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徳川家康さま☘️をたどる#51☘️沼田仕置き・北条攻めを通して学ぶ家康さま🤣💦

初筆 2023年 9月 9日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける:徳川家康さま☘️をたどる#51
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1580年代半ば、小牧長久手の戦の前後、徳川家は財政的に逼迫していた。さらに上洛や外交でお金は飛ぶ一方💦

  • 家康さま取り急ぎ臨時徴税の五十分の一役を徳川本領国限定で徴収。

  • いつまでも臨時徴税に頼るのではなくて、本格的な検地を行い、税額を把握、村々と書類を交わした。

  • さらに徴税を通して七箇条定書制定で、無理強いする代官・地頭を抑え、領国内に経済的な和平を確立することで、安定した税収を得る努力を始めた❗️


⬇️前回はこちら❗️


3 沼田領問題の解決

1582年・天正15年の天正壬午の乱を受けて
家康さまが北条氏との和議・国分協定において、
元真田領である上野・沼田を真田昌幸さま無許可で、
北条氏に渡してしまったために、
第一次真田合戦が起こったりして
真田昌幸さま・家康さまはその領国をめぐって
対立が続いていました。
そりゃ、真田昌幸さまから家康さまに従属していても
愛着のある沼田の地を自分に相談なく、
無償で他家に渡されるのは受け入れ難いかと💦💦

真田昌幸さまが秀吉さまに臣従、家康さまも臣従、
また北条氏政さま未上洛ですが、
親族の北条氏規さまが上洛、北条氏も秀吉さまに臣従と
当事者がみな秀吉さまに臣従したので、
当事者だけでは解決しがたい真田領仕置きは
秀吉さまが以下のように裁きました。

  • 豊臣政権下において、真田氏を徳川氏付けの与力小名とする。

  • 沼田・吾妻のうち2/3相当の、沼田城のある上野国利根郡つまり沼田領ほぼ全域を相模北条氏の領国とする。

  • 吾妻郡はそのまま真田領

  • 家康さまは沼田の代替地を真田昌幸さまに渡すこと

至極当然の裁きかと思います。
家康さまも上記の状態にするのを
少しずつ方々に納得してもらったり
待ってもらったりしながら進めれば
モンダイ発生しなかったのかな、という気が
しないでもないです💦💦

もしかして、家康さませっかちなのか❓💦
あるいは、これまで徳川家内で行ってき領国仕置きは
徳川家ローカルのもので、家臣一同が常識として持つ
暗黙の了解の上に成り立っていたもので、
そこを明文化しつつ外交を進めることに、
この時点で家康さま、不慣れだったのかもですね🤣💦

いずれにせよ、この沼田仕置きを通して
家康さまは惣領国内の、領地仕置きのノウハウを
秀吉さまから学んだと考えられます。
そのように、秀吉さまに臣従した家康さまは
秀吉さまからたくさんのことを学んでいきます。
徳川家ローカルルールから、
中央政権はかくあるべき、のような方法を、
政治・経済・軍事のすべての方面で
学んでいくことになります😉🤚

4 沼田仕置きの執行

1589年・天正17年7月、
真田領入れ替え仕置きを実行するため
羽柴家家臣が現地に向かいます。
徳川家から榊原康政さまが立ち合いました。
沼田領は相模北条氏に割譲されました。
また、真田昌幸さまには、家康さまから
信濃国箕輪領が新しく代替地として
与えられました。
ちなみにこの領地、これまで飯田城主の
菅沼定利さまが管轄してましたが、
その明け渡しは家康さまさっそく、学んだばかりの
中央政権ルールを守ったのかと思います💦

ちなみにこの秀吉さまの沼田仕置きは
北条氏政さまも秀吉さまに臣従していること前提で、
未だ本人上洛のない北条氏政さまに対して、
秀吉さまが先に上野国の処理をして差し上げて、
大きな貸しを北条氏政さまに対して作ったことに
なります💦

5 秀吉さまへの対応を慎重に家康さま🤣🤚

1589年・天正17年9月.秀吉さまは
諸大名向けて妻子を人質として在京させることを
命じました。
家康さまのご正妻は秀吉さま妹の旭姫なので、
家康さまは三男長丸さま・のちの徳川秀忠さまを
差し出す意向をいち早く秀吉さまに示しました。
このとき家康さまのご子息は

  • 長男信康さま➡️既にお亡くなり😭

  • 次男秀康さま➡️秀吉さま養子として預け済み

  • 三男長丸さま(後の徳川秀忠さま)

