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徳川家康さま☘️をたどる#68☘️豊臣家の資産を巧妙に奪う家康さまとその本意😉🤚

初筆 2024年 1月 12日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 68
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さま、四男 #松平忠吉 さまお亡くなり後、九男 #徳川義直 さまを清洲に封じ、政庁を町ごと清洲から名古屋に移し名古屋城を築城。

  • 五男 #武田信吉 さまお亡くなり後、水戸に入っていた頼宣さまは駿府へ移封、ともない、水戸へは頼房さまが入る。ここに徳川御三家の基本ができあがる❗️

  • 真言宗・鎌倉五山・石清水八幡宮への定書を出す。

  • 朝鮮国・琉球との江戸時代のお付き合いが定まる。また明へは勘合貿易依頼を出し、ポルトガルとは縁を切った。

⬇️前回はこちら❗️

3 1609年ごろの豊臣家とのお付き合い

話は遡ります。
1603年・慶長8年、 #徳川秀忠 さまのご長女、
家康さまの孫の #千姫 は豊臣家 #豊臣秀頼 さまに
嫁ぎます。
これは太閤 羽柴秀吉 さまのご遺命であり、
日に日に権勢を増していく徳川家と縁続きとなるのは
大坂方の希望でもありました。

千姫と豊臣秀頼さまととても仲睦まじかったと
よく言われています🥰
が、人質的なお立場でもあり、
徳川家が豊臣家を無碍にはできないように
との目的で、豊臣家は千姫を嫁に迎えたのです💦

そのような豊臣家・徳川家の縁を固める婚礼もあり、
1609年・慶長14年ごろの豊臣家・徳川家の間には
表向きには小康状態とでも言うべき和平が
保たれていました。


4 このころの豊臣家の立場

家康さまはこのころの豊臣家を
様子見、している状態でした。
豊臣家のお立場はどのようなものだったのか

  • 武家社会の中では、天下人から、実質、摂津・河内・和泉の3領国65万石を統治する一大名に転落していました。

  • 他の大名と異なる点は、豊臣家家臣であった大名の意識が微妙に、豊臣家家臣であることを引きずっている。言うなれば、陪臣が大名となっている状態、とも取れて、これは徳川家家臣団が大名になっていることに並んでいる状態とも取れます。

  • もう1つ他の大名と異なる点は、大坂という畿内に、一大名としては、巨大で堅固すぎる大坂城が居城であったこと。

  • 朝廷・公家衆からは、豊臣家は #五摂家 の1つと扱われていて、秀頼さまは今後、関白になりうる存在として、順調に位階・官職の昇進を遂げていました。

秀頼さまや #淀の方 が自分たちの状況、
つまり石高は65万石に過ぎず、
かつて豊臣家に忠義を尽くし支えてくれた
多くの豊臣家家臣は独立してしまっていて
その旧豊臣家家臣を治める武家の棟梁は
実質家康さまになってしまっている、ということを、
冷静に判断できたならば、
秀頼さまや淀の方の振る舞いも
歴史とは違うものなったのかも知れません。

秀頼さま・淀の方は自分たちの状態よりも
自分たちの置かれた状況にまどわされて
しまったのでしょう。
置かれた状況とは、
家臣はまだ心離れしていないという錯覚・
大坂城・五摂家である、という3点です。

またその3点は、経済的なことなどわからない
畿内の庶民も惑わしていき、畿内においては
1609年・慶長14年〜1610年・慶長15年あたりでも
豊臣家はいまだ天下に号令をかけられる
という風評があったとのことです。

そんな巷の風評が秀頼さまや淀の方、そして
その側近の耳に入ると、さらに秀頼さまや淀の方は
自分たちの65万石の大名にすぎないという状態を
冷静に判断できなくなる、そんな豊臣家でした💦

5 豊臣家を65万石の大名としたのは家康さまの戦略か❓冷静で寛大な措置か❓

関ヶ原の戦の終戦処理も含めて、
家康さまが執行してきた政務について
その影響を1つ1つ見ていくと、それは、
確かに日本にとって必要な措置ではあったけど、
豊臣家の資産や影響力を削ぐ措置であったと
取れるものが多いです。
具体的に見ていきましょう。

  • 関ヶ原の戦の論功行賞で東軍の豊臣家恩顧の諸将に加増転封した。ただしすべて京大坂より離れた西国であった。東軍の豊臣家恩顧の諸将は加増で納得し、家康さまにとっては徳川家臣団の所領を抜けて畿内まで安全に進軍できる。

  • 関ヶ原の戦での論功行賞にあたって、西軍の諸将を改易・減封した土地以外に、全国に散らばっていた豊臣家の直轄地も分け与えた。これによって豊臣家の所領つまり資産は劇的に減少した。

  • また関ヶ原論功行賞の際に、豊臣家の財源の1つてある、石見銀山・生野銀山・佐渡金山などの金脈・銀脈地を徳川家直轄領とした。

  • 豊臣家恩顧の諸将に江戸城・駿府城・名古屋城の天下普請をさせた。天下普請は命ぜられた諸将が自腹で行うものであり、豊臣家恩顧の諸将の経済力を削ぎ、結果として豊臣家の総合力が削がれることになった。またこのころには、関ヶ原の論功行賞の内容やら天下普請の様子を見て、豊臣家の諸将も時代は変わり、家康さまが天下人であることを実感していた。

