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混ざらざるもの

なぜだろう。
人が集まる場所に身を置いていると、いつの間にか自分が自分に向ける評価が下がっていくことに気づく。
交わす言葉も、ひねり出す言葉も増えているのに、「よくできた」と自分に向けるものが一向に増えていかない。

家族、学校、会社、友人の輪・・・。
人が集まれば、マーブリングのようにいろいろな人の思惑や、感情や、意思が混じり合う。
その中で自らの色を流し続けることができるとしたら、それはとても賞賛すべき力強さだと思う。
自分がそうありたいかどうかは別として、心地よく納まれる場所の範囲が広がることには違いない。

いつだったかの職場で、着ていた服を褒められた同僚がいた。
彼女は嬉しそうに、褒めてくれた相手にその服を購入したところを教えて。
教えてもらった相手は、自分も今度同じものを買う、と嬉々としていた。

なんだか、じわっとした衝撃があった。
彼女たちはとくに普段から仲のいい友人というわけでもなく、子どもが親友とお揃いのものを持ちたいというそれとも違ったように思う。
なぜわざわざ誰かと、しかも毎日顔を合わせる人と同じものを持ちたいと思うのだろう。
自分が着ている服と同じ服を着た誰かとすれ違う。
そんなことは当たり前にあり得ることではあるけれど。
自らあえてそれを選択することに首を捻ってしまう自分は、マーブリングに溶け込めない人間なのかもしれない。

何かをはじめて見た時に、素敵だなと思って手にすることはある。
しかし身近な誰かがそれを持っていると知りながら手にしたり、身に着けたりすることには、ひどく居心地の悪さを感じてしまう。
同じものを着ていても、そこに付随するさまざまな感覚は人それぞれ。
同じものを着ているから、それを基準に相手を見てしまう。
ある種、打算起因の疲労も生まれるかもしれない。

お気に入りのシャツを着ていたら、同じシャツを着た誰かと偶然すれ違った。
いったんそんな偶然を通過してしまうと、次回そのシャツを着るときにはきっと、僅かな躊躇いが生まれるような気がする。

もちろん、誰が見ても、いいものはいい。
そういうものはある。
ただし、どんなものも、判断するときは、完全な個になっていたいと思う。








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