魚は尾ひれだけを残してどこかの窓に消えてしまったけど、駅に向かうスーツを着た人や、自転車に乗った中学生が見えた。
 夫の手を握ると温かかった。夫も私の手が熱いと言った。こういうのは体温が低い方の手が冷たく感じるもんなんじゃないの、どちらかが嘘をついているね、と言いながら、私たちは二人で雑炊を食べた。夫が作った方が美味しいと、私は思った。


白化
褐虫藻がサンゴから抜けてしまうと、サンゴから色が抜け、石灰質から成る骨格の白色ばかりが目立つようになる。これをサンゴの白化(白化現象)という。白化は元に戻る場合もあるが、長く続くとやがてサンゴのポリプも死滅してしまう。白化の現象自体は古来から知られていたが、近年は大規模に起こる傾向がある。2016年度の環境省調査では、白化度が100%から90%の地域も見られる[1]。
2018年度のサイエンス誌に掲載された論文「Spatial and temporal patterns of mass bleaching of corals in the Anthropocene」での世界100カ所の1980年から2016年間の調査結果でも、地球温暖化によって白化期間からの回復期間が短く回復が難しくなっている現状が報告された[2]。


 夜には、夫の熱は下がっている。
 薬が効いてよく眠っている夫の手は冷たい。節くれだったその指は硬い。人の指というのは、ちゃんと骨が入っていて硬いのだと、私は取り止めなく思う。

 目を瞑ると、私はまた海にいる。
 礁は、深い海の底まで続いている。
 ビルの間に、人々が行き交っている。
 自分が死に行くことは悲しいことだろうかと考えながら、私はその細くてどこまでも続いていそうな谷間を見つめる。
 短く息を吐くと、ガラスの前に無数の泡が沸き立つ。
 やがて死に行くのだと知っていて生まれてきたのだと、私は忘れてしまっていたことを確信する。

 コーヒーを飲み込むと、またそれは私の中の襞を通り抜けていく。喉の痛みはもうどこかに消えている。


いずれもWikipedia「サンゴ礁」より引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/サンゴ礁

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