  • 朝廷や門跡との付き合いを深めていき、キーパーソンを把握し、影響力を強めていった。豊臣政権における執政官として必要な政務であるが、実際は執政者つまり家康さまと朝廷・門跡どのお付き合いということになった。

  • 堺奉行・長崎奉行の政務の見直しを図った。その際堺奉行・長崎奉行職を徳川家臣団で独占し、これまで豊臣家の財源の1つであった貿易収益を、実質徳川家で独占した。

  •  #羽柴秀吉 さまお亡くなりののち、空位となっていた #関白職#九条兼孝 さまをお付けになった。これは秀吉さま以前の本来の関白職任官習慣に戻した。しかし実質、豊臣家が関白職を世襲するという流れを断った。

家康さまのご政務は、豊臣家の筆頭執政官として
必要な業務でした。しかし、
実行するときに、お付き合い事項ならば
先方に自分自身や徳川家臣団を売り込み、
また豊臣家の財源となっていたものは
徳川家の手によって進めていくことで
収益を徳川家に流れるようにしていきました。

家康さまの基本的な執政姿勢は
庶民が戦乱に巻き込まれることなく
平和な暮らしができるようひすること、でした。
秀吉さま亡きあと、
世の中が乱れないようにするためには
家康さまが政治のトップに躍り出るしかない、
とお感じになっていたと思います。
周りを見回して、日本の平和を仕切ることが
できそうな人材はいない、と。

当然、家康さまからすると、
豊臣家も民衆に和平をもたらす政治をできる
人材はいない、とお感じでした。
ならば、豊臣家は天下人レベルの資産を
持たせるのではなくて、元天下人がいた家系程度の
資産あるいは名誉を持たせるくらいが、
豊臣家を存続させるためにはちょうどよい、
とお考えになったのだと思います。

  • 資産を持たせる、というのは、それなりの石高の大名家となってもらう、ということ

  • 名誉を持たせる、というのは、秀吉さまが朝廷の官職である関白にお付きだったことから、公家・五摂家として家を存続させるということ

実力のない者は、資産を持ちすぎると周囲に
利用され、世間に悪影響を与える、ということを
家康さまは、人生の中で骨身に染みて
お分かりだったのでしょう。

実際、豊臣家は意地を張ってるいることを
周囲に利用されたとも言える形で終焉を迎えますが、
それはまたのちの事。

1609年・慶長14年の時期には、
外部から見れば一大名として、
内部からすると天下人候補だと思い込んでいたい、
そんな豊臣家でした。

6 後陽成天皇との確執を通して朝廷への影響力を強める家康さま

1609年・慶長14年6月、御所での
スキャンダルが発覚します。
後陽成天皇に仕える官女と公家衆の
密通事件です💦

後陽成天皇は関係者・官女を糾明し、
事実関係を明らかにし、
関係した公家衆7人の出仕を止めた上で、
武家伝奏から京都所司代 #板倉勝重 さまへ
公家衆を断罪に処す(成敗する)という
後陽成天皇の意向が伝えられました。

それに対して家康さまは今後のことも考え
糾明を詳しく行い穏やかに済ますべき、との
お考えを後陽成天皇にお伝えになりました。
この家康さまの指示が気に要らない
後陽成天皇は勅諚(天皇の決定項)として
関係公家衆を成敗(処刑)するという内容を
お出しになりましたが、
京都所司代・板倉勝重さまは無視、
独自に関係公家衆・官女たちを尋問し
家康さまに報告、これを受けて家康さまの
お考えを再度、後陽成天皇に上奏しました。

勅諚を無視された、後陽成天皇は
どのようにも家康に任せる、と
サジを投げ出しました。

さらには、後陽成天皇はやる気がなくなり、
譲位しようとしますが、これを家康さまは
なんだかんだ理由をつけて阻止しました。

元はといえば、朝廷内の不行幸を
天皇自らが遮断するのだから
放置しておいてもよさそうなものを、
家康さまは朝廷・天子さまへの影響力や
発言権をモノにするために
後陽成天皇のご意向に口を挟んでいった、
ということでしょう。

その後の詳細は端折りますが、
後陽成天皇は
「たたなきに申し候、なにとなりともにて候」
つまり、勝手にやってくれ、と
家康さまが、というより、江戸幕府が
今後、朝廷に対しても口を挟むことを
受け入れざるを得なくなりました。

ちなみに家康さまは後陽成天皇との確執時にも、
これはこれ、それはそれ、とばかり、
様々な物品を後陽成天皇に献上していました。

7 次回

家康さま、堺湊や長崎湊を掌握し、
海外貿易も財源として重要視❗️
アジアの様々な国々との国交を持とうと考えます。
その流れはどのようなものだったのか❓

また家康さまはヨーロッパの国々とも
やり取りを進めていきます。
鎖国以前の江戸時代の外交はどうだったのか❓❗️


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