  • 四男福松さま(後の松平忠吉さま)➡️東条松平家の養子

  • 五男満千代さま(後の武田信吉さま)➡️穴山武田家の養子

で、長丸さま=秀忠さまがご嫡子。
家康さまはその後継ぎを秀吉さまに人質として出す
ことを早々に表明したのです。
秀吉さまは、時間的猶予を家康さまにお与えになり、
さらに在京賄領として近江に土地を与えました。
この秀吉さまのご対応に、家康さまはさらに
御礼を秀吉さまに書状を送り、その書状には
近いうちに長丸さまを上洛させるとお伝えに
なりました。

この家康さまの一連の秀吉さまは対する
諸連絡の素早さと的確さは、
周囲の大名と秀吉さまのやり取りとその心証を
よくご覧になっていて、家康さまご自身のお立場が
まずくならないように、また、諸大名にとっては
家康さまの行動は豊臣政権での家臣としての
模範になり、豊臣政権の中でお立場を確固たるものに
していくよう努めてるフシが見受けられます☺️

6 真田氏所領の上野名胡桃城が奪われた❗️💦💦

家康さまは、
秀吉さまと周囲の諸大名の動きを見つつ
中央から日本を統治するためのやり方や
物事を為す順序、信頼関係の作り方を
学んでいるころ、少し前の家康さまの状態
つまりローカルでは評価されるが
中央政権内での信頼関係を築くにはまだ甘い状態
だったのが北条氏政さまでした。

わかりやすく言うと
「これくらいやっても見逃してくれるだろう」
などという甘い考えが世の中にはびこりがちですが、
まさにそういうお考えを意識せずお持ちになってしまう
北条氏政さまだったのでしょうね💦

そして1589年・天正17年11月3日、事件は起こります。
相模北条氏の家臣で上野沼田城にお入りの
猪俣邦憲さまが沼田領内の真田氏所有の
上野名胡桃城(群馬県みなかみ市)を略奪しました💦
相模北条氏の配下が今、関東惣無事令に
触れる行為だけはやってはいけない、
慎重に肩を運ばないといけない時のことでした💦

家康さまに報告したのは、
真田昌幸さまのご嫡男、真田信幸さまです。
家康さまは信幸さまに、秀吉さまの関東目付役に
伝達し秀吉さまへ伝えてもらえるよう指示するとともに
家康さま自らも秀吉さまの関東目付役を通じて
秀吉さまに同じ報告をなさいました。

秀吉さまへの報告を、真田信幸さまのみに任せず、
自らもなさった家康さまは、豊臣政権における
関東惣無事仕置きの外部担当者の職をまっとう
しているのです😉🤚

秀吉さまは、相模北条氏との経緯から
相模北条氏征伐の意向を、諸大名に示しました。
家康さまにも、です。
そして、家康さまには、相模北条氏征伐の相談を
したく上洛せよ、と求めました。
北条氏から申し開きのために小田原を発した
石巻やすまささまを、相模・駿河境界の
駿河三枚橋城にとどめ置き、秀吉さまは
相模北条氏に軍事征伐の意を示し
相模北条氏の回答を求めました。

申し開きの者は上洛させず、
軍事征伐に対する返答を求める、これはもはや
北条氏政さまに対する上洛・臣従の最後通牒でした。

家康さまはご自身の娘が、北条氏政さまのご子息
北条氏直さまに嫁いでいることもあり、
同盟期間も長く、散々氏政さまに
御みずから上洛すべきです、と説得してきました。
家康さま自身の秀吉さまへの臣従時の経験も
散々書簡てお知らせしました。

北条氏政さまからの返答は、

  • 上洛・出仕が遅れること

  • 名胡桃城奪取の申し開き

  • 家康さまに対しては秀吉さまへの取り計らい

と最後通牒を出すまでのこれまでと変わらないもの。ここできっと家康さまは、

  • 諸大名を説得するとき踏むべき各段階

  • 周囲の人々の使い方

  • 最後通牒を出すタイミングの判断

を中央の施政者はどう運べばよいのかを
中央政権執行担当の立場から
お学びになったことでしょう😉🤚

8 次回

そして、小田原征伐が始まりました😭
小田原に集結した中央政府軍は20万人とも
言われています。

そのうち過半数以上、羽柴秀吉軍本隊も含めて
東海道を小田原にに向かいます、つまり
徳川惣領国を通過・宿泊するのです❗️

家康さま、アンタ、さらに気い遣いやー🤣😉🤚


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