夏の匂いの人6
夕暮れ時の風が、さらりと時雨の頬を撫でた。秋が近づき始めて、微かに冬の匂いがする。人通りの少ないこの屋敷の周りには虫の鳴く声だけが響いていて、そこに混じるバイクの音に、時雨は静かに顔を上げた。
正座していた足を崩して立ち上がると、じわりと脚に血流が戻る感覚がする。軽く伸びをして、切った花と鋏を片付ける。
じゃりじゃりと、庭の砂利を踏む足音がした。彼はいつだって、玄関ではなく縁側からやってくる。
「あのー……」
屋敷の中を伺うような、間延びした優しい声に、時雨は静かに笑った。勝手に入ってきていいと言ったのに、彼は必ず時雨の許しを待つ。洗った手をタオルで拭って、時雨は縁側に向かった。
ちらりと廊下から顔だけ出すと、國谷がすぐに気付いて破顔した。
「時雨さん」
目尻を下げた、大型犬を彷彿とさせる笑い方に、時雨は胸の奥がきゅっとなるのがわかった。
おじゃまします、と國谷は大きな身体を折り曲げるようにして屋敷に上がり込んだ。
「これ、頼まれてきたもの、買ってきました」
「ん、ありがとう」
野菜が入ったスーパーの袋を受け取って、二人揃って台所に向かった。
一緒に料理を作って、食事をするのが日課になっていた。食事の後は縁側で涼みながら他愛ない話をして、國谷は帰っていく。初めて時雨が國谷の大きな腕に包まれた日から、毎日、同じことを繰り返す。
「それじゃ、俺、帰りますね」
そう言って、國谷は来た時と同じように、縁側から出て行く。縁側に二人並んで座ったまま、國谷はそう言って立ち上がった。
「……ん」
小さく頷いた時雨の頬をそっと撫でて、軽く触れるだけのキスをする。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
そうしてまた一つ、夜が更ける。
*
この感情の名前を何というのか、國谷が言った「好き」とは何なのか、時雨にはわからなかった。特異な家庭環境にあった時雨に誰も教えてくれなかったし、自然と学び得るほど、友人もそう多くは無かった。
「俺、こうやって家で誰かと飯食うの、久しぶりです」
國谷はそう言って、美味しそうに煮物を頬張った。
育ての親、祖父母が亡くなってからは一人で過ごしてきたと、國谷が言ったのを時雨は覚えていた。時雨も一口食べて、そうか、と返事をする。
「……あの、嫌だったら、言わなくていいんですけど」
「なに」
「時雨さんは、ずっと一人で住んでるんですか?」
他に家族はいないのかと、暗に聞かれているのはわかった。隠していたつもりはなかったけど、自ら進んで言いたいほど、良いものでも無かった。
言葉が淀んだ時雨を気遣って、先に國谷が口を開いて話を逸らした。
「今の、気にしないでください。そういえばこの前、」
「いい、國谷。ありがとう」
いつかは話さなければと、思っていた。
厳格な、父だった。母の顔は知らずに育った。物心ついた頃にはいなかったので、長らくそういうものだと思っていたくらいだった。
父は華道家で、流派の跡継ぎだった。正確には、母方の流派を継ぐために、婿養子に入ったと聞いている。だからこそ、母なき家では肩身が狭かったのかもしれないし、流派を守らなければという使命感も強かったのだろうと、今になって思う。
だからこそ、父は人一倍厳しかった。幼少期から華道のなんたるかを教えられ、一通りの礼儀作法を叩き込まれた時雨は、友達と遊ぶ暇すらなかった。高校生になる頃には華道家として独り立ちできるほどになっていて、その頃を境に、父は表舞台から姿を消した。
自分の使命は果たせたのだと、抜け殻のようになった父は、いつも縁側で一人佇んでいた。そうして気づいた頃には、肺炎を拗らせてあっという間に死んでしまった。
だから時雨にとって、家族で囲む温かい食卓というのは、テレビの中の世界でしかなかった。
「一人ぼっち同士ですね」
時雨が話し終わると、國谷は優しい顔でそう言って笑った。
「誰が一人ぼっちだ」
「時雨さん、友達いなさそうですし」
「なっ……」
「……あ。いや、悪い意味ではなくて、近寄りがたいというか、その、遠くから見ておきたいというか」
時雨が自分の茶碗を重ねてさっさと立ち上がると、背後で「ごめんなさいって!」と慌てた声が追いかけてきた。
作法に厳しかった父は、食事中の会話を許さなかった。一言二言話して、あとは黙々と箸を動かすのがこの屋敷のルールだった。
一人ぼっちと一人ぼっちの、たった二人だったけれど、少しだけテレビの中の世界に近付いたようで、時雨は年甲斐もなく、小さく笑った。
「時雨さん、明日予定空いてますか?」
洗い物を終え、縁側で涼みながら國谷が聞いた。
「明日……は、街に行く用事があるけど、夕方には終わる」
「ちょうど良かった、俺、明日早番なんで、夕方から出かけませんか?」
ずっと家で過ごすのも飽きるかな、と時雨が承諾の意で頷くと、國谷はパッとあからさまに嬉しそうな顔をした。
「……そんなに喜ぶことか?」
「そりゃあ、だって、初めてのデートじゃないですか」
デートというのは、好きなもの同士がすることだという知識くらいは、時雨にもある。
「デートなのか、それは」
「え、じゃあ何なんですか?だって俺、時雨さんのこと好きなんですよ」
「……何回も言わなくていい」
「わかってないみたいなんで、わかるまで言い続けます」
好きであれば、デートをする。食事をしたり、手を握ったり、抱き締めたりする。それは理解しているけれど、時雨が知っているそれとは何かが違っていた。何が違うのか、なぜ『足りない』気がして、どこか寂しくなってしまうのか、時雨は答えに辿り着けなかった。
「時雨さんも、俺のこと早く好きになってくれたらいいんですけど」
國谷が悪戯をするような顔で笑った。
國谷の気持ちを疑ったことはなかったし、それを嫌だとは思わなかった。けれど同じものを返せるかどうかわかるほど、時雨には人との関わりが少なすぎた。
引き寄せる手を、体を包む大きな腕を、広い背中を、重なる唇を、嫌だと思ったことはないけれど。
「急かすつもりはないので、ゆっくりでいいです」
すべてわかっていると言うように、國谷が戸惑いまで全部包み込んでしまうから、時雨は安心して近づく影に合わせて目を瞑った。
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