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Episode 559 自己完結の奥があるのです。

宮崎駿監督のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」に登場するキャラクター「カオナシ」が、自他境界線の緩いASDの姿を表しているように感じる…と、以前に私はお話ししたことがあります。
あなたが「欲しいだろうモノ」を勝手に想像して、千の「違う」という否定に逆上する「カオナシ」は、ASD的な自己完結思考を顕著に映し出している…と指摘したのです。

この記事を書いたのは2019年8月のこと…今から2年前のことです。

ところで…前回の記事では、ASDの「受動型」と呼ばれる性質は、「こころの理論」獲得が上手くできなかった私が、あなたと私のお互い様の経験値の蓄積ができずに、あなただけを傷つけてしまう点を咎められることで後天的に作り上げられたのではないか…と指摘したのです。
つまり「あの子は融通したのに、あなたは何で融通しないの?」という社会性を求める圧力に対して、「こころの理論」によるお互い様以外の何らかの方法で対応することを求められた…というとこです。

このふたつの事柄も、自閉の本質と私が呼んでいる「自分の気持ちのコントロールができない」という一言で、ひとつに繋ぐことができるように思います、というのも…。

「カオナシ」の自己完結思考のポイントを整理すると、
カオナシには「油屋」というお風呂屋さんに招き入れてくれた千に対しての感謝と親近感があり、何らかの形でお礼をしたいと思っている(自我はある)けれど、どうやったら千が喜んでくれるのか分かりません。
だから千とその近くにいる人たちのことを観察するのです…千の世話役であるリンが「薬湯の札」を欲しがったこと、番台ガエルが「お腐れ様」の飛び立った後に残された砂金を見つけて大喜びしたこと…とかね。
つまり状況的に役に立つと思われるものを、千に渡そうとしたワケです。

ただし、ここには最も重要な「あなたの気持ち」が反映されていません。
それはそうですよね…だって、千とカオナシは会話していませんから。
カオナシは千の気持ちの確認をしていないのですよ。
だから、カオナシのプレゼントには、千の意思は反映されていないワケです。
でも、カオナシは自信満々で「あなたの欲しいものはこれだろ?」と、砂金を手から出して見せるのですよ。

このカラクリにはASD的な三人称視点が隠されています。
まず…カオナシもまた、「薬湯の札」も「砂金」も欲しがっていないことに注目。
つまり「薬湯の札」や「砂金」は、社会的に価値があるものという意味が隠されているワケです。
そしてそこで仕事をしている千にも、状況的に「社会的に価値があるものを同じように喜ぶだろう」という予測が成り立つのです。
実際に薬湯の札は役に立っているワケですよ…千には意味不明だったのですけどね。

これでカオナシ自身も薬湯の札や砂金が欲しかったのなら、ちょっと状況は違うかもしれません…「え、こんなに素晴らしいものなのに、何で?」ってね。
私が大好きなものを否定されれば凹みますよ…当然。
そこには一人称のカオナシと、二人称の千の関係がある…ケンカになるかもね。
でも、カオナシ自身が薬湯の札や砂金が欲しかった…ワケではないのですよ。
「千のために」考えて行動したのに、何でわかってくれないの?
そこにあるのは「カオナシ」の献身であって、エゴではないのですよ。

「こころの理論」の獲得が上手にできなかったことで発生する事象のひとつとして、「お互い様」の理解不足が上げられるのは前述した通りです。
私が生活しやすいようにあなたがちょっと譲る、同じように、あなたが生活しやすいように私がちょっと譲る…それが「私とあなたは違う個人であり、あなたの考えと私の考えは違うもの」を理解することで形作られることになる…そう思います。

「自分の気持ちのコントロールができない」自閉性質は、あなたが傷つくことへの理解ができず、あなたが気持ちの融通をし始めても、私の「我」を突き通すことになる…大人にここを咎められるワケですよね。
咎められないように「何らかの融通する手段」を編み出さなければならないASDの私は、自分を封印した上で、あなたが何を考えているのかを観察する様になる…ではないか?

前回の記事で指摘したASD的な自衛手段の方法として「自分を封印した上であなたを観察する」ことは、当に油屋でのカオナシの行動ですよね。

整理すると、「ASD的な自他境界の緩さ」とは、こころの理論の獲得が上手くいかない私が、社会的に咎められることがないように「自分を封印した上であなたを観察する」というライフハックの獲得の過程で得た「副作用」である…ということになります。

自分の気持ちがコントロールできない…というシンプルな自閉の本質部分に気が付くと、そこから広がる枝葉のように行動特徴が繋がってくるように思います。
「自他境界の緩さ」や「自己完結思考」など、特徴的な行動に着目しすぎると、その奥に潜む本質にまでたどり着けないように感じます。
緩くなってしまう理由や、完結してしまう理由に辿り着くからこそ、その問題の解決に近づけるのではないか…と、私は思うのです。

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