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英語教育は必要か

本気でも雑談でもよく出てくるこのテーマ。
最近耳に入ってくる議論であまり私の思ってることが代弁されないのでここに吐き出してみる。

結論

必要だろ。より居心地の良い社会を見据えるためには。

理由

言語学習は異文化学習であり、目の前の事象を多角的に捉える筋トレのようなものである。多様な思考ができる人々が溢れる社会は様々なバックグラウンとの人々を受け入れ活化させる土俵となり、誰もが自分にとって力を出しやすい場所を見つけることを可能にすると思うし、新しいイノベーションを創出することもきっと可能になると思うから。

背景

あえてとても感覚的な話をする。
留学経験がある人は共感いただけるのではないかと思うが、海外でしっかり現地に溶け込んだことがある人は、日本に戻ってきても他の人と違う、何かがある。

私はこれは、異文化の存在という知見が脳内フォルダに入っているか否かの違いなのだと思う。

よく英語を使う頻度が多いなら勉強しとけ、そうでないなら勉強不要だという議論が出てくるが、そういう問題じゃない。

手元のコップが落ちて割れてしまった時に、ごめん、私がコップを落としてしまったと考えることに違和感のない人たちが、このコップが私の手を抜けて落ちてしまったよという表現を理解できる視点を持つ機会を得られるかということである。

言語の学習は文化の学習である。文化はその背景になる社会構造によって生み出されるのであり、その社会はその国の与えられた地理的条件、歴史、国の政策によって形作られるものだと思う。英語の学習の過程では、私は沢山の海外の文化を学ばねばならなかったし、逆に留学に行ったことで海外の文化を体験できたから、英語が自然と伸びたりもした。

日本という国そして高校までの義務教育を受ける過程で一個人が体験できる文化的環境というのは、極めて限定的で特殊なものなのである。それを客観的に認識できているのか、それともその世界観が自分の人生の全てであるのか。それが自己のアイデンティティの形成にあたって非常に大きく影響するのではないかと思っている。
30過ぎたいい大人にもなって未だに中学高校時代の記憶を昨日のことのように思い返し、先生や親から叱られる悪夢にうなされ、自己否定のループにはまっている人に出会ったこともあるが、私自身は同じ環境に置かれても、全力で忘れ去ることができる自信がある。今の環境と180度異なるルールで回る社会が存在することを、言葉の学習を通じてよく知っているし、今の環境が嫌ならいつでも外の環境に飛び出せばいいと考えているからだ。それに自分の環境の中に他の環境にあるものを取り入れてもいい。とにかく、脳内に今自分の見ている世界と全く違う世界がありうる。あるのだということを知る上で、言語学習はとても有益なのである。

そしてこのように考えられると、例えば自分の意見と異なる意見を持つ人々の視点にも寛容になれる。同じ文章でもコップに視点を置くのか自分に視点を置くのかで意味合いが変わる。だけどどちらも同じ事実を説明していることには変わりなく、その工夫によって得られる結果がなんなのかを客観的に考えられる。つまり、今流行りのダイバーシティー&インクルージョンの基本となる思考トレーニングが自然とされることになる。

発明や改革の元は想像だと思う。
今自分が当然だと思っていることを別の視点でやるとしたらどうか。
今パフォーマンスが出せていない人に別の接し方をすると結果は変わるか。
今人がやっている作業は人でなきゃできないが、機械がすると何が漏れるのか。盛れたところをもう一つの機械と組み合わせて補えないか。もしくは漏れるところだけ人が対応すれば2時間早く仕事が終わるのか。1日2時間の空き時間ができたら、人々の幸福度はどれほど変わるのか。

そんな発想の展開を自然に当たり前に展開できる感じになるかと思う。
そんな人々で溢れかえる日本社会になってくれたら、私ももっとこの社会が好きになると思っている。

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