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徳川家康さま☘️をたどる#63☘️第2代征夷大将軍・徳川秀忠さま❗️

初筆 2023年 12月 8日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 63
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 関ヶ原の戦、戦後処理として、首謀者扱いの #石田三成 さま・ #小西行長 さま斬首・さらし首。自害なさった #長束正家 さまもさらし首。罪状は大きな戦を引き起こし多くの戦死者を出したゆえ。

  • 関ヶ原で西軍に与した諸将は、改易あるいは減封に処された。

  • 家康さまとともに戦った東軍諸将うち、豊臣恩顧の諸将はみな加増。ただし一斉に遠国に遠ざけられた。

  • 徳川家宿老や徳川一門衆は、豊臣家の大名扱いでもあることに家康さまは目をつけ、加増・移封、徳川家の惣領国は、東北南部から京都手前までとなった❗️

  • 家康さま、ついに征夷大将軍となった❗️しかし征夷大将軍が日本を統治すると内外ともに認めさせるのはこれからの家康さま次第❗️💦

⬇️前回はこちら❗️

3 家康さま天下人の意味合い

1603年・慶長8年2月12日、家康さまは
#征夷大将軍 職を任官されました。
足利将軍が散々、価値を落とした征夷大将軍職では
ありますが、それでも世間には、昔、天下人だった方は
征夷大将軍を名乗った人がいた、という認識は
ありました。

実際このころには天下人と認識されている
家康さまは征夷大将軍職を襲うことで
名実ともに天下人となったのですが、
これは家康さま個人が家康さま自身の力量で
天下人と認められているのです。

家康さまは「天下人」を
「器量」によって手に入れるものではなくて、
「家筋」として襲うものであることを
確実にしようとお考えだったに違いありません。

家康さまは、鎌倉車代将軍から6代目までを
描いた歴史書の #吾妻鏡 をご覧だったと聞きます。
そこで鎌倉3代が将軍職を世襲にできなかった
理由や原因をお勉強になさってるし、
そもそも世襲がうまくいかなかった例として
#羽柴秀吉 さまの失敗を目の当たりにしてます💦

家康さまは征夷大将軍職を確実に世襲できて、
政治・経済・軍事まで正常に機能させられる
幕府を構築しようとお考えでした。

天下人を「器量」によって手に入れられる
= 戦乱の世に逆戻りになる、
それはさせてはならない、そのためには家康さまが
天下を盗み子供を後継にした、天下を私物化した、と
悪く言われてもよい、そういうお覚悟が
あったのだと思います。

家康さまが征夷大将軍を嫡男 #徳川秀忠 さまに譲る、
1605年・慶長10年4月16日の
秀忠さま征夷大将軍職を襲職は
そういった意味があったのです。

天下人を徳川家て私物化ということではなく、
いやあえて私物化することで、
もう天下を実力でもぎ取るような戦乱はナシ、
天下泰平がやってきたのだよ、と
世間に広く示したのです❗️

4 征夷大将軍時代の出来事

1603年・慶長8年2月12日、 #将軍宣下 を受ける
その前までは新年の祝賀、年頭の礼は
自分のところに先に来るのではなくて
まず #豊臣秀頼 さまを訪ねるように
諸大名に命じていました。
もちろん家康さま自身も秀頼さまに
年頭の礼をしていました。

しかし、征夷大将軍になってからは
秀頼さまの元に礼に出向くことはなくなりました。
また諸大名も秀頼さまへの年頭の礼も姿を消して
家康さまへのものだけとなっていきました。
これも、家康さまが名実ともに天下人てあること、
つまり家康さまは武家の棟梁であることの、
世間に広く認知させた1つの具体例です。

そんな家康さまが短い期間である
将軍宣下を受ける直前から、
2年間という短い征夷大将軍時代に
なさったこと・出来事を述べていきます。

家康さま、関ヶ原の直後は大坂にあって
関ヶ原の論功行賞をぐいぐい進めました。
これは前回話した通り、論功行賞にあたって
ウラの意味合いが2つあり

  • 東海道筋に配置されていた豊臣恩顧の諸大名を、ことごとく西国に加増移封し

  • その東海道地域には徳川家臣団を配置し、また畿内から東国に向かう重要拠点には、 #結城秀康 さま・ #本多忠勝 さま・ #榊原康政 さまを配置した

徳川総領国を拡大・連続したものにしました。

そのほか

  • 徳川家京都屋敷として二条城を拓造

  • 東南アジアとの外交展開し、朱印船貿易、つまり、国家が認めた公の貿易をスタートさせ、そのための海路の安全保障の整備も始めた

  • このころ、のちの徳川御三家の初代、および、第3代将軍となる #徳川家光 さまもご誕生❗️

5 伏見・江戸往復の日々

家康さま、征夷大将軍時代も1箇所に
居座るのではなくて、伏見・江戸を何往復か
しています。現代みたく東京大阪間が
のぞみで2時間半で行けるような時代ではありません。

