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夏の匂いの人7

 品評会の打ち合わせのために街を訪れた時雨は、予定を終えて國谷が働く花屋に向かっていた。いつもは配達をお願いするため、店に行くことはそう多くはない。
 前も同じことしたな、と回顧しながら、時雨は店には入らずに遠くから店内を覗き見た。
 花屋に似合わない長身が見えた。店には父親と母親と小学生くらいの少女がいて、國谷は膝に手をついて何かを聞いていた。
 少女が笑って、いくつか花を指さし、國谷が抜き取って花束にしていく。どう?と大きな身体をかがめて見せると、少女は花の咲くような笑顔で頷いた。伝染したように、國谷も幸せそうに笑う。
 絵に描いたような家族。國谷は眩しそうに、去っていく三人の背中を見て目を細めていた。
 時雨にとっても、眩しかった。過ぎ去った時は戻らないし、テレビの中で見た家族像は、いつまでも憧れでしかない。母が死に、父が死に、大きなお屋敷で一人住む時雨には、永遠に訪れない陽だまりの光景だった。

「…………」

 あぁ、と時雨の胸に何かがストンと落ちた。
 なぜ『足りない』と思うのか、心の中に靄のように纏わりついて取れない違和感に、やっと気付いた。
 好き、という気持ちのその先、それが何を生むのか。何のためにあるのか。何となく、腑に落ちた。

 國谷には、家族がいなかった。
 時雨にもなお、家族がいなかった。
 家族ごっこでしかなかった。同性であったし、時雨は家族を知らなかったし、それどころか、人を好きになるという感情もわからなかった。
 國谷はまだ、それを知っていた。育ててくれた親代わりもいた。時雨とは違う、温かさを知っていて、それを他人に与えられる人だと、時雨は思った。自分にしてくれているみたいに。

 その優しさは、自分に与えられるべきものだとは、到底思えなかった。
 それは、意味のある感情だとは思えなかった。
 その優しさは、何も生み出さない。

 絶望はなかった。また時雨は前と同じように、一人に戻るだけだったから。
 踵を返してバス停に向かいながら、時雨はメールを一通、國谷に送った。

            *

 『会いたくない』と端的に送られてきたメールを見ながら、國谷はエプロンの紐を外した。素っ気ない文面はいつものことだったけれど、こう言われるのは初めてだった。
 予定が伸びたのか、仕事が忙しいのか、その文面では読み取れなかったけれど、ここまではっきりと拒絶されたことはなかった。
 言葉にしないけれど、時雨は自分に好意を持ってくれているという確信はあった。会話の端々や、表情や、緊張しながらも國谷の手を受け入れてくれる優しさは、嘘だとは思えなかった。

『会いたいです』
『ごめん』

 約束を反故にするような人ではない。会いたくないなりの理由があるはずだと、國谷は時雨からの返信を無視して、バイクに乗った。
 時雨の家に着いて、いつものように縁側に回った。バイクの音に気づいたのか、庭にいたのであろう時雨が慌てたように砂利を踏むのがわかった。

「時雨さん」
「っ……」
「待ってください、逃げないで」

 縁側から屋敷に入ろうとする時雨の手を握ってその場に留めた。

「ここで、いいんで」
「……」

 國谷が縁側に腰を下ろすと、一人分空けて時雨が座った。俯いた顔は、表情が見えなかった。

「ごめんなさい、押しかけて」
「……」
「……あの、俺、何か嫌なことしましたか」

 急に『会いたくない』と言われるようなことを、した記憶は全くなかった。

「……わからない」
「何がわからないんです?」
「どうして、好きだと言われるのか」

 また一人で考え込んだしまったのだろうと、時雨の不器用さに愛しさを覚える。

「それ、理由いりますか?」

 ぎゅう、と時雨が膝の上で拳を握っていた。

「意味がない」

 一瞬、その言葉を咀嚼できずに國谷は固まった。
 否定された方がまだ良かった。好意に応えられないと言われた方が良かった。それはまだ、國谷の気持ちを受け止めた上でのことだから。
 時雨の言葉は、これまでの國谷の感情全てを全く無意味だと切り捨てて、無視するのと同義だった。

「ごめんなさい」

 今までで一番、時雨の冷たい声だった。

「もう、ここには来ないで」

 大事にしてきたつもりだった。ゆっくりと、蕾が咲くように心を許していく時雨に、優しさだけを与えてきたつもりだった。

「……どうして、そういうこと言うんですか」
「ごめんなさい」
「意味がわかりません」
「ごめんなさい」

 俯いてそれだけしか言わない時雨の、頬を掴んで顔を上げさせた。驚いたように見開いた時雨の目は、赤くなっていた。

「んぅっ……!」

 乱暴にキスをした。抵抗するように國谷の胸元を掴んだ時雨を力づくでねじ伏せるのは、簡単だった。
 縁側に時雨の身体を倒し、覆いかぶさるようにして、

「……いや、だっ……」

 ぱんっ、と音とともに、國谷の左頬が熱くなった。時雨が右手をあげたまま、自分がやったことを信じられないという風に驚いている顔をしていて、叩かれたのだとやっと気付いた。

「……俺、納得できません」

 やっと絞り出した声は、掠れてしまっていた。

「なんで急に、俺が何か」
「帰って」
「時雨さん」
「お願いだからっ……」

 両手で顔を覆うようにして、時雨が震える声で言った。泣いているんだと國谷はわかったけれど、涙を拭ってやることも、抱き締めてやることもままならず、静かに身体を起こして時雨から離れた。

「……乱暴なことして、ごめんなさい」

 時雨は縁側に倒されたまま、身体を丸めて震えた。

「風邪、引きます。中に入ってください」
「…………」

 きっとこのまま、一人で泣くんだろうと思った。國谷は一度屋敷の中に入り、持ってきたブランケットを時雨にかけた。
 触れようと一度伸ばした手を、空中で握り締め、静かにその場を後にした。

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