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働く、本を書く、生きる

いまの職場、働いて約1年なんですが、だいぶ馴染んできて、朝仕事に行くのも楽しみになってきました。忙しいことは忙しいんだけど、気持ちもしゃきっとしている。

そうして、自分のなかで長年くすぶっていた「働かないで小説だけ書いていたいな」という気持ちが相当薄れてきました。

働くことでいいことは、月々決まったお金が入ることで精神的に安定すること。人に会うのでちゃんとお化粧したりする習慣がつくこと。ひきこもって誰とも話さないで一日終えるなんてことがない。自分がした仕事で、人から感謝されること。

いまの職場にきて、ほんとはまだまだなんですけど、日々仕事をするなかで、あ、こういう作業向いてるなあ、って思うことが少しずつ出てきて。自分にできることで、ひと様のお役に立てるってすてきなことです。

私のやってる仕事は、受付事務と司書的なことなんですが、二十代のころは、お馬鹿さんだったので就活のとき「事務も営業もやだ…だってつまんなそうだし、苦痛になると思う。私はもっとクリエイティブなことをしたいのに」なんていま思えば失笑もののことを思っていました。

社会で生きる実感として「一見つまんなく見える仕事」…給与計算だったり、顧客データ入力だったり、カタログの校正だったり、そういう地道な仕事って、必ず「それをやってほしい」お客がいたり需要があるのですよね。

私は自分が小説を書いていくことには、ライフワークとしての深い意味があると思っています。でも、自分の本一冊が、どれだけの社会的需要があるかと考えたら、そこにそれほどの価値はないでしょう。

災害が起きたとき、飢えている人がいたとき、本は救助隊の代わりや、パンを焼いてくれる人の代わりにはなりません。商売が成り立つ、ということは、仕事になる、ということは、その仕事を必要とする人がちゃんといるということなのですから。

「好きを仕事に」「趣味を仕事に」という言葉で、いまSNSはあふれかえっていますが、私にはいまのところ日中社会に出て働いて、お休みのときにものを書く、というのがどうやら自分の性に心底合っているようだ、とこのごろ身に染みてわかるようになりました。

もちろん、自分の書くものに引く手あまたの需要があれば、商売としてやっていけるとは思うのですが、商売にしないからこそ持てる、自分の書く作品が持つ自由というものも片方ではあるわけで。

こつこつ働いて、社会を回す大河の一滴となる一方、休みの日に、自分の愛する趣味にいそしむっていうのは、よりよい生き方なのではないかと思うのです。

いま思っているのは、数年くらいの長い時間をかけて、3~400枚くらいの作品を書き、個人誌として発表したいなということ。

自分が「こういうことを書きたいな」っていうのがわりと明確になってきたので、そこにすべてつっこもうと思っています。

いつも読んでくださる皆さん、応援してくださる皆さん、本当にありがとうございます。これからも書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。


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