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手口兄妹の冒険 vol.6

【前】

 誰かに呼ばれた気がして、文則は目を覚ました。目を開く。自分がベッドの上に横たわっているのに気がつく。切れかけた蛍光灯がひび割れた天井を照らしている。
 体を起こす。崩れかけた壁、なにかの汚れが染み付いたベッド。
 病室だろうか? 自問する。
 部屋には文則の他に誰もいない。
 誰もいない?
 ――沙亜耶!
 手の中、失われているぬくもり。叫んだ名は音にならずに消えた。口が動かないのに気がつく。混乱。動転。慌てて口元を触る。ザラザラとした手応え。糸の手触り。乱暴に、頑丈に縫い閉じられている。
 ぞわりと全身の毛が逆立った。鼻で行っている呼吸が荒くなる。喉の乾き。閉じられた口では唾もうまく飲み込めない。
 枕元に縁の欠けた水差しを見つける。手をのばす。どうやって飲めばよいというのだろう。注ぐべき口は開かない。頭にひらめいた疑問は次の自分の行動への疑問で上書きされた。
 その行動はひどく自然に行われた。
 水差しを持ち上げた右手は左の手のひらに水差しの注ぎ口を向け、傾ける。とろりと濁った水が水差しから溢れる。広げられた左の手のひらに水が落ちる。
 手のひらに予測した水の流れる感覚は訪れなかった。 
 ごくりごくりと喉を鳴らす音が静まり返った病室に流れる。
 喉? 眉をひそめる。
 水差しを置き、左手を眺める。
 ただの平らな手のひら。汚れて生傷だらけで唇のついたありふれた手のひら。
 違う。不自然から目をそらしていた意識が正常を否定する。ありふれた手のひらには唇はない。普通の手のひらは喉を鳴らさない。
 あげようとした悲鳴は縫い糸に阻まれる。
 ただ、声にならないうめき声が水差しから聞こえた。水差しを握る右手から。
 恐る恐る右手を開く。
 文則は意識を手放しかける。
 並んだ二つの手のひらには、二つ牙の並んだ口がうごめいていた。
「あら、目を覚ましたのですね」
 不意に、声がかかった。げこげこと喉を鳴らすような声。振り返る。
 いつの間にやってきたのか、一人の看護婦が手押し車にもたれるように立っていた。両生類のような大きな目が文則を見つめている。
 あふれかえる疑問の言葉は、右手からうめき声として出力されるばかり。
「ええ、大丈夫ですよ。もうお食事の時間ですから」
 そう言うと看護婦は枕元の机に皿を置いた。緩慢な動作で手押し車を推してくる。手押し車には大きなバケツが乗せられている。
 看護婦がバケツのふたを開ける。立ち上る悪臭に文則は顔をしかめる。不快そうな顔の文則を無視して、看護婦はバケツにレードルを突っ込む。少し混ぜ合わせてレードルが引き上げられる。どちゃりと皿の上にバケツの中身を乗せる。
 残飯と雑草とよくわからない何かを混ぜ合わせたもの。ひどい悪臭。
「どうぞ」
 澄ました調子で看護婦が言う。
 文句の言葉は出せない。せめて抗議のうめき声を出そうと右手を看護婦に向ける。右手の口が開き、ぺろりと空気を舐める。
 右手が制御から離れるのを感じた。一直線に残飯に右手が伸びる。止めようと抗う文則の意思を無視して右手は残飯に突っ込んでいく。
 ぬるりとした表面に触れる。元が何だったのかわからない、どろどろと溶けて混ざり合った半固体。
 ガツガツと、音を立てて残飯に食らいつく。足りない。食べるための口が足りない。左手が動く。残飯へ。口が開く。めり込むように残飯を咀嚼する。
 時折感じるチクチクする歯ごたえは何かの骨だろうか。手に鼻はついていないのに悪臭を感じる気がする。苦みと酸っぱさの波が口内に満ちる。
 おぞましい食餌が前腕を、肘を、二の腕を伝って体の中に入ってくる。
 右の手のひらの口が引きつる。器用に舌の付け根が蠢き引っかかっていた繊維質のものを吐き出す。皿の端に吐き出されたそれが目に入ってしまう。吐き気がこみ上げる。黒光りするとげとげとした虫の足が足だけになってひくひくと蠢いている。
 文則は恐怖に目を見開き、頭を振り回す。両手の口は頭の動きを無視して貪り続ける。汚濁が体の中に浸透してくる不快感。こみ上げる吐き気の出口はない。両手の口は吸いこむように残飯をむさぼる。たちまちのうちに皿は空になる。
 どちゃり、看護婦は残飯を空になった皿に乗せる。両手は飽きることなく残飯に食らいつく。
 やめろ、となんど胸のうちで叫んでも、閉じられた口の言葉は音にならない。両手の口は残飯を貪るばかり。ガツガツガツガツと。

【つづく】

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