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母からの最後のプレゼント

2023.2.18  母は旅立ちました
「終わりよければ全てよし 
清らかな流れる水の如く
前へ進むだけ  感謝」

これから書くことは 私自身が母へ記しておきたい事です 結構 長文になります 悪しからず
そして 縁起でもないと思われる方は このまま閉じて下さい
では、始めます。

母は 去年の7/2に脳梗塞で 救急搬送された
それから 約7ヶ月半 入院生活
コロナで面会することが許されなかった

この入院中 3度ほど 偶然であったが 
母の顔を見ることができた
でもこの偶然は私は 母が引き寄せたものと思っている
1度目は 病院へ タオルなどを差し入れる時
リハビリから帰ってきた 車椅子の母と偶然会えた
看護師と話し込んでた私は 全然気が付かず
看護師の視線が母の方をじーっと見てるので
私も視線をむけると 母がそこにいた
脳梗塞の後遺症で 失語している母
そして 右側はほとんど見えてない 聞こえてない
空間認識ができてない状態
左側から 「お母さん 私やで」と言ったが
わかってるのかわかってないのか わからない状態
でも、表情は 穏やかだった 
大きな目をパチパチさせてたのが 印象的だったし
可愛かった。
2度目は 偶然ではないが 母の病院転院の日
次の病院着くまでの短い時間 15分くらいの間
この時も 「私やでわかる?」と言ったら
頷いてくれた
どこまでわかってたのか 結局最後まで
わからないままだけど。
3度目は 病院へ主治医から呼ばれて行った時。
いつもなら 一階の外来の部屋で話しするのだけど
この日は三階まで上がって下さいと。
上がると デイルームでテレビ見てる母に
偶然出会えた。
看護師が もうせっかくやから あって下さいと 
言ってくれた
また 「お母さん 私やで」と言ったが ニコニコしてたけど わかってたかは定かではない。
でも、すぐにプイと向こうを向いてテレビ見てたから
わかってなかったかなと思う。
そして、主治医と話しして、
もう、状態が落ち着いてるし そろそろ退院しても大丈夫との事だったので 施設さがしが始まった。
そして、年が明けて、施設も決まった。
1月の半ばに 院内感染でコロナに感染してしまった
10日間コロナ病棟へ入った

このコロナで 親子である私たちは 面会させてもらえなかったにも かかわらず 院内感染するって
スタッフから 感染するのだったら
面会できないなんておかしい
面会させてもらえない意味がわからない
悔しい
こんな思いしてる人たくさんいると思う
このコロナの対策 日本はおかしな方向に向いたと思う
今回はこの話しはしないが 日本政府 医師会には
たくさんの思いがある。
今回はやめておく

話しを元に戻します
思いの外 コロナは軽く済んで 10日間の隔離は解けた
そして 2月3日に退院が決まり 施設に入る予定で
3日の朝 むかえに行く電車の中で
私の携帯がなった
主治医からだった 熱が出たので 今日は中止との事
原因を調べますと。
そして 次の日 また電話があり
「尿路感染症」の熱ですと。
しばらく 治療したら治りますからと言われた
そして、それから 1週間くらい経った頃
また 電話があり また熱が出たと
今度は 肺炎との事
一度病院へ来て下さいと言われ すぐに行った
主治医の話では どこまで頑張れるか この肺炎が治るかわからないと言われた
そして、延命治療の事を どうするか問われた
何故か 母は元気な時に
もし 「延命治療とかしなあかんかったら 絶対やめて」と3回くらい聞かされていた。
その経緯があったので 主治医にそう伝えた
そして、亡くなる3日前に やっと 面会が自由になった
そんな危篤状態になってから
いつでもどうぞなんて事あると思いながら
病院へ通った
もう、いつ心電図が止まってもおかしくないと言われてた。
7ヶ月ぶりにやっとゆっくり会えた
思わず 看護師に隠れて ハグした
そして お母さんに1人で寂しくさせてごめんなと何度も誤った
いろんな事を 後悔した
私は せっかちでなんでもパッとしないと気が済まない
それに対して 母は ゆったりと穏やか
この違いで よく 私 怒ってたな
それも 後悔の一つ
いろんな後悔があって 潰されそうだった
主治医に 母は苦しいですかと聞いたら
多分 苦しさはないだろうと聞いて ホッとしたのを覚えてる
そして、この3日間 入れ替わり立ち替わり 普段お世話してくれてる 看護師 リハビリの方が 入れ替わり立ち替わり 挨拶に来てくれる
そして、入院中の様子を聞かせてくれた
皆さん 口を揃えて うちの母が 皆さんスタッフの癒しやったんですと
いつもニコニコして 怒ることもなくと
それを聞いて 母らしいと思った
そして 母は 若い頃ダンスをしていた経歴があり
リハビリの時 お尻を振って踊って みんなを笑わせてたと 教えてくれた
そんなに元気になってたのにと ここにも悔しさが残る
母は スタッフの方達の アイドルやったみたいです
それを聞いて 母って凄いな思った
普通は 失語してたら 歯痒くて 10人いたら10人とも
怒りっぽくなって扱いづらいらしい
ほんとに 母は穏やかだったらしい
皆さんに可愛がってもらえて嬉しかった

そして 3日間 いつ病院から電話あるかわからない状態だったので お風呂入るのもドキドキしながら入ってた
寝る時も 服のまま、寝てた
いつ呼ばれてもいいように すぐ出れるようにと
(一応 綺麗な服です)
そして 18日の朝方4時43分に電話が鳴った
病院へ着いた時は もう遅かった
娘と 娘婿と行った
多分 母は 娘婿を待ってたんだと思った

そして 葬儀屋さんのむかえを待ってる霊安室で
母が寝てるベッドの足元のパイプの所に
「平成9年 1月◯◯日 寄贈」という文字を見て
びっくりした
私の誕生日だった「日にちは隠しますが)
後で調べたら 平成9年は1997年
今から 26年前 
その26年前は 私の人生を左右する出来事があり
それを背負って生きていく事になる年でもあった
その事は 母も巻き込む出来事だった
これは 平清盛が愛した 常盤御前の話へと
繋がっていく出来事である。
(私は常盤御前の魂を持っている 今回はこな話はしませんが)
これも後で 思った事だが
母から この年から1997年からやり直しなさいと言われたような気がした。
人生をやり直すように 最後のプレゼントなんではないかと思った
これが この投稿の
タイトルでもある。

母は私の 悪いものを全部 待って行ってくれたような気がした。
ありがとう 感謝しかない
お通屋があり お葬式があって気がつくと 私
何故か 後悔という気持ちがなくなってた
やり切った間があった
なんなんだろう? 人から見ればなんて薄情な娘と思われるかもしれないが
不思議な気持ち

そして、母は 来て欲しい人だけを最後 引き寄せてた一例を上げると 東京にいるはずの私の従兄弟
お葬式の前日から大阪入りして
仕事抜け出してきてくれた
などなど 本当にすごい引き寄せの力の持ち主であった

生前 母は遠慮ばかりして
自分の気持ちを押し殺していた
行きたい時は行きたい
食べたい時は食べたいと
会いたい時は会いたい
言わないとダメだなと教えてもらったような気がする
最後の最後に ものすごい 引き寄せの力を使って
意思表示してきたなと思った。
このように 母は
私たちに いろんな事をプレゼントし
教えてくれた
本当にありがとう。
月並みだけど 感謝しかない。

最後まで 読んで下さった方 ありがとうございます。

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