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徳川家康さま☘️をたどる#36☘️松平信康事件

初筆 2023年 5月 27日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#35
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 長篠の戦、以前の状況は、武田勝頼さまは領国内の港を保全するためにも遠江・三河を切り取りたかった。徳川家康さまは領国内の武田につくほうが安全なのかも、という市民の考えを一掃したく武田勢力を叩きたかった

  • 長篠の戦、以後、武田勝頼さまは評判を下げてしまい、境界線上の国衆は徳川方優勢と感じるようになった。家康さまは評判を上げて、境界線城の国衆は徳川方につく者が増えた。

  • 家康さまは侵攻されていた遠江・奥三河の拠点を次々と陥とし、武田勢との勢力争いの最重要箇所は遠江東部の高天神城となり、家康さまは高天神城の包囲を始めた。

前回記事
⬇️


3 松平信康さまの成長

1577年・天正5年、家康さまのご嫡男、
松平次郎三郎信康さまは17歳。
信康さまの初陣は1573年・天正元年の足助城攻め、
その後、武田勢との戦で数々の軍功をお上げ、たとえば
1577年・天正5年8月の遠江・横須賀城の戦いでは
退却時に殿(しんがり)をお務めになり
武田軍に大井川を越えさせなかった。
また、小山城攻めにも参加し、やはり退却時に
殿をお務めになり、活躍なさったという記録があります。
横須賀の戦いの殿についての記述を
三河物語から引用します。

井籠崎(いろうざき)までは敵に向かう形だったが
井籠崎を越えてからは武田勢に背を向けることになるので
信康は
「これまでは敵に向かっているので私が先に進んだが
これより先は敵を後ろにして引き上げることになる、
まず上様(家康さま)お引き上げください、どこに親を
後ろに置いて、先に引き上げる子がいましょうか」
とおっしゃった。大殿のおことばは
「せがれはわけのわからぬことを言う、早々に引き上げよ」
そして家康さま・信康さまは押し問答をし、
大殿は折れて引き上げる。
信康もそのあとを整然と隊列を崩さず引き上げる。
勝頼も川を越すこともなく、一部の川を越した者も
引き上げさせる。

4 松平信康の奥方五徳姫の12ヶ条

そのようにご成長なさっていた信康さまに
とんでもない事件が起こります。

1579年・天正3年、信康さまの奥方五徳姫さまは
信康さま中傷12ヶ条を書き、五徳姫のお父様の
信長さまに送ってしまいます。
その12ヶ条には、信康さまは行状がよろしくない、
五徳と信康さまは不仲である、母の築山殿(家康さまご正室)は
武田勝頼さまとご内通している、などが記されていました。

この12ヶ条を織田信長さまに届けたのが
宿老酒井忠次さま、ということは、家康さまも
この12ヶ条の内容はご存知で、酒井忠次さまに
持たせた、ということになりますね。
現在、信康さま事件の事実の通説となっている
三河物語より、引用します。

※織田信長さまと酒井忠次さまの面談において
⬇️
信長は左衛門督(さえもんのかみ・酒井忠次さまのこと)を
近づけて、巻物を開き、ひとつひとつ(12ヶ条について)
「これはどうか」と尋ねる。左衛門督は「その通りなり」
と申し上げる。12ヶ条とも「その通りなり」と申し上げたので
信長は2つはお聞きになることなく
「徳川家の老臣がすべてその通りであるというのなら疑いない、
 放置できぬ、切腹させよ、と家康に申せ」
と信長さまはおっしゃる

酒井忠次さまは岡崎に寄ることなく、つまり、
信康さまに報告など一切ナシに、
浜松の家康さまに信長さまの言葉をご報告、
三河物語にはこの報告を聞いたときの家康さまの
お言葉が記されています。
「信長を恨みはすまい、子を可愛いと思うのはみな同じだ、
 三郎(信康さまのこと)は左衛門督の中傷で
 腹を切ることになっただけだ。
 私も大敵(武田軍のこと)に直面し、
 背後を信長と頼むにあたっては信長に背きがたい、
 あれこれ言うまでもない」
つまり家康さまは信長さまに言われた通りに
信康さまを亡きものにせよ、ということを
おっしゃったようです。

