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一つの言葉 二つの意味

日本語の「あたま」には主にふたつの意味がある。ひとつは「人や動物の首から上の部分(大辞林)」という、目に見える物理的なモノとしての意味である。これは「頭部」と言い換えられる。そしてもうひとつは、「外界の事物を認知する働きや、物事について思考したり判断したりする働き(新明解国語辞典)」という、目に見えない精神的、内面的なコトとしての意味である。これは「頭脳」と言い換えられる。
日常生活において、「あたま」という言葉はどちらの意味でも頻繁に用いられる。「飲みすぎで頭が痛い」ならば前者、「彼は頭も良ければ性格もいい」ならば後者の意味である。日本語としての自然さは措くとして、「飲みすぎで頭部が痛い」は意味が通じても、「飲みすぎで頭脳が痛い」では意味がわからない。これは後者の意味についても同様である。
このように、「あたま」にはふたつの意味があるが、そのことはひとえに、頭部の中に脳が収まっているという進化的事実から導き出された必然の帰結だと言えるだろう。実際、英語やフランス語、中国語やスワヒリ語にも、「頭部」と「頭脳」の両方の意味を一挙に引き受ける言葉が存在する。この事実は端的に、人間が(少なくともこの言葉たちが生まれた頃には)頭部を「脳の在り処」すなわち「精神活動を司る器官が住まうところ」であると見なしていたことを示している。人間性の淵源としての「あたま」━━━こう考えれば、身体部位としての「頭部」と、脳の働きとしての「頭脳」を、同じ「あたま」という言葉ひとつで言い表すのは当然の成り行きのように思える。
さて、このような意味の二重性は、私たち言語主体に奇妙な感覚を植え付けることがある。それは、同じ表現が文脈によってその伝達内容を全く異にするという事態への、ある種の驚きとも困惑ともつかない微妙な感覚である。
「あたま」の例でいえば、「頭大丈夫?」という表現には、二通りの解釈のしかたがある。この言葉が、先刻後頭部にどこからともなく飛んできた硬球が直撃した哀れなひとに向けて発されたのであれば、それは確実に「(硬球が直撃したことによって)あなたの頭部に損傷は生じていませんか?」という安否確認の言葉として了解されるだろう。そして、その硬球が彼の背後から誰かが明らかな意志を持って投げられたことが判明したあと、その人物に向けて発されたのであれば、それは紛れもなく「(他人に向かって硬球を投げるなんて)あなたの考え方は異常だ。信じられない」という、他者の考え方や行動を非難する言葉として機能するだろう。
現実は、しかし、このようにあからさまにそのどちらかの意味が選択されるような状況に常におかれているわけではない。こんな例を考えてみよう。あなたは長年親しくしている友人たちとともに遊びに出かけた。体を動かすのが大好きなあなたとその友人たちは、大人でも楽しめるアスレチックパークで体力の続く限り運動した。疲労がたまり、注意力も落ちていたあなたは、ふとした拍子に頭を打ってしまう。あなたは何ともないと言うが、友人たちは心配そうだ。しかし皆で晩飯を食べに行き、会がかつてないほど盛り上がったあと、その事件が起こったことを覚えている者は誰もいないようだった━━━頭を打った当の本人のあなたでさえも。あなたは家に帰ると風呂にも入らずベッドに倒れ込み、そのまま深い眠りに落ちてしまった。翌朝、すっきりと目覚めたあなたは、現代人に課された義務であるかのように素早くスマホを開いた。その瞬間、あなたの目には友達のひとりから昨晩送られてきたメッセージが飛び込んできた。「頭大丈夫か?」あなたは一瞬戸惑う。「なにかこいつに喧嘩を売るような真似でもしたか?」と。しかしすぐに思い出す。「そうだ、昨日俺が頭を打ったから、それを心配してくれたんだ」と。
この例は、複数の意味を持ちうる単一の表現の真意が理解されるには、その表現がなされるに至るまでの背景や文脈が不可欠であることを教えてくれる。そして、その背景や文脈が不在であるとき、私たちはその表現の解釈の定まらなさに、もしくはその表現の真意の汲み取りきれなさに、居心地の悪さのようなものを感じるということも━━━あなたがある純粋な心配の気持ちの表れを、不和のはじまりを告げる合図だと捉えてしまい、その意外さから思わず眉をひそめてしまったように。
たいていの場合、こうした違和感はある種の「気づき」によってたちどころに払拭される。だが、そうでない場合もないわけではない。書かれた言葉に解釈を依存するSNSにおいては特に、書き手と読み手のあいだの齟齬は生じやすくなる。
対面での会話にしろ画面越しでの対話にしろ、日常的な言葉のやりとりにおいては、意味の二重性は常に解消されるべきものなのである。それは、円滑な意思の疎通を滞らせる障害物でしかない。あなたが迅速かつ正確に自らの意図や意思を伝えたいのなら、逆説的ではあるが、そこに至るまでの経緯を(もちろん冗長にならない程度に)詳しく説明し、解釈の可能性をひとつに収束させていくことが大事になってくるだろう。そうでなければ、あなたははしなくも無益な諍いに巻き込まれてしまうに違いない。

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