夏の匂いの人

夏の匂いの人5

「すみませーん」

 花の配達がある時間には、自然と麦茶を準備するようになっていた。けれど聞こえてきた声は、いつもと違うもので時雨は戸惑った。
 普段なら、國谷は縁側に来てくれる。声は玄関からで、縁側の方にいた時雨が慌てて玄関の戸を開けると、國谷よりも若い青年が花を抱えていた。

「配達ですー」

 伸びた語尾が、若さを感じた。時雨が抱えるには重すぎるので、縁側に回ってもらい、準備していた麦茶をついでに差し出した。「わ、ありがとうございますー!」と元気よく受け取った青年は、國谷がゴールデンレトリーバーだとすれば、小型犬のような愛嬌の良さだった。

「あの、いつもの人は」
「いつもの人?」
「いつもは、國谷、さんが来てたから驚いて」

 青年は首を傾げて、

「俺、最近バイトで入ったんですけど、國谷さんって人はいなかったですよ」

 がん、と頭を殴られたようだった。
 花を置いて帰って行った青年は何の悪気もない様子で、嘘をついているとも思えなかった。
 國谷と会ったのは、先週のことで、街から家に送ってもらって以来だった。その時には、國谷は何も言わなかった。
 まるで、幻のような。あの時のことは夢だったのではないかと、時雨は一瞬本気でそう思った。國谷という男はどこにも存在していない、自分の想像の中で作り出した人間なのではないかと。
 咄嗟に携帯を見て、息が詰まった。
 個人的な連絡先など知っているわけがなかった。そもそも、連絡する間柄でもない。連絡してどうしようというのか。
 國谷にとって時雨はお得意さんで、國谷はただの花屋だった。それ以上でも以下でもない。

「…………」

 ただ、この感情は何なのか。時雨は知らなかった。

          *

「っ…………」

 ぱちん、と花を切って、はっと意識が戻った。ぼんやりしていたせいで、切りすぎてしまった。もうこれは駄目だな、と時雨は正していた姿勢を崩した。
 あれから、國谷が顔を出すことはなかった。アルバイトの男の子はとても気が利き、明るく良い子ではあったけれど、やはり國谷のことは知らないと言った。
 調子が狂う。ここ最近、時雨は自分が思うような華を生けていなかった。久しぶりのスランプに戸惑う。
 何かが変わったわけではない。いつものように時雨は一人で大きな家で過ごしていたし、関わる人間もそう多くは無かった。毎日の生活は何も変わらずに、ただ淡々と流れていく。
 違うのは、ただ一つ。時雨にはわかっていた。けれどどうしてこんなに感情をかき乱されるのか、わからなかった。

「え……?」

 ぽた、と花に水滴が落ちた。自分が泣いているとわかって、時雨は戸惑った。手の甲でぐい、と拭っても、それは次々と零れ落ちた。

「なん、で、」

 何でこんなに悲しいのか。感情が揺さぶられるのか。
 誰も教えてくれなかったから、時雨に答えはわからなかった。
 ただただ、涙が自然と零れた。

          *

「ごめんな、急に入ってくれたんだって?」
「全然大丈夫っすよー!ちょうどバイト増やしたいと思ってたんで」

 花屋のバックヤードで、國谷はアルバイトで入ったという青年とようやく顔を合わせた。彼はバンドとアルバイトで生計を立てているらしく、店長の遠い親戚にあたるのだという。
 一ヶ月近く、國谷は花屋から離れていた。もともと店長に了承を得てのことだったが、そのヘルプで入れ違うように青年が期間限定のアルバイトに入ってくれていた。当然、青年は自分はヘルプだとは聞いてはいたけれど、國谷の名前も存在も知らなかった。

「今日で俺もバイト終わりっすね。最後、配達行ってきます!」
「あ、いや、俺が行く」
「え?」
「山のお屋敷の方だろ?俺も用事があるから」
「あの華道家さんですよね。綺麗な人ですよねー」

 綺麗な、という言葉に國谷は無意識に口をきつく結んだ。

「最近元気が無いっつーか、具合悪そうで気になってるんですよね」
「え…………」
「日に日に顔色悪くなってるし、痩せたなーって」

 國谷は慌ててエプロンを外し、ロッカーに引っかけてある配達用の車のキーを取った。遠くで、國谷さんどうしたんですか!と青年の声が届いたけれど、聞こえないふりをした。
 青年が準備してくれていた花を積んで、車を走らせた。もう秋に近づいてとはいえ、残暑が厳しい季節だった。あの人のことだから、また不用心に縁側でうたた寝をして体調を崩したとか、夏バテでまともに食事をしていないとか、想像は容易かった。
 一ヶ月ぶりにみた屋敷は、しん、と静まりかえっていた。花を抱えて、いつものように縁側に回る。縁側から覗いた先で時雨は華を生けていることが多かったけれど、家の中はしんと静まり返っていた。

「時雨さん」

 出かけているのか?と思いつつ、家の中へ声をかけた。がたんっ、と大きな物音がして、ばたばたと慌ただしく足音が近づいてくる。そんなに急がなくてもいいのに、と國谷は苦笑した。

「く、にや、っ……」

 現れた時雨の姿に、國谷は目を見開いた。
 もともと細かったけれど、随分と痩せてしまっていた。隙も無く着ていた着物はよれていて、鋏で怪我をしたのか指先には絆創膏が貼られてあった。
 驚いているような、泣き出しそうな、恐怖も含んだような、表情だった。
 崩れ込みそうになった時雨を、國谷は抱き留めた。時雨は拒絶することなく、國谷の大きな腕の中に落ち着いた。

「時雨さん、どうしたんですか」
「何で、何で来ない」
「え?」
「なんで、黙っていなくなった」

 時雨が痩せてしまったのは、こうして精神的に不安定になってしまったのは、『自分』のせいだと國谷は思ってみなかった。腕の中で震えて泣く時雨に、戸惑いとともに愛しさが湧いた。

「……時雨さん、俺がいなくて寂しかったんですか」
「…………」
「なんでそんなこと言うんですか。期待しますよ、俺」

 ここで素直に頷かないのが時雨らしくて、國谷は見えないように笑った。

「俺、祖父母に育てられたって話しましたよね。この前、三回忌だったんです」
「あ……」
「実家はここから少し離れたところで。今は誰も住んでないし、管理も難しいから、これを機に取り壊そうと思って。家の片付けもしないとだし、まとめて休みもらってました」

 時雨がやっと身体を離して、けれど國谷を見ないように目線を反らした。すん、と鼻をすするのが、いつもより幼く見えた。

「時雨さんはお得意さんだけど、あくまで『花屋』のお客さんだし……わざわざそんなこと言わなくていいって、拒絶されるのが怖くて黙ってました」
「…………」
「でも、すみません。言うべきでした。時雨さんが俺を待ってくれてるなんて、思ってもみなかった」

 時雨の大きな目から零れる涙を、國谷はそっと親指で拭った。

「『そういう』意味だって、俺、受け取ってもいいですか?」
「っ……わからない、そんなこと」

 時雨の目が、不安で揺れた。

「こんなこと、初めてだから、わからない」
「じゃあ、勝手に解釈しますね」
「なっ……」

 慌てて時雨が顔を上げると、意地悪そうな口調と裏腹に、嬉しそうに目尻下げた國谷と目が合った。

「好きです、時雨さん。俺、時雨さんが好きです」

 言葉を失った時雨の口を塞ぐように、國谷の影が重なった。

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