また家康さまより信康さまにつけられた
徳川家宿老のひとり平岩七之助親吉さまは
私の首を信康さまの代わりに信長さまに
差し出して、信康さまをお助けください、
すべては傅役(もりやく)である私の
不行き届きです、
と家康さまに申し上げましたが、
家康さまはこうおっしゃりました。
三河物語よりです。

「七之助(平岩親吉さま)の言うことももっともだ。
 国に収まりきらないほどの器量の一人息子を持ち、
 跡を継がせようと思っていたのに、このように
 先立たせることは、私のこの上もない恥であり、
 残念なことである。
 しかし勝頼という大敵と戦っている最中、
 信長を後陣とせねば対抗はできない。
 信長を裏切ってはどうにもならぬ。
 七之助の首を持ってしても、左衛門督の中傷では
 どうにもならぬ、三郎を岡崎から出せ」


5 なぜ酒井忠次さまは弁明しなかったのか

ここで考えたいことがあります。
五徳姫の12ヶ条を信長さまに届けたのは
宿老にして、石川数正さまと並んで
重臣トップの酒井忠次さまであり、
浜松に居て政治にもしっかりお取り組みだった、
そんなお立場の忠次さまが
家康さまのお考えは十分お分かりかと思います。
また信長さまに12ヶ条について問いただされたときに
どう回答したらよいかも、家康さまとは打ち合わせ済み
なのではないかと思いませんか❓
その結果が、酒井忠次さまが信長さまに対して
信康さまの弁明をしなかったのではないかと思えるのです。

つまり酒井忠次さまは、家康さまの意を受けて
信長さまに12ヶ条について、事実かどうかを
問いただされたときに、すべて事実です、
と回答したのでは❓ということ。
言い直すと、家康さまは最初から信康さまを
処断するつもりで、12ヶ条を信長さまに見せ、
信長さまに信康殺害せよ、と言わせたのでは❓

いろんな資料をひもとくと、信康さまご本人
およびその周辺は以下のようであったとのこと。
ただし後世に作られた話もあるかも知れないので
事実かどうかは不明ですが💦

  • 信康さまは武辺者ゆえか日頃より乱暴な振る舞いが多かった

  • 領内の盆踊りで服装の貧相な者や踊りの下手なものを弓矢で射殺。信康dさまは敵の間者が実行犯と主張

  • 鷹狩りの場で、鷹狩り時に見ると不吉とされていた僧侶を殺害、信康さま後に謝罪

  • 五徳姫が女子しか産まず夫婦の中が冷め切る

  • 家康さまご正室築山様と家康さまはもともと不仲であった(通説)

  • 築山様は甲斐から呼んだ減敬という唐人の医師を愛人とし武田家と内通していた

  • 信長さまは、信康さま処断に築山様を連座せよとは言っていない、また信康さまの処置についても「家康の思うように」としか言っていない

  • 家康さまは信康さまと仲違いを起こしていた。

  • 家康さまは、信康さまの事件が起きる前の1578年・天正6年9月に、三河国衆に対して、今後岡崎の城に詰めること無用の指示が出ている

  • 家康さまは岡崎に仕えていた信康さま臣下に対して、信康さまを岡崎から出したあとに、信康さまとは内通をしない、という起請文を書かせた

  • 家康さまは、信康さまを岡崎から出したあとに、岡崎の城を家康さまの旗本で固めた

これらは様々な2次史料に記されていることです。
どう取るかは学者の間でも意見の分かれるところです。

そして家康さまの命によって
1579年・天正7年8月、築山殿が殺害されました。
また同年9月、信康さまがご自害あそばしました。

そして、この処断を実行した影響として、
遠江浜松城の家康さまを中心とする🆚武田主戦派が、
三河岡崎の信康さまの周りに少なからずいた
武田との敵対関係を見直そうという一派を駆逐したのは
事実だったようです。
またこの信康さま事件は、内外に徳川家は引き続き
🆚武田主戦であるという再認識をさせたのです。

7 次回

数多くの重臣を失い、長篠退却で評判を落とした
武田勝頼さまではあったが、本来賢人であった勝頼さまは
まだまだ家康さまに降参はしてませんでした。

高天神城をめぐる攻防はどんな展開を見せるのか❓
周辺の国々の動きは、武田家🆚徳川家にどんな影響を与えたのか❓
ほんまに武田家との抗争は思ったより長引いていくんだねぇ💦


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