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「断罪パラドックス」   第2話

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 あの日、ふたりで行った図書館で私はお気に入りの本の続編を見つけて舞い上がっていました。当時とても人気のあった作品で、なかなか借りられなかったので、とても嬉しかったのです。そして、よせばいいのに、私はその本を数ページ読んでしまいました。

「お姉ちゃん! まだ?」

 もう帰るつもりでいた美穂からそう言われるのは当然でした。

「ごめん。もうちょっとだけ。きりのいいところまで読みたい」

「もう。この前もお姉ちゃん、そう言っておやつの時間に間に合わなかった」

 そう言って美穂が頬を膨らませて怒ってみせても、待ってくれることを私は知っていました。私は時々美穂の様子を伺いながら、児童文学や絵本が多く置いてある子ども用のカラフルな閲覧室で木製の小さな椅子に座って、時々顔を上げて美穂の様子をうかがいながら、楽しみにしていた続きに目を走らせました。美穂は自分が借りた本を入れた手提げかばんを私の側に置きました。忙しい母が私と美穂のために作ってくれたお揃いの手提げでした。十二歳の私でも幼くないように気を遣って赤と青と黄色の大柄のブロックチェックの生地で作られた手提げは私と美穂のお気に入りでした。

 美穂は本棚から本棚へまるで一人でかくれんぼをしているようでした。時々私に「まだ?」と口の形だけで催促してみて、私が首を振ると大袈裟にため息をついて肩をすくめてみせました。美穂らしいとてもかわいらしい仕草でした。

 過去に戻れるならと何度考えたか分かりません。戻れたなら私はあの本をすぐに閉じて美穂と帰ったでしょう。きりのいいところで本を閉じた時、美穂は私の側にいませんでした。

「美穂?」

 こういう時美穂は大抵私の様子を見計らっていて、びっくり箱のばねつきのお人形のように私の目の前に飛び出してくるのですが、この日は違いました。

 私は読んでいた本を自分の手提げにしまって、自分と美穂の手提げを一緒に持つと美穂を探しました。はじめはきっと私が慌てるのを楽しみにして、かくれんぼをしているのだと思いました。けれど、何十分だったか正確な時間は分かりませんが、段々とこれは冗談ではないかもしれない。と感じはじめたころには私はクーラーでよく冷えているはずの図書館内で大汗をかきながら美穂を探していました。

 もしも、すぐに通報していたら違ったでしょうか? 当時は今のようにスマートフォンや携帯電話もありません。私はひとりで美穂を探し続けて、その様子の異様さにようやく気づいた司書さんが通報や、両親に連絡をしてくれました。

 美穂は図書館のどこにもいませんでした。

 両親に連れられ私は家に帰りましたが、時間が経てば経つほどに今起きていることの深刻さが理解できました。自宅の前には警察車両が連なり、事情を訊かれる両親や祖父母。次第に、父と母は泣きながら口論をはじめてしまいました。

「お前が連れていけばこんなことにはならなかったはずだ!」

「私だってあなたと同じように仕事をしていたでしょう?」

「どうして本なんか……」

 父は全部言いませんでしたが、これは私に対する非難だとこの時も分かりました。私自身があの時あの本の続きに気を取られていなければと幾度となく考えたものです。だから父の考えがここに至ることも当然かもしれませんが、父にはそれを言わないでいて欲しかった。このことが原因で私はそれからというもの、もう以前のように父に甘えることはできなくなってしまいました。

 私も警察から図書館にいた時の事情を訊かれました。私が最後に美穂を見た時、美穂は高校生と話をしていました。私のこの証言が捜査を複雑にさせた。あの当時そう言われました。その非難も私の心に抜けない棘のように刺さっています。

 美穂が図書館で消えてしまった三日後、旧図書館近くの河川敷で変わり果てた姿になった美穂が見つかりました。

 絞殺でしたがあまりにもむごい殺され方でした。美穂は犯人に散々慰み者にされた末に殺されたのです。当時は「いたずら」という表現が使われていましたが、とてもそんな生易しい表現ではあの残虐な犯行は伝わらないと思います。被害者家族を気遣ってあのような表現にしたのかもしれませんが、私はいまだに納得ができていません。まだたったの七歳の女の子を執拗に強姦して死に至らしめることができるような鬼畜の存在をしっかりと世間の皆様、特にこの町の人の心に留めて欲しかった。なにしろ美穂を殺した犯人は今も捕まっていないのですから。

 そんな私の希望を汲んでくださって毎朝新聞社さんは事件の詳細を書いてくださいました。このまま事件が風化してしまうよりはすべてを明るみに出した方がいいという私の意見に二年前亡くなった私の両親もきっと賛成してくれたに違いありません。

 私はどうしても美穂が最後に話をしていた高校生が何者だったのか分からないのが気がかりなのです。そして、あの事件を紐解く鍵もあの高校生が握っているのではないだろうか? と思えて仕方ありません。

 美穂があの日着ていたブルーのギンガムチェックのワンピースには確かに犯人のものと思われる男の体液が付着していました。鬼畜は男に違いないことは確かでしょう。そのために私の証言は軽んじられたのかもしれません。
私は警察に何度もこう言いました。

「美穂は知らない男の人には絶対ついていかない。きっとあのお姉さんと一緒に図書館の外に出てしまったんだと思う」

 お姉さん。

 美穂と話していた高校生は女生徒だったのです。残虐な犯行をしたのは男に間違いはないでしょう。だから彼女は犯人ではないかもしれません。けれども犯人ではないからといって事件とは無関係だ、と考えるのは今考えても捜査が杜撰だったと言えるのではないでしょうか?

 私の証言はまるでこどもの戯言扱いでした。仕方がない部分もあります。妹が、美穂があんな死に方をして、ショックのせいなのか私はあの女生徒の顔をまったく思い出せなかったのです。もう忘れていてもおかしくない、母が作った手提げかばんの柄も、あの旧図書館の天井の色も、床の絨毯の模様も、美穂と一緒に座った絵本のコーナーのソファーのパステルカラーも私ははっきり覚えているというのに、どうしてもあの女生徒の顔が思い出せなかったのです。髪が長かったか、短かったのかさえも分かりません。

 私が唯一覚えているのがその女生徒が着ていた制服でした。

 そうです。この県立桜山高校の濃紺のブレザーです。全国的には、どこにでもありそうな濃紺のブレザーですが、T市では桜山高校だけでした。
三十年たった現在も制服が変わっていないというのは私にとっては苦痛でたまらないことのひとつです。

 町中で歩く女生徒の姿を見る度に歯噛みしてしまう私の気持ちを少しでもご理解いただけたなら、私が息子の久がこの桜山高校を志望すると言った時に反対したことも頷いていただけるのではないでしょうか。

 久はとても優しい子どもでした。私はシングルマザーな上開業医ですので毎日忙しく、慌ただしくしているのを知ってよく聞き分けてくれたのです。

 唯一、聞き分けてくれなかったのが志望校でした。

 そして、もうどうすることもできませんが、私は最後まで反対するべきでした。

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