江戸・伏見間は徒士で15〜30日くらい
かかるような時代です。
それを大義と感じることを、家康さまはきっと
顔には出さず、周りを鼓舞しつつ、
身内にはギャグなどかましつつ
行っていたことでしょう🤣

家康さまが将軍宣下を受けたときは御歳62才❗️
壮健そのものです。
趣味の薬の調合のおかげでしょうか❓
それとも、よく噛んで食べる、という生活信条の
1つのおかげでしょうか❓☺️

そして江戸下向中・上洛途上にあっても
毎日政務を執るほど忙しい合間を縫って
#鷹狩 をなさってます😉🤚

ちなみに、鷹狩りというのはただの猟ではありません。
野に出て狩りをする、というのは、
徳川家臣団の軍事演習にもなるのです。
大人数で野に出るためには、事前に狩場の調査や
行程のプランニング、御供衆全員の食糧や水の確保、
宿の確保、狩道具の整備、はたまた
現場での人員配置など、事前および当日の作業は
軍事行動と類似しているのです。

いくら軍事演習になるとは言え、
伏見で忙しい政務の合間を縫って
江戸下向し武蔵野平野で鷹狩をするとは
家康さま、元気過ぎます🤣🤚

そして、1600年・慶長5年の、関ヶ原の戦から、
1603年・慶長8年の将軍宣下の期間に
家康さまは男子を3人もうけます。

  •  #五郎太丸 さま

  •  #長福丸 さま

  •  #鶴千代 さま

です❗️
。。。
これでは誰かわからないですよね💦

  • 五郎太丸さまは家康さまの九男で、後の #徳川義直 さま。尾張徳川家の初代で、1601年1月2日・慶長5年11月28日、大坂にてご生誕

  • 長福丸さまは家康さまの十男で、後の #徳川頼宣 さま。紀州徳川家の初代で、1602年4月28日・慶長7年3月7日、ご生誕

  • 鶴千代さまは家康さまの十一男で、後の #徳川頼房 さま。水戸徳川家の初代で、1603年9月15日・慶長8年8月10日、伏見にてご生誕

ちなみに、家康さまのお孫さまの
#竹千代 さま=3代将軍 #徳川家光 さまは
1604年8月12日・慶長9年7月17日生まれで、
家康さまはご自分の息子の #徳川秀忠 さまが
長男1人をつくる同時期に、後の徳川御三家を
使ってしまい、徳川家の繁栄を築いたのだから
驚きです❗️❗️
あやかりたい🤣🤣🙇‍♂️🙇‍♂️

家康さまは大きな戦をしている最中も、
政務と江戸の整備とて、伏見江戸間を
往復なさっているときも、将軍宣下を受けて、
慣れない儀式の勉強をしているときも、
天下泰平を切望し、器量で掴み取る天下から、
家筋で襲う天下に変更しようと試行錯誤しているときも
家康さま❗️
することはきっちりやっていました❗️🤣🤚

6 2代目徳川将軍の誕生

1605年・慶長10年4月16日、秀忠さまは
将軍宣下を受け、徳川幕府における
征夷大将軍を襲い、2代目将軍に任官されました。

この報せを聞いた豊臣家には衝撃が走りました。
なぜなら、秀忠さまの征夷大将軍襲職は
天下人は実力で得るのではなく、
家筋で襲うもの、つまり、徳川家の世襲であることを
示したものだったからです💦

さらに家康さまは、秀吉さまの正室
#高台院 さまを通して、 #豊臣秀頼 さまに
秀忠さまの将軍襲職を祝いに上洛することよアニメ申し入れましたが、秀頼さまの母君の #淀の方
これに激怒し拒否❗️💦

徳川家と羽柴家の対立は表面化し、
いっとき大坂は騒然としました。
しかし、1605年・慶長10年5月11日に、
新将軍秀忠さまの名代として
家康さま六男の #松平忠輝 さまが
大坂に挨拶に出向くことで騒ぎは収まりました💦

そして家康さまは #大御所 となり、
秀忠さまを江戸城の主人とし、
徳川家臣団が配備された京都以東の東国の
徳川総領国の統治を任せたのでーーす❗️☺️

江戸幕府は本当に少しずつ形作られていきました。
上方ではまだまだ豊臣家人気が世間に
大人気な状態ではありましたが、
家康さま、そこは焦らず、ゆるりゆるり
政権を豊臣家から徳川家へ移していくのでした🥰

7 次回

2代目徳川征夷大将軍となった秀忠さま❗️
しかし家康さまは未だ伏見城を離れるわけには
いかない、実情は、まだまだ江戸時代の夜明け前
という状態。

家康さま、天下泰平のための
徳川政権の安定化
次の一手は何なのーー❓


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