私がいま考えていないこと

 私がいま考えていないことについて考えたい。たとえば、地中海に浮かぶ小島で砂の中に潜むカニのこと。金星の表面をものすごいはやさで移動するガスのこと。いつものカバンの中で取り返しのつかない絡まり方をしているイヤホンのこと。遮断機の前で遠くを眺めながら電車が通り過ぎるのを待っているおじいさんのこと。
 私がいま考えていないことについて考えると、それは「私がいま考えていないこと」ではなくなる。私に考えることができるのは、あたりまえだけど、「私がいま考えていること」だけなのだ。だから、こうしてあれこれと思いを巡らせていても、どうしたって「私がいま考えていないこと」が出てくる。この穴を埋めることはできない。いくら想像力を働かせても、決して想像の及ばないところがある。それも数えきれないほどに。
 それでも、私は考えつづける。排水溝のフタを量産する工場で勤務している人のこと。暗号資産のレートの変動に一喜一憂する人のこと。カナリア諸島で釣りをしている人のこと。このパソコンの画面の向こうでこの文章を読んでいる人のこと。
 やっぱり、人間として生きていると、人間のことを考えることが多くなる。でも、せっかく大きな脳と社会性を備えた人間としてこの星に生まれ落ちたからには、人間以外のこともいっぱい考えてみたい。人間はおもしろい。でも、それとまったく同じ意味で、人間以外の動物もおもしろい。おもしろい物事を考えるのはたのしい。だから、私は考える。アメリカの荒れ地を群れで駆け抜けるバッファローのこと。コンゴの密林でひっそりと暮らすゴリラのこと。地球を横断する渡りを何食わぬ顔でこなすアホウドリのこと。深海で岩に擬態するタコのこと。
 想像するということは、自分の想像できる範疇を知るということだ。言い換えれば、それ以上想像の及ばない境界線を発見することだ。私はいま、バッファローやゴリラやアホウドリやタコのことを考えたけど、それはすべて真核生物だ。なぜ原核生物のことを考えないのか? それは、私の想像の触手がそこまで至らなかったからにほかならない。それだけではない。先ほども言ったように、いくら想像力を働かせても、決して想像の及ばないところがある。原核生物のことに思い至ったところで、それは可能な想像をすべて網羅したことを意味しない。考ええぬものはいつだって残っている。どんなに多くのことに気付いたとしても、そうした発見の旅路に終わりはない。私たちは、自己を中心とした想像の範疇(球体を思い浮かべてほしい)を、拡張することはできても、それを完全に世界と同一化することはできない。私たちの想像の境界線の向こう側に、まだ見ぬ世界の構成物が息をひそめている。私たちにできるのは、想像の境界線を「あちら側」へ押し広げることだけだ。
 ○○だけ、というと、なんだか悲観的に聞こえるかもしれない。けれども、必ずしもそう捉える必要はない。私たちの喜びは、まさにこの範疇を拡張する営みから生まれるからだ。既知の世界の中でぬくぬくと、のほほんと生きているだけでは倦んでしまう。世界の明るい部分を増やすことはたのしい。たとえその結果、暗い部分が増えてしまったとしても。
 少し話は変わるが、個人的に、何かを想像するときに言語に頼らざるを得ないことがとても悔しい。「カニ」や「ヒツジ」という一つの単語によって、現実に存在するあらゆる個体が指し示されるという状況は、じつのところ、世界の真正な認識にたいして役立っていないのではないか。名前とそれにぶら下げられたその種の諸特徴はたしかに分類学的な役目は果たすかもしれないが、「カニ」というたった一つのラベルで無数に存在する<カニ>を表そうとするのは、やっぱり傲慢だ。個体から個別性を引き剥がし、代わりにみんなと同じラベルを張り付ける作業には、暴力性が伴わざるをえない。「ただのカニだから」などという言い方がすこしの抵抗感もなくできてしまうのは、言語によって他者化され対象化されたモノとしての「カニ」が問題になっているからである。そこには、ひとつの生命として立ち現れる、人間とまったく同等の立場に置かれたカニの姿が完全に無視されている。このような、言語が原理的にもつ暴力性について、すべての人間はもっと真剣に考えなければならない。言語が覆い隠す世界の複雑さを直視しなければならない。単純でわかりやすいものは、たいてい言語でイメージ化された、世界のまがい物なのだ。
 言語を捨てて生活することはできない。これは覆しようのない事実だ。だが、言語の凶暴さや弱点を知り、それをうまく操ることはできなくもない。想像の範疇を広げていくうえでも、この観点は非常に重要である。言語は諸刃の剣であって万能な道具ではないということを心にとめておけば、むやみな名づけによって世界の真正な認識が阻害されることもあるまい。


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