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「断罪パラドックス」   第6話

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 私は中学校を卒業して、桜山高校へ入学した。受験にはお母さんがとても協力してくれたと思う。夜食を作ってくれたり、申し込みたい塾の講習や模試は全部お母さんがお金を出してくれたりした。私の受験にはそんなに興味がなさそうだったお父さんも、入試間近になったある日、太宰府天満宮のお守りをくれた。

 合格できてホッとした。女の人ひとりでも一生、生きていられる職業につくんだという意気込みで胸はいっぱいだった。

 高校生になっても、お母さんの抜き打ち検査はなくならなかった。私はどんどん自分が薄汚いみすぼらしいものに思えた。だから、あんな目に遭った時も、それは自分が汚らわしくて嫌らしいからだと思った。
 
 高校に入って少しだけ前向きになれたのは五十嵐先生のおかげだ。五十嵐先生の授業は時々脱線することもあったけれど楽しかった。国語の先生になるのもいいなと思った。入学して間もない、学活の時間に五十嵐先生がしてくれたジェンダーの話が私の心を打ち抜いた。

「男だから、女だからといったことは社会的文化的に作られたものです。あなたたちには男だから女だからという、知らず知らずに植え付けられている枠組みを外して、人と関わって欲しいし、将来のことを考えて欲しいと思う。とくに女子。ボーヴォワールの名言を忘れないで『人は女に生まれるのではない、女になるのだ』これがいったいどういうことなのかを考えてみてください」

 学活が終わると。教室から散り散りに消えるクラスメイトに先生は高らかにさよならと声をかけていた。その先生がひとりになるのを私は待った。

 五十嵐先生は教卓の上にあったものをまとめて、抱きかかえると顔を上げた。教室の中はもう私と五十嵐先生しかいなかった。どうしようか本当に迷った。聞いてしまったらもう、言葉は戻ってこない。でも、聞かずにはいられなかった。グズグズしている私に、五十嵐先生は優しく尋ねてくれた。

「二村さん? どうしたの? 何か相談したいことでもある?」

 私は息を深々と息を吸ってから、全部吐き出すように質問をした。思い切って言ってしまわないと一生聞けないような気がした。

「先生、先生はさっき男女の性差は社会的、文化的に作られたものだとおっしゃいましたよね?」

「ええ。そのとおりよ」

「あの……。それは肉体的な欲望においても同じだと思いますか?」

 先生はまっすぐ私を見た。私は自分の心臓の音が先生にも聞こえてしまうのではないかと思うくらいどきどきしていた。私の緊張が伝わったのか、先生は私をなだめるように微笑んだ。そして、真摯に答えてくれた。

「それも、同じはずだと先生は思うかな。ただ男女ともに興味がある人と興味が薄い人の差はあると思う。そうだ、二村さん、ちょっと一緒に職員室に行きましょう。ちょうどいいものがあるから」

 五十嵐先生はとても優しい口調でそう言ってから、私は廊下をスタスタと歩く五十嵐先生の後を追いかけた。職員室の自分の机に座ると五十嵐先生は事務机の鍵を回して一番下の引き出しを大きく開けた。そこには二十冊くらいの文庫本が入っていた。先生はそこから数冊選んで私に手渡してくれた。

「これは?」

「女性の著者が性について書いている小説よ。二村さんが何に悩んでいるのかははっきりとはわからないけど、ひょっとしたら、悩んでいることの助けになるかもしれないから。小説の中のことはもちろんフィクションで実際とは違うかもしれないけれど、でも実のある嘘が描かれているから読んでみるといいんじゃないかな。それから、ボーヴォワールの『第二の性』も古い本だけれど、何かヒントがつかめるかもしれないわ」

「ありがとうございます」

 私は小さく会釈をして、逃げ出すように職員室を後にした。

 私は先生から借りた本をむさぼるように読んだ。そして、私が興味を抱くのは自然なことなのかもしれないと思いはじめた。小説の中で自分の「性」を謳歌する女性の姿は私を励ました。色んな小説が面白くて、三冊でそれぞれが分厚いボーヴォワールの『第二の性』を、なかなか読みはじめることができなかった。私はこのことを今ではとても後悔している。

 五十嵐先生と読んだ本の感想を話しているうちに、私の心はどんどん軽くなった。

 それでも、いつまでたっても、よく分からないのはお母さんの私に対する行動だ。どうして、お母さんは私を見張りたいのだろう? お母さんはひょっとしたら性に対する興味が薄い人なのだろうか? でも、それならどうして私の布団を引き剥がしてわざわざ確認するのだろう? 興味が薄いなら、ほっときたいものではないのだろうか? いくら考えてもお母さんがいったいどういうつもりなのかはよく分からなかった。

 先生から借りた本を読んで、自分でもいろんな小説や性教育に関する本を読んだりウェブサイト閲覧したりしていくうちに、なんだかホッとしたけれど、ホッとすればするほど、お母さんの行動の理由や原因の謎が深まるばかりだった。
 


 五十嵐先生のおかげで少し自信がついた私は、ゴールデンウィークにSNSで知り合った男の人に会ってみることにした。いつも私の話をよく聞いてくれる人だった。しつこく写真を送るように言ったりしない人だったし、すぐに返信しなくても催促しないのに私にはすぐ返信してくれる人だった。

 家の近くで待ち合わせるのは怖かったから城跡にある大きな池の前で待ち合わせることになった。ショウさんというニックネームで登録していたその人が現れた時、正直がっかりした。写真と全然違っていたからだ。男の人も写真の加工とかするんだな、と驚いた。しかもその加工の仕方が明らかにフォトショップとかでプロも真っ青の技術を駆使したのだろうなと思わずにいられないものだったからだ。

 目の大きさから、体つきから、さらには髪まで加工で変えていたから写真ではせいぜい二十代前半だと思ったのに、実際のショウさんは小太りで頭髪もさみしく、三十代か、もしかしたら四十代かもしれないなと思った。ただ、しゃべり方の快活さはやりとりした内容に似ていたし、優しくて親切だった。

「どこでも連れて行ってあげるし、なんでもごちそうするから」

 車に乗るように言われて私は首を振った。

「今日はそんなに時間がないので、今日はここで少しお話したいです」

「そんなに僕のこと疑わなくてもいいでしょ? 瞳ちゃんとは何度もメッセージのやりとりをしてるんだから」

「はあ……」

 なんだか強烈な違和感があった。

 メッセージのやり取りをしていた時のショウさんから一切感じなかった強引さに私は身構えた。私が黙っていると、ショウさんは深々と溜息をついた。

「今日は瞳ちゃんと出かけられると思って楽しみにしていたんだけどな」

「ごめんなさい」

「いいよ。今度はどこか行こうね」

「……はい」

 イエスと言わされた気がしたけど、それ以外の返事も私には見つからなかった。

「瞳ちゃん、桜山高校だったよね?」

 ショウさんがにこやかにそう言った時、なぜか焦りに似た感覚で手の平が汗ばんだ。

 それからショウさんと話し続けた。メッセージでは気遣いの人だったはずのショウさんは、私がほとんどうわの空なことには気づかずに、自分の話ばかりしていた。気づけば三時間もたっていて、話しつかれたのかようやく帰る気になったショウさんに別れを告げた。車を見送った時にものすごくホッとした自分に気づいた。

 私は家に帰ってからSNSを開くと、そっとショウさんをブロックした。


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