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身体、心、考え、言葉 | 「編めば編むほどわたしはわたしになっていった」(三國万里子) | きのう、なに読んだ?

三國真理子さんは人気のニットデザイナーだ。編み物の本を出版したり「気仙沼ニッティング」の商品デザインを手掛けている。その三國さんのエッセイ集「編めば編むほどわたしはわたしになっていった」の内容は、ニットとほとんど関係ない。新潟で育った子供の頃のエピソード、家族のこと、そして最近の暮らしのことまでがつづられているが、自伝とも違う。

三國さんは、記憶にある場面をショートフィルムのように読み手に見せてくれる。三國さんが見ていた景色や感じていたことを追体験させてもらえるような、豊かな場面描写だ。そして、決して長くないエピソードの1つひとつに、私の心に真っ直ぐに差し込んでくるような、どきっとするような一文が必ず入っている。

彼女にはわたしが知っている匂いがした。転校生という生き物が発する匂い。それはさっちゃんの、周りを窺うような、ぎこちない物腰から立ち上っていた。

「苺」

赤ん坊という無垢なものの要求に応え続ける、与え続けるということの幸せを初めて知ったけれど、それと引き換えに、わたしの個性の部分、ずっと一緒に育ってきた、自分の中のわがままな子供が無視され、弱っていくような感覚があった。

「うさろうさん」

「わたしよ、わたし!」と言っているようなみずみずしい大根をあっさりと料理して、ゆっくり味を探しながらいただくと、心が底からくつろいで、この世は天国だという気持ちがしてくる。
 それは息子も同じらしい。

「たい焼き」

三國さんは「身体で感じ取ったことが起点になって心が動く」ということに自覚的だ。そして、ご自身の身体感覚と心の動きを、第三者のように捉えて言葉にしている。だからと言って、冷徹さとか、自虐的な感じや暗さはない。基調はむしろ楽天的だ。

三國さんは、身体、心、考えがしっかりつながっている。つながったものだけを、つながりが分かるように、言葉にしている。

「身体性が大事」「自分とつながる」「セルフ・アウェアネス」などの概念が飛び交うような意識高いワークショップで感心している自分が、どれだけ薄っぺらいか。「どきっとするような一文が必ず入っている」と私が感じるのは、たぶん、身体、心、考えのつながりが弱いままに言葉だけを振りかざすような、自分のあさはかさにそっと気づかされているからだろう。

本書を手にしたのは、前職の同僚で編集をやっている人がメールで勧めてくれたからだ。「自社から出版するわけではないが、三國さんに『なにか書いてみませんか』と勧めた者として、機会があったら手にとってほしい」と。本の内容を紹介するページの案内も添えられていた。試し読みもできる。

私に良い本を勧めてくれて、ありがとう。三國さんに文章を書くように勧めてくれて、ありがとう。

今日は、以上です。ごきげんよう。

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