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屠所の羊

8月の終わり。盆も過ぎようとしている夜の海。押見とその恋人である麻宮はのんびりと海岸を歩いていた。
遊泳期間の終わった海水浴場程、落ち着いて通えるものはない。
盆の海には近寄るな。なんて少しばかり神経質になり過ぎだと押見は思っていた。盆を過ぎたらクラゲが出やすく、天候不順になりやすいから行くなと言っているだけだ。今日のように穏やかな海ならば、夜だって危険は少ない。海街で生きてきたからこそ海を知っているという自負があった。
だからだろうか。夜の海を泳いでみたい。と、夏の終わりに出来たばかりの恋人の言葉に二つ返事でいいといってしまったのだ。
 
月と星灯り。それと自身が持っている懐中電灯が足元と黒く色を変えた海を照らしている。浜辺から離れたところに建設されたばかりの道路から届く灯りは、帰るべき場所の導になっているようだった。夜半に砂浜を歩くというシチュエーションが、とてつもなく新鮮で楽しい。心が躍るというのはこういう瞬間の事を言うのだろう。
暗がりのなか麻宮の水着がうっすらと浮かんでおり、羽織ったパーカーは風にはためいている。その大胆な格好に、押見の胸は高鳴った。
昼のうちに用意していたボートを波打ち際に押し出し、麻宮を乗せると波に合わせるように押していく。膝近くまで水を感じてから押見もよじ登るようにして乗り込んだ。傾いたボートを立て直し、足をしっかりと拭いてからゆっくりと漕ぎ始める。岸から離れた事で、暗い海に攫われているかのような不安と恐怖が押し寄せて来たが、楽しそうな麻宮を見て口にしないよう空気と一緒に飲み込んだ。
麻宮はサーフィンやシュノーケリングについてなど様々な質問をしてきたため、それに答えながらひたすら漕いでいく。気が付くと、ブイにボートが触れて動きが止まった。
 
「夜の沖から見る陸ってキラキラしてるね~!」
 
麻宮は目を細め感動したと笑っている。つられて陸を見れば色とりどりの輝きがちりばめられており確かに綺麗だと思う。押見はオールから手を離し空を見上げた。邪魔な街灯がなくなっているからかいつもよりも星がはっきりと見える。赤く大きな満月に気が付き麻宮の肩を叩くと、麻宮が目を丸くした。
 
「赤い月ってあんまり見た事ないかも」
「珍しいよな。さっきまで普通の月だった気がしたけど……」
 
そこまで言ってから、急に最初に感じた恐怖が襲ってくる。珍しいと思った月が不気味なものに思えてきた。
 
「超レアだ! 連れて来てくれてありがとう!!」
 
もう戻ろう。そう言おうとしたが、嬉しそうな笑顔とお礼に言葉を飲み込む。せっかくのデートを自分の臆病風で台無しにしたくはなかった。
葛藤しながらももう少しだけいる事に決め、気持ちを切り替えるべく水に触れる。
海水はまだそこまで冷たくはない。掬って麻宮に軽くかけると、「やだぁ」と笑いながら同じようにかけ返してくる。
 
じゃれ合いを楽しむうちに恐怖は薄れていく。麻宮に変な気を遣わせなくてよかったと安堵し、少し海に入るか訊こうとしたところ、ブイの向こう側。ほんの少し先の方から声が聞こえてきた。
 
「おーい! 助けてくれ!」
 
切羽詰まった声に、二人同時に声の方を見る。見れば、影が二つ大きく動きながら助けを求めていた。
 
「ど、どうしたんですか!?」
 
反応を返すと、相手は友人と二人で夜釣りに来たが穴が開いてしまったのだと話す。密漁にあたってしまうため、連絡も出来ず困っていた。という身勝手な言葉に呆れつつ、麻宮に手を貸してもいいか訊ねる。
麻宮はブイの先に行かずに済むなら。と、条件を出し手助けを承諾した。
本来は救助を頼むべきだが、自分たちも遊泳禁止となっている海に繰り出している。あまり大事にしたくもないし、見捨ててニュースになった場合は目覚めが悪い。とりあえず、出来る事を訊ねると、何かバケツのようなものが欲しいと返ってきた。
 
