「断罪パラドックス」 第7話
SNSで誰かと話すのをやめて、私は本を読んだり、友達と話をしたりするのを楽しんだ。ショウさんに会ったことでなにか憑きものみたいなのが落ちてしまった。確かめたかったことが全部確かめてしまったのだと思う。家の中では相変わらずお母さんに「汚らわしい」「嫌らしい」と言われ続けたけれど、前ほどお母さんの言葉は刺さらなくなった。もしかするとお母さんが本当に怖いのは……。お母さんが本当に怖がっているものがなんなのか、つかめそうになったころ、事件は起きた。
五月の終わり、塾からの帰り道だった。塾の最後の授業が終わるのは十時十分。塾までは家から自転車で二十分だ。本当はこの時間に自転車で帰るのは嫌だったけれど、迎えに来て欲しい理由をお母さんに言うときっとこう言われる。
「瞳ちゃん、隙を見せないことよ」
だから、迎えに来て欲しいと言えたことがなかったけど、隙を見せないって、どうやって? と以前お母さんに聞いた時「そんなことも分からないの」と曖昧な言葉しか返ってこなかったのを覚えている。お母さんのロジックだと隙を見せなければ、危ない目には遭わないということなのだろうけど、どう考えてもそんなこと無理なんじゃないかなと思う。むしろ、隙を見せないために車で送迎されるのが正解なんじゃないかと思うけど、お母さんとはいつも会話が成立しないから、塾の講義が遅い日は、ちょっと怖いな。と思いながらも自転車のペダルを力一杯漕いで家まで帰った。十時を過ぎると、信号機のほとんどが点滅になる。そうすると、左右を確認しながら、自分で動くタイミングを見極めなければいけない。
よし、と思って横断歩道を漕ぎ出したら左折した車がぶつかってきた。やけにゆっくりした動きだったように思うけど、私は自転車ごと横断歩道に倒れて、あちこちをぶつけた。アスファルトで擦りむいた膝がヒリヒリと痛かった。街灯の灯りだけでも、擦りむいた範囲が広いことが分かって、その傷口を見るだけでズキズキと鳴るような痛みが増した。しばらくすると、ぶつかってきた車のドアの開け閉めする音が聞こえて、運転手が下りてきたのだと思った。まだ起き上がれていない私は下を向いたままだった。
「すいません。救急車呼んでください」
そう言ったけど運転手には聞こえてないみたいだったから、もう一度言おうと顔を上げた瞬間、私はひゅんと息を飲んだ。
「ショウさん?」
一度しか会ってないけど、あまりの写真の加工のインパクトで強烈に記憶に残っていた。
SNSで知り合ったショウさんが私の前に立ちはだかる。
「あれー瞳ちゃん? 大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「最近連絡なかったけど、元気だった? そのケガ大丈夫じゃないでしょう? 送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です」
大丈夫じゃないかもしれないけれど、ショウさんから離れたかった。
私は痛む膝を無視して、自転車を起こして押して歩いた。
ショウさんは車でぴったりと付いてきた。
このまま家まで来たらどうしよう、と私はパニックになった。
「瞳ちゃん、自転車こげないでしょ? 乗りなよ。うち近いから手当してあげる。ね?」
私の選択肢は二つだった。このまま家に帰ってショウさんに家がバレてしまうか、ショウさんについていくか。
お母さんか、ショウさんか。
私はショウさんの車に乗ってしまった。
ショウさんの家は確かに近かった。築浅のワンルームのアパートだった。
部屋の中に押し込まれるように入れられて、ソファーに座らされた。
「うわあ。膝ひどいね」
ショウさんは私の脚をわがもののように触った。驚いた私が体を固くしたのが、よくなかったのかもしれない。実際はよくわからないけれど、ショウさんが私に覆いかぶさってきた。
「瞳ちゃん」
ショウさんは息を荒くしながら私が身じろぎするのを封じ込めるみたいにショウさんの体重が乗った。身動きが一つもできなくて怖かった。「やめてください」の一言がどうしても言えなかった。ただ、ただ怖かった。
「瞳ちゃん、いいでしょ? エッチなことに興味があるって言ってたもんね?」
たしかに会おうとは思っていなかったころに、メッセージアプリでそんな悩みを話したかもしれない。ショウさんのことをいい人だと思っていたから、いろんなことを話しすぎてしまったと思う。
怖くて、何も言えない中、ショウさんの作った勝手なストーリーは進んでいった。
私にできたのはそのストーリーが、一秒でも早く終わることを考えることだけだった。
自転車を置いてきた事故現場に私が戻れたのは事故からもう二時間は経っていた。スマホを見ると、お母さんから沢山着信があるのが確認できた。お母さんにどんな風に言うか、三回練習してから電話をした。
「瞳ちゃん? どうしたの、遅いじゃない! 今どこにいるの?」
「お母さん、ごめん。私自転車ごと河川敷に落ちて気を失っていたみたい。今から迎えに来て」
「もう! 何してるの? 大丈夫」
「うん。骨とかは折れてないみたい」
電話をしてから十五分くらいでお母さんは現れた。私は何があったかを絶対お母さんに知られてはいけないと思った。私に今さっき起きたことをお母さんが知ったら、私はあの家に住むことさえできなくなるだろう。
お母さんは傷ついた自転車を見て、私の言うことに納得したみたいだった。
家に帰ると私は体中を何度も何度も洗った。目を閉じると思い出してしまうから、シャンプーが目に入っても目を開けたまま洗った。痛いのとつらいのと悲しいのとで、涙が止まらなかった。
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