村上春樹の書く小説たちのこと

「この一年間、一番読んだ作家は?」と問われれば、おそらく「村上春樹」と答えることになるだろう。

村上春樹の書く小説は、この一年の前から読んでいた。順当と言うべきか、デビュー作の『風の歌を聴け』から読み始めて、「鼠三部作」を読破したあとは、当時住んでいた実家の書斎にあった本から気ままに読み進めた。
村上春樹の書く小説は面白く思っていたが、私にとってはあくまで娯楽小説の一つに過ぎなかった。

しかし、この一年、かの人と出逢って言葉を交わすようになってから、村上春樹の書く小説を異なる仕方で読むようになった。
かの人と私の間において、それは、かの人あるいは私の別の仕方での表れとなり、あるいは、予言書のように感じたのだった。

そのことに気づいたのは、ちょうど一年前、かの人と関係が深くなる直前、距離が酷く遠くなっていたときだった。
週末に海辺の宿に共に泊まろうと予定を立てていたところ、その週は互いの思考の伝達が上手くできなくなってしまい、かの人と言葉を交わせば交わすほど、かの人のことがわからなくなってしまっていた。(それは向こうも同じだったのだろう。)
そのため、一度距離を取るために予定はなくなりかけていた。

そのときに読み始めたのが、『国境の南、太陽の西』だった。今手元に原本がなく、どのような話だったのか全く思い出せないが、この本を読んだときに、かの人がどこか理解できたような気がしたのだった。
確か、『国境の南、太陽の西』に登場する男がかの人とどこか似通っていたのだった。趣味や行動のような表層的な部分が同じというわけではなく、その奥の核の部分に近しいものがあるように感じたのだった。
そして、かの人と私の間に起きていた事象や、話されていた言葉が、ちょうど小説のなかに出てくるのだった。まるで予言書のように。

それからというもの、かの人のことを捉えようとしたり、推し量ったり、考えたり、知ろうとしたりするとき、私は村上春樹の書く小説を手に取るようになった。
村上春樹が書いた小説であれば、なんでもよかった。求めていたのは、話の内容ではなく、村上春樹の書く小説全てに通奏低音のように流れる同一のモチーフであったから。

そのモチーフについて考えたのは、つい最近、『1Q84』を読了したときだった。関係すると思われる文をいくつか引用する。

でもそれは彼らの神様ではない。私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥かれ、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と思い出を簒奪され、その結果身につけたものだ。

『1Q84 BOOK3』p.271

私たちは同じものを見ている、青豆は天吾の目をのぞき込んだまま静かな声で言う。それは質問であると同時に質問ではない。彼女はそのことを既に知っている。それでも彼女はかたちをとった承認を必要としている。
月は二つ浮かんでいる、と青豆は言う。
天吾は肯く。月は二つ浮かんでいる。
(中略)そのことを知りたかった、と青豆は言う。私たちが同じ世界にいて、同じものを見ていることを。

『1Q84 BOOK3』p.571

そう、この世界ではどんなことだって起こりうるのだ。実際に手と足を使って上まで登り、そこに何があるのか──あるいは何がないのか──自分の目で確かめるしかない。

『1Q84 BOOK3』p.584

何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必ず高速道路に通じていると、心から信じなくてはならない。信じるんだ、と彼女は自分に言い聞かせる。
(中略)何があっても、どんなことをしても、私の力でそれを本物にしなくてはならない。いや、私と天吾くんとの二人の力で、それを本物にしなくてはならない。

『1Q84 BOOK3』p.588

村上春樹の書く小説に共通するモチーフとは「自己への信仰と、それに対する他者からの承認」にあると思う。
前者について誇張して言うならば「彼らの神様」でも「私の神様」ではなく、「私が神様」の世界観だ。
自分が見たものが「本物」であると、どこまでも、心から信じること、自分の感覚を信仰することだ。まるで、自分自身が創造主であるかのように。

ただ、それだけでは、閉ざされた自己の世界となってしまう。そこで必要となるものが後者の「他者からの承認」である。自分が見ている世界が他者にも見える共有可能なものであり、他者から共有できていることを承認されることで、自己の世界は他者の目を通されて完全なものとなる。

出逢ってからしばらくの間、私にとって、かの人は「自己」であり、私は「他者」であった。今では、その関係が逆となり、私が「自己」であり、かの人が「他者」であることもある。

出逢った当時、自分の感覚ほど疑わしいものはないと思っていた私にとって、自分の感覚を力強く頼りにして生きているかの人は眩しすぎて、時として目が潰されるように見えないこともあったのだろう。
そのとき、かの人を村上春樹の平易な文章で書かれた「自己への信仰」をレンズを通すようにして見ることで、理解可能なものへと変換していったのかもしれない。そのうえで、かの人と言葉を交わすことは時として「他者からの承認」となったはずだ。

そのようにして、今も村上春樹の書く小説(ようやく最新作だ)を読んでいる。

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