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公共的な読書について

日々スマホやパソコンに接続して暮らしていて我々は情報に取り囲まれている。無料の情報や公共性のある情報や特定の人にしか必要のない情報がある。とにかく情報で溢れていて、情報漬けになって不必要に情報に晒されているのが普通の状況になっている。だからほとんどの人は適当に情報を遮断していると思う。こんなどうでもいいような書き出しになってしまったが、今日このnoteで書きたかったのは、情報は知るために必要だが知るだけでは何にも分からない、ということをぼくの経験から述べてみたかったのである。知っていることに価値があると多分あなたは思っていると思う。テレビで毎日のようにクイズ番組があって、どれだけ知識があるか競っている。クイズに出てくる知識なんてどうでもいいような、その時だけの虚しいものに思うのだがどうだろうか?

最近ある事情から、水橋文美江の脚本のノベライズを読んでいる。水橋文美江さんは金沢市出身ということから読む必要ができて、ぼくもせっかくだからこれを縁に集中して彼女の作品を読んでみようとしているわけだ。彼女の脚本はテレビドラマで演じられることが前提にされ、当然舞台のものとは異なる。もちろん小説とは違うし、文学かどうかも微妙なところだ。NHKの朝ドラ「スカーレット」のノベライズをまず読んでみた。今日下巻の3分の1辺りまで読んで、もうこれ以上読めないと思ったのである。あることに気づいて、そんなことは当たり前でなんで読む前に気づかなかったのかと思うようなことだった。それは、テレビではリアリティにバイアスがかかるということだった。テレビは視聴率に縛られているので、あくまで現在の最大公約数的な面白さの枠にはまっている必要がある。

小説とて同じという見方もあるだろう。しかし小説の面白さはエンターテイメントの面白さではない。面白さの射程が深く、長く、広い。ある場合には千年生き続ける。ぼくはテレビドラマの脚本というものをこれまで読んだ経験がなかった、ただそれだけのことかもしれない。脚本に対する浅い知識はあった。でもそんな知識はほとんど役に立たない。本の場合は、とにかく読んでみなければ分かるという体験はできない。何事もそうかもしれないし、認識論という、哲学でも扱っているように、分かるは知ることの後に訪れる(つまり、ほとんどのことは分からないまま浅い知識で行動することになる)のだ。あるいは、分かるという体験が永遠に訪れないこともその人の人生にはあるかもしれない。

今年立てた目標に、自分が属する読書会で読んだ本の感想文を書くというのがある。そこでこの前の課題本の小池真理子「テンと月」の感想文を書こうとするのだが、どうも億劫で書く気がしないでいる。いっその事、目標から外そうと考えたが、外すにしても理由をはっきりさせておきたいとこのnoteに向かっている。何で目標にしたかというと読んだ本のまともな感想文を書いたことがなかったからだ。これまで思いついたままをnoteに綴ってきたことはあっても、「まともな」文章ではなかったという気がしていた。

「まともな」文章というのは書評のような文章の事ではない。エッセイのような文章でもない。あえて言えば、「公共的な」文章である。自分の主観だけの感想ではなく、一定の公共性(客観性)を持ちうるコメント力のある読書感想文をと考えてみたのだが、それは書評になってしまうのだろうか。ネット上にも多くみられる書評のほとんどは、自説を言わんがために対象の本を勝手につまんでいるような印象を受ける。よくよく彼我の能力差を鑑みて自分の立場を立てているのかと疑われるものが多いように思う。商業誌に記載されたものは、商業的にウケることが見え見えの場合もあって辟易する。

自分は書評などを書く能力はないから書けないだけだ。書評は感想を書くのとは違う。感じたことをそのまま書くだけでは無く、評価しなくてはならない。何と評価するかが求められる。同じ作者の別の作品と評価したり、登場人物や話の進行のリアルさなどの描写力だったら基準になりそうである。それならば読者という立場でも評価は可能だと思われる。

そもそもぼくが書こうとするのは「感想」以上のことなのかもしれない。感じたことからさらに進んで、そのことで自分がどう変わったかまでを含んでいる。ここまできてようやく、「テンと月」の感想文を書くのが億劫な理由がわかった。自分を変えてくれなかったからだ。ちなみにちょっとだけ感想を言うと、主人公の夫はあっさり死にすぎだったと思う。それはこれから老いを迎える女性の自立を描きたかったのだろうけれど、男の自立が難しいことも配慮してくれないと男性の読者を満足させられないと思う。


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