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徳川家康さま☘️をたどる#53小田原戦後処理と奥州そして家康さまの江戸入府☘️

初筆 2023年 9月 23日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる #53
⬇️



1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著

# 信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さまは、中央政権における #関東奥両国惣無事 担当ゆえ、 #小田原征伐 では、 #羽柴秀吉 さまより、3万の兵を出し先陣を任せられた。

  • 戦時下にあっても #家康 さまは、 #秀吉 さまと連絡を密に取り、またのちの #秀忠 さまを大坂に出すことも忘れず、秀吉さまに礼を尽くした。

  • 小田原征伐は小田原城周辺だけの出来事ではなく、 北条惣領国の #関八州 全体で戦闘が発生した。

  • 家康さまは東海地方から関八州つまり旧北条惣領国に国替された。これは秀吉さまが家康さまを遠ざけたというより、関東奥両国惣無事担当者として、現場近くに配置された業務上の異動であった。


⬇️前回はこちら❗️


3 後北条氏その後と以外な家康さまとの関係

1590年・天正18年7月、秀吉様の小田原征伐に
持ち堪えられずに #北条氏政 さま・ #北条氏直 さま
親子は降伏💦💦ここに小田原征伐は終わります。

秀吉さまは、開戦責任は
北条氏政さま・ご一門衆の #北条氏照 さま、そして
家老衆の松田憲秀さま・大道寺政繁さまにあるとし、
その4名を処罰しました。
北条氏直さまは自分の命と引き換えに
小田原城内の者を赦免をお申し出になり、
紆余曲折ありましたが、
家康さまの娘婿ということもあり、結果赦免され、
大坂に旧織田信雄邸の屋敷を与えられました。
氏直さまは元来病弱で、その3ヶ月後に
お亡くなりになりました😭
氏直さまは結果周りに引きずられましたが、
判断力のある名君な一面もありましたとのこと。

ちなみに相模北条氏の系統は、
氏直さま叔父でえり、氏政さま弟の北条氏規さまが
大名ではないものの城を与えられ、ご子孫は、
大名となり、幕末までお家が続いたとのこと😉🤚

その北条氏規さま、実はかつて今川家に
人質に出されていて、なんと家康さまとは
幼馴染だったとも屋敷が隣だったとも言われています。
桶狭間の戦後、お2人は離れ離れになりましたが、
天正壬午の乱ののち北条氏・徳川氏和睦・同盟が成り
お2人は面会なさり、旧交をお温めになりました☺️

氏規さまはそのころ北条家の中では、
支城の三崎城そして江戸湾統治・警護を任されていて
北条家内で大いなる信頼をお集めだったようです。
徳川家・北条家の北条方諸連絡担当が
氏規さまだったのもうなずけます。

4 奥州仕置きと大崎・葛西一揆

小田原征伐では奥州の #伊達政宗 さまも
秀吉さまに臣従しました。
秀吉さまは、小田原征伐ののち、
下野国・宇都宮(栃木県宇都宮市)、
陸奥国・会津(福島県会津若松市)に入り、
奥州仕置きを行い、豊臣政権の
関東奥両国惣無事は実現され、これをもって
羽柴秀吉さまによる #天下統一 がなされました。

その後、1590年・天正18年10月、
旧大崎・葛西領(宮城県北部・岩手県南部)
にて秀吉さまの奥州仕置きに不満を持つ武士・農民が
秀吉さまが派遣した木村吉清さまに対して
一揆を起こします。

一揆鎮圧に伊達政宗さま・蒲生氏郷さまが
派遣されたのですが、政宗さま・氏郷さまが不仲で
さらに裏で政宗さまが一揆の糸を引いていたと
氏郷さまに勘ぐられ、氏郷さまは秀吉さまに報告。

これを受けた秀吉さまは1590年・天正18年12月家康さま・その他東海から関東の諸大名に、さらには、
#羽柴秀次 さまにも出陣を命令なさいました。
ところが政宗さまは籠城する木村吉清さまを救出、
氏郷さまと政宗さまの不仲も解消、と家康さまは
聞きおよび、武蔵国岩附(埼玉県大宮市)まで
出陣なさっていた家康さまは江戸に引き返しました。

