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徳川家康さま☘️をたどる#80☘️大坂夏の陣・本戦布陣の現在地はどこ❓

初筆 2024年 4月 5日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 80
⬇️
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  •  #大坂夏の陣 にて籠城では勝ち目がないと判断した大坂方は討って出る野戦を採択。大坂方主力は道明寺口・山間の地で、行軍してくる徳川勢を叩くプラン

  • 道明寺口では既に徳川勢が陣を構えていて、大坂方の戦闘プランはいきなり破綻、徳川軍大和路勢主力の #伊達政宗 さま・ #水野勝成 さまらと激突した #後藤基次 さま・ #薄田兼相 さまら討死。#明石全登 さま行方知れず

  • 膠着状態となり大坂方はいったん退却。道明寺口の戦での大坂方敗退の原因は、徳川方行軍状況情報・浪人衆指揮官の大坂の地の情報不足による遅刻

  • 家康さまは大坂方の道明寺口の戦でのような失敗はしない人だった。なぜなら常日頃から鷹狩という軍事演習を修練していたから

前回はこちら❗️
⬇️

3 豊臣勢・城東方面軍の動きと対する徳川勢


道明寺口での激しい戦闘が繰り広げられた
1615年・慶長20年5月6日、八尾・若江でも
豊臣軍と徳川軍は激しくぶつかりました。
詳しく話して行きます。

豊臣軍は、大坂城の南側の道明寺口以外に、
大坂城の南東側にも討って出ました。
この南東側方面・豊臣軍は
川内路を行軍する徳川勢を
大軍での戦闘には適さない、
つまり徳川軍が不利になるような低湿地帯で
迎撃しようと言うプランでした。

出撃した指揮官は

  •  #木村重成 さま・兵6000・若江方面

  •  #長宗我部盛親 さま・兵5500・八尾方面

  •  #増田盛次 さま(長宗我部隊)

でした。

また川内路を行軍して大坂に向かう
徳川方諸将は以下、

  •  #藤堂高虎 さま・先鋒

  •  #井伊直孝 さま・先鋒

  •  #本多忠朝 さま

  •  #前田利常 さま

  •  #松平忠直 さまなど総勢5万5千人で、

  • 後方に徳川本営の家康さま・ #徳川秀忠 さま

が、5月2日時点では、川内路の立石街道から
道明寺方面に向かっていました。

5月5日、木村重成さまは今福
(大坂城の北東側・現在の大阪市城東区今福)
まで出向きましたが、徳川勢の今福への
行軍可能性を低いと考えて、
今福から南東側の河内国若江郡若江村
(現在の東大阪市若江あたり)
に兵を進めようとします。

しかし、木村重成さまの軍勢も、兵の集合が遅れたり、
道間違えや湿地での立ち往生など、
指揮官の不慣れと寄せ集めの浪人衆で構成される兵
などの理由から進軍は遅刻気味でした💦
5月6日午前2時くらいのことでした。

対して徳川勢の先鋒は、
井伊直孝さまの軍勢は5月6日午前1時ごろ
若江付近に陣を敷き待機、
藤堂高虎さまは進軍中の豊臣軍を発見、
藤堂高虎隊は井伊軍から少し南の八尾に
さしかかるあたりに陣を構えました。

徳川勢全体に家康さまより、
勝手な戦闘は慎むように命令されてはいましたが、
藤堂高虎さまの判断は後ろから行軍してくる
豊臣勢が家康さま・秀忠さま本営への
戦闘を狙っている、という判断から
藤堂各隊への進撃をお命じになりました。
こうして午前4時ごろに八尾・若江の戦の
火蓋は切って落とされました。

4 八尾

若江から八尾にかけて対峙した豊臣軍・徳川軍うち
河内国若江郡八尾村付近では
豊臣軍の長宗我部盛親さま軍勢と
徳川軍うち藤堂高虎さまの勢がぶつかりました。

八尾では、長宗我部盛親さまの軍が
藤堂軍を押し気味で戦が展開していき、
藤堂高虎さまの軍勢では高虎さまに縁の続く
指揮官クラス数名が討たれる被害を受けました。

戦闘は5月6日正午ごろまで続き
膠着状態となったところへ、
スグ北側で木村重成さまの軍勢が
徳川軍に敗退した報せが入りました。
そして敵中での孤立をおそれた
長宗我部盛親さまは大坂城へ撤退したのです。

5 若江

5月6日午前5時ごろ木村重成さまは若江に着陣、
そこに八尾から若江にまで陣を広げていた
藤堂高虎さまの1番北側の軍勢が攻撃を仕掛けました。
そして藤堂勢はこちらでも指揮官クラスを失い
敗走しました💦

午前7時ごろ、井伊直孝さまは
木村重成さま軍勢への攻撃を開始・激戦となり、
徳川勢の榊原康勝さま・丹羽長重さまも参戦、
木村重成さまは討たれ、
木村軍勢は正午までには壊滅しました。

6 八尾・若江の戦の後日への影響


道明寺口での戦が、
大坂夏の陣の5月7日本戦においては
伊達政宗さま軍勢が戦闘・銃の発砲を控えるなどの
影響を及ぼしたように、八尾・若江の戦で
大きく被害を受けた藤堂高虎さま・井伊直孝さまの軍は
大坂夏の陣の5月7日本戦において
先鋒を辞退せざるを得なくなりました。

八尾・若江の戦で家康さまの、
勝手に戦闘開始は控えるべし、という命令を
素直に守った松平忠直さまは、
事後、家康さまの叱責を受けることになりました。
これは理不尽な叱責かと思いますが💦
このおかげて良くも悪くも
松平忠直さまは、大坂夏の陣の5月7日本戦において
激しい戦闘を繰り広げることになりました。
家康さまは忠直さまの気性を読んで
あえて理不尽な叱責をしたのかも知れません。