「小さいものでもいいならあるけど。オール伸ばすから、掴んで船を寄せる事は出来ますか?」
 
「わかった!」
暗闇ではっきり姿は見えないが、ここから届く距離らしい。オールの先にバケツを引っかけ、落とさないように慎重に伸ばしていく。ぎしり。と、音を立ててボートが傾いたが、麻宮にブイを掴む様に頼み、転覆しないようには気をつけた。
伸ばしていたオールが止まり、バケツがするりと抜かれる。伸ばしたオールが相手に引っぱられぐらりとボートが揺れた。
 
「引っ張るな!」
 
オールから手を離してもらおうと叫ぶが反応はなく、ボートの揺れだけが増していく。
このままだとひっくり返るかもしれない。
そう思った押見は、麻宮をなるべく安心させようと笑顔を浮かべた。
 
「美月、悪いんだけど、ちょっと海に入っててくれるか?ブイ掴んでてくれたら危なくないから。オール離してもらってくる。待ってて」
 
相手が何を考えているか分からないからこそ、麻宮を連れていきたくなかった。
麻宮は不安そうに眉を寄せたが、大きく傾き海水が僅かに入ってきたことに焦ると、頷いて海に飛び込む。暗い海は怖いだろうと少し考えて防水ケースに入れていたスマートフォンを麻宮の首にかけた。
 
「もし俺が遅くなったら救助依頼してくれ。番号分かる?」
 
麻宮は小さく頷き、ブイを抱えるようにして掴んだ。泳げないわけではないが、夜の沖に取り残される不安はある。スマートフォンの明かりを押見に向けて、気を付けて。と、声を掛けた。
 
押見は軽くなったボートを傾け、ブイの上に乗せて向こう側に消えていく。麻宮はそこでふと、相手の姿がない事に気が付いた。ボートは見える。オールも見える。それなのに、先が見えない。
変だ。そう思った瞬間、オールに引っ張られるように勢い良く押見を乗せたボートが進んでいく。
 
「隆司!!」
 
声を張って名前を呼ぶが、返事が返ってこない。
おかしい。何かがおかしい。暗い海の向こう側から吹く風に乗って、叫び声が聞こえた気がした。何度も名前を呼ぶが、ボートの姿は見えない。急に海水温も下がった気がして、叫ぶように押見の名前を呼び続けた。
だが、帰ってくるのは風の音と微かに聞こえる悲鳴のような音。麻宮は泣きながらスマートフォンを操作した。
 
翌日。押見は海岸で発見された。
夜間どれだけ探してもみつからなかった押見であったが、朝になると腹を膨らませた状態で波打ち際に打ち上げられたのだ。
麻宮は警察にも呼ばれ事情を訊かれたが、ボートに乗ってた二人組は見つからず、押見の死は事故として片付けられた。
発見された押見の体に着いた無数の歯型と、身体を押さえつけるかのようについた手型に関しても、何一つ解明されないままだった。
 
翌年の盆。あの日と同じ赤い月が出る夜の海。麻宮は花束を抱えて波打ち際を歩いていた。あの時いかないでと言えたのなら。後悔に支配された一年だった。
 
「隆司、ごめんね」
 
泣きながら、波の引きに合わせて花を流す。
沖に消えていく花を見て涙を流す麻宮の耳に、懐かしい声が風に乗って響いてきた。
 
「そこに誰かいるのか?助けてくれ。ボートが沈みそうなんだ。水を出したいから容器を貸してほしい」
 
息が止まる。声は近くにあるのに、姿だけが見えない。あの日と同じだった。麻宮はざり。と音を立てながら後ろに下がると、波から逃げるように立ち去った。それ以降、麻宮が海に近づく事は決してなかった。

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