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反抗的、冷笑的でなく、建設的に周りと関わりたいのに(The Beautiful Struggle) | きのう、なに読んだ?

「「弱さ」が言語化力と聴く力を育む」というnote を書いた。その前置きにあたるものをメモしておく。

先日、Ta-Nehisi Coates の The Beautiful Struggle (日本語版「美しき闘争」)が置いてあったのをパラパラと読んだ。スラングがよく分からなくて私の英語力では正直読みにくいのだが、なぜか惹かれるものがあった。

なぜ、惹かれるんだろう。

この作品だけではない。私はなぜか、マイノリティーとされる人々の書くものに惹かれる傾向がある。アメリカの言論空間におけるアフリカ系アメリカ人の言説や、依存症者の回復にまつわる「当事者研究」の考え方などだ。正直、そうした人々を支援する活動には特別肩入れしているわけではないのに。

自問して、マイノリティーというか、いわゆる「王道」とは違う立ち位置の人たちが、誇りを持ってフラットに自らの立ち位置を語る言葉と構えに、インスパイアされるからなのではないか、との仮説が浮かんだ。

とくに「誇りを持ってフラットに自らの立ち位置を語る」構えに、だ。

若い頃は周囲の大人からの、そして長じては「ふつう」を疑わない人たちが半ば無意識に発する「圧」を前に、私の願いや選択を伝えようとするとき、つい自分を疑ったり落としたり、自虐的な笑いに包んだりしがちだった。そうではなく、誇りを持ってフラットに語る言葉、論理、それを支える構えがある。「ふつう」に自分を合わせなくても、通じさせることができる。しかも「ふつう」との二項対立をするのではなく、エレガントに橋をかける。その点で、アフリカ系アメリカ人の言説や「当事者研究」は、私に取って希望であり、お手本なのだ。

そもそも、「言語化」「論理的に説明する」ことに私が意識と時間を向けてしまうのは、なぜだろう。それは、自分が周りと違うことにちょっと敏感で、同時に「自分を伝えたい、できたら分かってもらいたい」という気持ちが強いからかな、と思う。

「言語化」「論理的に説明する」ことに非常に長けた人たちが、私の周りにも何人かいる。属性でいえば、いわゆるマイノリティーではなく、むしろ社会的強者に分類される人がほとんどだ。でもその人たちは、例えば家業を継がないと決めたために家族と葛藤があったとか、優秀なもんだから「はだかの王様」で王様は裸だと指摘するこどものように正論が見えてしまうなど、周りの「圧」に直面してしまう経験をしている。自分の思いの「言語化」をがんばらないと周りと通じ合えない状況にあったようなのだ。

反抗的だったり冷笑的になるのではなく、建設的に自分の周り、それから社会に関わりたい。なんだけど、自分が「ふつう」とズレていて、自然体でふるまうだけではうまく関われない。「ふつう」の存在は肯定しながら、自分も過度に我慢することなく関わる道筋をひらかないと自分が壊れてしまうような、existential threat (存在の危機)を感じる。だから私も彼らも「言語化」によって自分と周りの橋渡しをしようとしている。

逆に「ふつう」とのズレがそこまで気にならないひとは、それほど言語化や論理化を詰める動機はないだろう。周りにふつうに流通している言葉と論理を使えば、周りと充分につながることができるから。

そんなことを最近考えていた。

昨日、全く異なる文脈で「群像」の最新号に掲載された論考を勧められた。見てみたら特集「『弱さ』の哲学」が、最近の考え事とすごく重なるので、メモがてらこの note を1本書きました。

今日は、以上です。ごきげんよう。

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