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ようこそ、ここへ。

すれ違いざま、外国人の男性とぶつかりそうになり、とっさに「Oh,sorry!」と声が出た。
同時に、「あ、すみません!」と流暢な日本語が返ってきた。

いつからだろう。
ここはそういう街になった。
あらかじめ学ばれている。
言葉も、作法も、楽しむべきことも。
先ゆく道は手の中の画面が教えてくれる。
ここはどこの国だろうかと思うほど、海外の人ばかりが目についても、道を訊かれることは少なくなった。

それはそれでとても合理的なこと。
訪れる国の知識を知っていることはとても賞賛すべきことだと思う。
けれど、ほんの、ほんの一抹の寂しさが過ぎる。

どこにいても、遥か遠くの国の事柄も手に取るように知ることができる時代。
「こういうもの」という定型は簡単に得られる。
見知らぬ人に声をかける煩わしさも必要ない。
正確なデータが赴く場所へ導いてくれる。
じつにスマートだ。

この違和感のもとが何なのか。
それは、もしかすると、彼らの中から「ここに暮らす」人が抜けているように感じてしまうからかもしれない。

ここを訪れる人が目指すのは場所であり、サービスであり、空間であり。
はたして、そこに生きる人を見ている人はどれほどいるのだろうか。
彼らが求めるものは、ここに生きる人たちが形づくっているのだと、どれほどの人が想像しているだろう。

いやそれは違うと言われるのかもしれないけれど、すれ違う人々は皆、見知らぬ土地にいるとは思えないほど、悠々と闊歩している。
旅というのはある種の心許なさを孕むものだと思っていた。
けれども、この街を訪れる人たちの表情にはそんな旅の翳りを認めることはあまりない。

もてなし過ぎているのでは、と思う。
受け取るだけの旅は、飽きられるのもそう遅くはないだろう。
丁寧に作り込まれた「旅」は、見まごうことのない満足のあとに、何を残すのだろうか。



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