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徳川家康さま☘️をたどる#79☘️大坂夏の陣・道明寺口の戦

初筆 2024年 3月 29日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 79
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 大坂の陣の直前、豊臣家は既に政治勢力ではなかった。そして戦になるかもという状況を仕掛けたのは家康さまだが、戦になるような選択をしたのは豊臣方だった。

  • 1615年・慶長20年4月下旬、外様大名を含む徳川勢は京に集結、5月5日に川内路・大和路の二手に分かれて大坂に進軍。家康さまは短期野戦決戦のプランで兵糧は3日分を指定。

  • 大坂方は、外交による戦闘回避派と主戦派に分かれていたが、戦闘回避派の #大野治長 さまが主戦派に襲撃され、大坂方はもはや戦は避けられないという意見に集約、そして籠城は勝ち目なしと判断、野戦のプランを採択。

  • 大坂夏の陣の前哨戦はいずれも大坂方は経験不足の指揮官が主将を勤め、結果、作戦失敗かムダな動きとなった。

前回はこちら❗️
⬇️

3 討って出る大坂方


徳川勢が京を発ち大坂に向かう直前、
1615年・慶長20年4月末日前後に
大坂方は軍議を開き、
豊臣勢は、籠城せず討って出ることを確定させ、
また、徳川勢が大坂城のある河内平野、
大坂城の東側から南側に集結してしまい、
野戦となっては勝ち目がないと考えて、
豊臣軍主力で、
街道沿いの山間の地で、軍列を細くして
行軍する徳川勢を討つという
戦術を取ることにしました。
山間の地、山間部は街道が細く、
少数の軍勢で大軍を迎え撃つに適した地形なのです。
この戦術は #後藤基次 さまの提案でした。

そして、豊臣方は、
大和路から河内平野に入る道明寺口、
現在の藤井寺市あたり、大坂城の南側に
徳川勢はいったん集結するであろうと予想して、
そちらに #後藤基次 さま・ #真田信繁 さま・
#毛利勝永 さま・ #明石全登
#薄田兼相 (すすきだかねすけ)さまが向かいました。

また大坂城の南東側、当時湿地帯の
若江・八尾方面には大和路以外から
大坂を目指すであろう徳川軍に備えて、
#木村重成 さま・ #長宗我部盛親 さまが向かいました。

そしてそれぞれの地で大坂軍は徳川軍と
激突することになるのです。


4 道明寺口の戦・経緯

1615年・慶長20年5月1日、
豊臣勢は、後藤基次さまの前隊6千、
毛利勝永さま・真田信繁さまの後隊1万2千、
その他、薄田兼相さまなどの部隊が大坂城を出発。

各隊、5月6日、早暁、道明寺付近に集結し、
国分(現在の柏原市・かしわらし)という
山間の谷間にて徳川軍を迎え撃つという段取りでした。

5月6日、午前0時、後藤基次隊の2800人は
前日野営の平野(現在の大阪市平野区)から
藤井寺を経て道明寺口に到着しました。
この時点で、合流する予定の後隊、
毛利勝永さま・真田信繁さまの隊は未到着。
また後藤基次さまより先に到着してるはずの
明石全登さま・ #薄田兼相 (すすきだかねすけ)さまの
部隊も未到着💦

そして後藤基次さまは徳川勢が既に
国分の山間部を通過したあたりに
陣を構えていることを知ります。

徳川勢が、国分へ陣を構える前に
軍列を細くして山間部を少しずつの人数で
通過しているところへ、
豊臣軍主力で襲撃を加えようという豊臣軍の作戦は、
この時点で既に破綻していることを
後藤基次さまはお気付きになります。
戦国を生き抜いてきた元次さまは
周囲を見まわしただけでこういった状況を
把握してする能力を蓄えていたのでしょう。

しかし後藤基次さまは
豊臣軍主力を待ち作戦の修正・変更を待たずに、
後藤基次さまの部隊のみの単独で開戦すべく、
小松山(現在の柏原市立玉手山公園あたり)に
登り、孤立状態で陣を張りました。

その様子を発見した道明寺口・国分に
既に陣を構えていた徳川勢は小松山を包囲しました。
このとき後藤基次隊を取り囲んだ徳川勢は

  •  #水野勝成 さま

  •  #堀直寄 さま

  •  #本多忠政 さま

  •  #松平忠明 さま

  •  #伊達政宗 さま

  • そして後方に #松平忠輝 さま

総勢3万規模。
つまり大和路から大坂を目指した
徳川勢ほぼすべてに後藤基次さま部隊は
囲まれてしまいました。

5月6日・午前4時ごろ後藤基次さま部隊は
徳川勢に攻撃を仕掛け、
端緒は有利に戦を進めましたが、
次から次へ押し寄せる徳川勢に耐えきれず
小松山を下りて徳川勢に切り込み、
伊達政宗さま軍勢の銃撃に被弾した
後藤基次さまはお亡くなりになり、
後藤基次隊は壊滅しました💦
これが5/6正午ごろのことでした。

そしてそのころになってようやく、
本来、後藤基次隊より前にいる手筈になってきた
薄田兼相(すすきだかねすけ)さま・明石全登さま
などの部隊が道明寺口に到着💦
これらの部隊も徳川軍に押されて壊滅もしくは後退。

さらにその後に、道明寺口に
豊臣軍の毛利勝永さま・真田信繁さまの部隊が
到着しました。
真田勢などは、徳川軍うち伊達政宗さま軍勢の
先鋒・ #片倉重長 さまの軍勢と五分五分の
激しい戦闘となり、
やがて、豊臣軍・徳川軍は道明寺付近で
膠着状態となりました。