長宗我部盛親さまは
翌日の大坂夏の陣の5月7日本戦においては
大坂城に留まり、戦闘には参加しなかったことから
八尾の戦において大損害を受けるか
実質壊滅したと推定されています。

1615年・慶長20年5月6日の
道明寺口の戦、八尾・若江の戦においては
現在の藤井寺市・東大阪市・八尾市など
大坂城からはかなり離れた場所まで
豊臣軍は押し出していましたが、
いずれの戦闘においても
総合的には徳川勢が優勢で戦を終えていて、
翌日の大坂夏の陣本戦で大坂方は大坂城の周辺、
現在の大阪市天王寺区と阿倍野区・生野区の
境界あたりに陣を敷くのが
精一杯となってしまいました💦


7 5月7日

そして #大坂夏の陣 本戦が行われた
1615年・慶長20年5月7日がやってきました。
この日の戦は豊臣方・徳川方とも総出で
参戦した戦国時代最後の大戦となったのです。
大きな戦闘としては以下の2箇所にまとめられます。

  • 天王寺口・現在の天王寺区茶臼山から天王寺駅をまたいで、あべの筋・あびこ筋にかけてのエリア

  • 岡山口・現在の天王寺区寺田町から奈良街道・国道25号線沿いに生野区・東住吉区の境界線に沿ってのエリア

  • 上記2箇所が大坂夏の陣の激戦区となったエリアですが、それ以外に天王寺口の西側、紀州街道にも徳川方は布陣していました。

それぞれの箇所での布陣を豊臣方・徳川方に分けて
現在はどのあたりに位置する布陣なのか、まで
見ていきます。

大阪市民うち市内全体を動き回るお仕事を
なさっていたらどのあたりのことを
話しているのかわかるのでしょうが、
そうでない方はぱっとわからないかもです。。💦
できれば現在の大阪市の地図を見ながら
お聞きいただけるとわかりやすいのですが。。。🙇‍♂️

8 天王寺口の布陣


天王寺口付近での豊臣方布陣は、まず、
茶臼山(現在も茶臼山)に #真田信繁 さまを
中心とする兵8,000程度。
茶臼山は天王寺口からみると北西に位置します。
豊臣軍うち茶臼山方面軍・真田信繁隊は
天王寺口そしてさらに西の紀州街道の
徳川軍にも備える陣構えでした。

そして豊臣軍の天王寺口方面本軍は四天王寺南門前に
#毛利勝永 さまを大将として兵6500が布陣。
四天王寺はこの時代から現代まで
場所は変わっていない、とされています。

また茶臼山北西の木津川堤防沿い、
(現在の道頓堀付近と推測されます)
別働隊として #明石全登 さま勢300
全軍の後詰として四天王寺北東側
現在の天王寺区役所あたりに
大野治長さまの部隊、兵15,000(と伝承)が
布陣しました。

対して徳川軍は
茶臼山と対峙する、紀州街道およびその東側
(現在の動物園前駅から南方向)には、
#伊達政宗 さま・ #松平忠輝 さまなどの兵35,000と
#浅野長晟 さまの軍勢5,000に加えて、
#松平忠直 さまの軍が15,000が抜け駆けをして、
前日の八尾・若江の戦を傍観して
家康さまに叱責されたのを取り返すべく布陣💦

徳川勢天王寺口方面本軍は
先鋒に #本多忠朝 さまを大将とした兵5,500。
二番手に #榊原康勝 さまを大将とした兵5,400。
三番手に #酒井家次 さまを大将とした兵5,300。
その後方に家康さま本陣15,000でした。
こちらには実際の戦を見聞させるために
家康さまが連れてきていた
#徳川義直 さま・ #徳川頼宣 さまが
後陣として構えていました。

9 岡山口の布陣


豊臣軍岡山口方面軍は、篠山つまり現在の天王寺区内の
玉造駅と鶴橋駅と府立高津高校の中間地点あたりに
大野治房さまを大将として兵4,600が布陣した。

なおこの布陣位置については異説があり、
周辺の地形と豊臣軍の少ない兵力で大軍に
向かわなくてはいけないという点を考慮すると、
大野治房さまはもっと前方に出張って
文字通りの岡山つまり現在の生野区御勝山
(いわゆる御勝山古墳・生野区役所付近)
の北西部、桃谷駅付近に布陣したのであろう
という説もあるとのこと。

一方、徳川軍、岡山口方面軍は、
岡山つまり御勝山・現在の生野区役所あたりに
陣取ったと伝わっていますが、
もし豊臣軍の岡山方面軍が岡山付近に陣取った説
を取ると、もっと東南方面、生野区と東住吉区の
区境から、もしかしたら秀忠さま本陣は
平野区あたりだった可能性もあります💦

先鋒大将が #前田利常 さまその他で合計兵20,000。
二番手は井伊直孝さま・藤堂高虎さまの7500など。
その後方に #徳川秀忠 さまの本陣23,000でした。
 #黒田長政 さま・ #加藤嘉明 さまもこちらに
いた事になってきますが、詳細は伝わっていません。

大坂城の南側、天王寺口・岡山口で対峙する
豊臣軍🆚徳川軍❗️❗️
大坂夏の陣、本戦が、今、始まるっ❗️💦💦

10 次回

天王寺・寺田町・桃谷をはさんで対峙する
豊臣勢と徳川勢。
しかし戦国時代を生き抜いてきた武将は数少ない❗️
またしても世代交代後のすっとこどっこいな
戦になってしまうのかっ❓❗️💦💦


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