政宗さまは上洛を命じられ、
家康さまは、政宗さまに一刻も早い上洛を促しました。
家康さまご自身の経験上、そして、
相模北条氏のケースを思い起こして、
家康さまは政宗さまをご指導なさったのは
もちろんのこと、
もし政宗さまが秀吉さまを怒らせて
改易にでもなるようなことがあったら、
次は家康さままたしても国替で、
今度は奥州に行けと命令されてしまいます。
きっと家康さまそれは避けたかったのだと
考えられます💦

関東奥両国惣無事の担当とは、
もし騒動が起こりその土地の大名が
改易処分などされてしまったら、
その地へ国替され、その土地を
統治することになるのです。

政宗さまが裏で一揆の糸を引いたかどうかはさておき、
政宗さまは大崎葛西一揆の黒幕の疑いも晴れました。
しかし、政宗さまも家康さま同様に
関東奥両国惣無事の一端を担わされ、
伊達家元来の本拠地米沢から旧大崎・葛西領に国替
され、一揆鎮圧とその土地の統治を任されました。
このときの国替がのちに政宗さまが
仙台という土地にに注目することに
つながっていきます😉🤚

5 九戸一揆鎮圧と伊達領国統治サポート

1591年・天正19年3月、陸奥南部氏一族の
九戸氏により #九戸一揆 が勃発、 #南部信直 さまは
秀吉さまに援軍を頼み、またしても家康さまが
駆り出されます💦
このとき豊臣政権軍の諸将は

  • 羽柴秀次さま

  • 徳川家康さま

  • 上杉景勝さま

  • 佐竹義宣さま

  • 蒲生氏郷さま

  • 伊達政宗さま

でした。
家康さまの出陣は1591年7月で、その道中、
伊達政宗さまの居城・岩出山城に入り、
岩出山城・佐沼城の修築サポートをするとともに、
伊達領国の整備に #榊原康政 さまを派遣し、
家康さまは伊達氏存立のために力を注ぎました😉

このときに、家康さまは、場合によっては
反旗を翻しかねないまだ若い政宗さまに
現状の大名勢力分布やパワーバランスなどを
コンコンと諭していったのかなあ、と考えられます。
奥州に伊達氏を置き地域の惣無事に目を光らせることで
家康さまも関八州の統治に集中できる、と
お考えになっての、家康さまの政宗さまへの
指導だったのでしょう😉🤚

そして九戸一揆は、1591年・天正19年9月
蒲生氏郷さま・堀尾吉晴さま、そして徳川家からは
#井伊直政 さまの手によって鎮圧され、
奥州が今度こそ惣無事となり、
家康さまはやっとこさ、関八州の統治に
取り組めるようになりました💦💦


6 家康さま江戸ご入府

小田原征伐後(内々には小田原征伐中)
家康さまは、秀吉さまに
#駿河#遠江#三河#甲斐#信濃
(静岡県・愛知県東半分・山梨県・長野県8割くらい)
から、 #関八州 すなわち、
#武蔵 #相模 #伊豆 #上野 一部 #下野一部 #下総 #上総
(東京都・埼玉県・神奈川県・静岡県うち伊豆・
 群馬県・栃木県・千葉県さきっぽ以外)へ
国替を命じられます💦

しかしこれは国替というよりも、
旧北条惣領国を統治するために現場に常駐せよ
という意味合いの国替でした。

秀吉さまは、ご自身の代理として、
家康さまを関八州に常駐させたと考えよいです。
秀吉さまは家康さまの政治・経済・軍事を
仕切る能力や実績を十分ににお認めだったからこそ
関八州を任せたのです☺️🤚

そして小田原征伐後、スグに家康さまは
新たな居城となる、そして、江戸時代を通して
政治の中心都市となる江戸へお入りになりました。
この家康さま江戸入府は、
日本の首都、東京の始まりでした☺️

7 次回

関八州を統治することになった徳川家
そして家康さまは #武蔵江戸城 入府❗️
これまで新領国経営には成功・失敗とも経験多数の
家康さまっ🤣💦

家康さまっ、
もはや中央政権の実力者なんだから
失敗するなよーー😉




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