そして5/6午後2時ごろ、
大坂城からの伝令が豊臣軍道明寺口部隊に到着、
豊臣方の八尾・若江方面軍が敗退した報せが入ると、
豊臣軍は大坂城に撤退して行きました。


5 道明寺口の戦・豊臣サイド反省会🤣🤚


道明寺口の戦において、豊臣軍は当初の
山間の地、隊列を細くして通過中の
徳川勢を叩くという作戦はまったく実行できず、
さらに、後藤基次さま・薄田兼相さまは
お亡くなりになり、それぞれの部隊は壊滅。
明石全登さまは銃弾を受けこの時点で行方知れず、
同部隊も壊滅。
真田信繁さま・毛利勝永さまの部隊も
戦闘相応の被害あり、その後、大坂城へ退却、と、
道明寺口の戦は、豊臣方にとって
得るものがあまりなかったどころか、
有力武将を数名亡くしてしまったのです。


この作戦行動の大きな失敗点は遅刻でした🤣💦
しかも2つの遅刻に分けることができます。

  • 国分という切り通しの山道を徳川軍が隊列を細くして行軍するときに襲撃する予定が、1番早く到着した豊臣勢・後藤基次さまが到着したときには、徳川軍は既に山間の地を通過して陣を構えていた。

  • 後藤基次さまの部隊だけが定刻通りに道明寺口に到着し、その他の部隊はことごとく遅参した(というのが通説ですが、他の説として、後藤基次さまの部隊が徳川勢を引きつけて、他の豊臣勢が徳川勢を討通過プランだったので、他の部隊は遅刻でない、という説もあります、ここでは通説で以後を話します)

豊臣軍・道明寺口隊の作戦プランは
急襲作戦であり、
ある程度討って出るタイミングに
自由度がある野戦とは違い、
今しかない❗️というタイミングで、
全隊が自分のセクションの仕事を遂行しないと
作戦行動は成功しません。

さらに少数で多数の軍を叩き、なるべく
自軍の兵力を損いたくない、という豊臣勢の
方向性は現場ではまったく成功しませんでした💦💦

元の戦術をまったく実行できなかった
理由は以下のように推測できます。

  • まず1番大きな作戦行動失敗の理由は情報不足💦💦大和路経由の徳川軍の実際の行軍を調査できていなかった。もしちゃんとわかっていたら、時刻までに豊臣勢は現地でスタンバイできたはず。

  • 豊臣勢は昔から大坂城にいた諸将が現地指揮官となっていない。なので大坂の地理に不案内であった。そのために軍によって到着時刻がまちまちとなった。

  • 上記の2つの理由は、各隊の指揮官が作戦計画をキッチリ理解はしていた、という前提で話しています。しかし各隊の指揮官が作戦計画を理解していなかった、という可能性もあります。各隊の指揮官はそもそもが浪人衆に過ぎません。とりあえず道明寺口で徳川軍と一戦、くらいの感覚の将もいたのかも💦

  • 通説での道明寺口の戦で豊臣軍の各隊の到着がまちまちになったのは、夜間行軍と濃霧のため、となっています。が、これも指揮官が大坂の土地をキッチリわかっていたら、夜間行軍・濃霧関係なしに各隊は定刻に位置につけるはずです。

豊臣勢が道明寺口の戦にどちらかというと敗退した
理由を詳しく述べてきましたが、簡単にまとめると
以下のようなことになります💦

  • 情報不足

  • 指揮官同士のコミュニケーション不足

  • そもそも指揮官の指揮能力の不足


6 家康さまがなぜしばしば鷹狩をしていたのか

突然ですが、家康さまがなぜしばしば
鷹狩をしていたのか、について話します。

家康さまは若い頃から余裕があれば
#鷹狩 を行っていました。
もちろん家康さまはアウトドア派だったから
しょっちゅう鷹狩をしてた、というのもあるでしょう。
たとえ鷹狩を始めたころは単なる趣味だったと
仮定しても、鷹狩を重ねるうちに気づくはずです。
鷹狩は軍事演習になるのだ、ということを😉🤚

鷹狩とは野に住む獣を狩猟するリクリエーションで、
殿と少数の家臣で野に山に出かけるのではなくて、
徳川家臣団が軍編成をして、大規模な人数で
出かけるのです。
そのためには徳川家臣団は
以下のようなさまざまなことの
段取りをつけて実行していく必要に迫られます。

  • 現地の決定と地理調査

  • 天候予想

  • 予算

  • 行程プラン

  • 隊列プラン

  • 食事プラン

  • 現地で必要なもののピックアップと調達

ざっと挙げてみてもこのように様々なプランと
当日の実行が必須となってきます。
これらのプランと実行は、対象事項が異なるだけで
まさに軍事プランと酷似しているのです。

さらに実際現場に行ってみることで
その現場の地理的な状況や、
プランの意外な落とし穴など
行ってみないと気づけないことを
知ることになりますし、
当日現場で不具合が生じたときの、
作戦行動の軌道修正の訓練もできます。

そして何よりもかさんだ話題集団で
現場に向かうことで、大将から一兵卒まで
話してきた知識を共有できるのです。

徳川家臣団や家康さまとともに行動をした
外様の諸将、道明寺口の戦では
たとえば伊達政宗さまやその配下は
そういった戦のノウハウを身につけていたのです。

ひるがえって、豊臣家臣団は
知らぬ間に大坂城にあぐらをかき、
半貴族化してしまっていて、
軍事演習を行なっていなかったことに
道明寺口の戦での、敗退の原因があると
考えてよいのではないでしょうか❓💦💦

7 次回

道明寺口の戦で敗退した豊臣軍💦
しかし、家康さま・秀忠さまの本軍は
まだ大坂に到着していない💦

大坂夏の陣、この先、
どういった戦闘が展開されるのかっ❓❓


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