見出し画像

2022年の気づき:非生産的で何が悪い

今日は大晦日だ。おおみそか。
改めて気づいたけど、大晦日の「晦」の字は一年を通してこの日でしか見たことがない。なんかすごい。どうでもいいけどすごい。

そう、最近になってハッキリ分かったことは、この「どうでもいいけどすごい」ことはとても尊い、悟空風にいうとてえてえ。


非生産的で何が悪い

今年は『楽しい自分でいるだけで正解』ということが、やっと理解できた気がする。

「#今日の積み上げ」というハッシュなタグを見かけることがしばしばあって、その都度へこんでいた。理由もわからず落ち込んでいた。

成長や積み上げは間違いなく素晴らしいことだということは理解している。バキ風にいうとワカっている。僕も「成長しようぜ」「成長するには〜」みたいなことをたびたび発信していたと思う。人とはそうあるべきだと思っていた。範馬勇次郎風にいうと、それがワカらん貴様は弱者のままなのだっ!失せろっ!と考えていたのだ。

でも僕は飽きっぽい性分だ。サボってしまうこともあるし、いやサボるどころか昔やったゲームの熱が再燃してドハマリした挙句気が付いたら2か月過ぎていた、なんてこともあって、そんなときに「#今日の積み上げ」なんてタグを見てしまうと、積み上げていない貴様は成長しないのだ、成果を積み上げないと人は堕ちていくのだ愚か者め!と言われているようで、スラムダンクの三井風に「俺は、なんてムダな時間を・・・」としばしばヘコんだ。


しかし、はたして、自分の趣味に没頭していた時間はムダだったのだろうか。愚にもつかないことで楽し〜ウヘヘヘジュルリ(盛大なよだれ)と愉悦に浸っていた自分はバカだったのだろうか。

そんなことはないはずだ。いや、ウヘヘヘと悦に入ってる様はどう見てもバカなんだけど、それでも否定したり改めたりすることではない。

どうでもいいとされることは軽視される。そりゃそうだ、どうでもいいんだもの。でもそれは誰にとってどうでもいいことなのか。ひょっとして、その判断基準は「世間一般から見て」とかだったりしてないだろうか。

もし、「どうでもいい」と「どうでもよくない」をそんな基準で切り分けてるとしたら、それこそ愚か・ザ・マックスと言わざるを得ない。


世間から見て生産的とされるものを積み上げなかったのは時間を無駄にしたのではない。その時間で非生産的なものを積み上げたのだ。それは遊び心だったり、独自の視点だったり、純粋な享楽だったり。

改めて書いてみると「なんだこの当たり前のことは。改まってバカじゃねえの」と思う。ただ僕は根がクソ真面目、ゲーミングお嬢様ふうにいうと、お排泄物ファッキン優等生気質だったので、楽しむことは努力の真逆のことでいけないこと、みたいな考えに取り憑かれていたのだと思う。

もうホントね、そういうのは2022年に置いていかないと。今はもう風の時代ですよ。積み上げることは素晴らしい、そしててえてえ。それは間違いない。でもそれが至高の価値観なんていう時代は終わってるのだ。


享楽的に生きろとか刹那的に生きろということじゃない、楽な方を選ぼうぜということでもない。その瞬間瞬間を楽しむことに、恥も引け目も感じる必要はないのだ。勉強が苦しい時は「この苦しんでる自分、サイコーにかっこいい」と悦に浸ればいいし、勉強をサボった時は「趣味に没頭してる自分、サイコーに楽しいウヘヘヘジュルジュル」と盛大によだれを垂らせばいいのだ。

大晦日の「晦」の字の意味とは。そんなことこそどうでもいい。それを調べてしまうと生産的になってしまう。「他に見ないなあハッハッハ」でいいのだ。

明日から新しい年だ。来年は非生産的なことを頑張ろうと思う。

とりあえず元旦の「旦」の字は「旦那」以外に見たことないことに思いを巡らせ、独り悦に入ろうと思う。

サポートされると嬉しさのあまり右腕に封印されし古代の龍が目覚めそうになるので、いただいたサポートで封印のための包帯を購入します。