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マッドパーティードブキュア 139

「テツノさんの犠牲を無駄にする気ですか!」
 影の男の叫び声に、我に返る。後ろに飛び退って獣から距離を取る。頭を振り、思考を呼び戻す。獣を見る。獣もこちらを見ている。むやみに跳びかかってくる様子はない。脅威とすらみなされていないのだ。ましてや、獣の足元には十分な食料がある。先ほどまで、テツノだった肉体が。
 このまま逃げてしまえば、そんな考えがメンチの頭をよぎった。獣は追ってこないかもしれない。生き延びることはできるかもしれない。でも。
 メンチの意志は振り向こうとする。だが、メンチの足は後ろを向かない。
 視線は地面に転がるテツノから動かない。
 テツノがああなったのは、テツノ自身のせいだ。やつの甘さが、他人のために動くなんてことがなければ、テツノはまだ生きていたはずだ。
 そのときメンチが生き延びられていたかはわからないけれども。
 それが、メンチたちの街の有り様だ。誰かのために命を投げ出せば、命はいたずらに失われる。それでも優しさを押しとおそうというのならば、それだけの力が必要になる。テツノにはそんな力はなかった。それだけだ。
 だから、メンチはもう逃げるべきなのだろう。そうしないなら、メンチも一緒に死んでしまえば、影の男の言う通り、テツノの犠牲はまったくの無駄になる。それなのに。
「逃げましょう」
 影の男が叫ぶ。メンチはそれを無視する。愚かだと思う。それでも、メンチ自身の意志が獣に向かって斧を構える。愚かさを押し通す力が自分にあるだろうか? 
 そんな力があるならば、テツノは死ななかった。力が足りないのは、メンチだ。あの日失われたテツノの強さの代わりに、テツノのわがままを、優しさを押し通すのは、メンチのはずだった。
 メンチの足は動かない。硬く握った斧が、意志を持つようにとどまり続ける。違う。意志を持っているのは、メンチだ。メンチ自身だ。メンチ自身の意志が、斧を握りしめ、獣に向かい合う。

【つづく】

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