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電波鉄道の夜(連結版)

【始まり】

 この街の飲み水にはひどく小さな機械が沢山含まれていて、それらは飲んだ人たちの体の中で連結して(体内の塩分で動くのだ、と店長は言う)、山奥に建つ二本の幽霊電波塔から発せられた電波を受信し、街の人々の頭の中に非実在のアイドル、セロリモネの像を結ぶのだ。
 勿論、疑問に思うことはある。僕に微笑むこのモネと店長や坂崎さんの頭の中にいるモネは同じなのだろうか?
 そう尋ねるとモネは笑って答える。
「違ったら駄目?」 
 それで、いつもどうでもいいと思う。どうであってもモネは僕たちに「今日もお仕事頑張って」と笑ってくれる。それだけでいい。

 夜遅くに声を聞いた。
「ねえ、起きてる?」
 窓の外から。開かれなかったショッピングモールの跡地にしみ込む、小さいけれども澄んだ声。頭の中にいつも響いている声。
 この時間に聞いたのは初めてだ。
 声に誘われて歩き出す。モールの外へ。罅割れたアスファルト。珍しく今夜は誰もいない。
 駐車場の端、ヘリの残骸の影に赤いリボンが見えた。燃える赤のリボン。
「モネ?」
 言葉が返ってくる。
「来ないの?」
 リボンが揺れる。走り出す。夜歩きの危なさは頭から消え去る。
 曲がり角に赤が消えた。
 追いかけて角を曲がる。
 セロリモネが澄ました顔で立っていた。その口が開く。

 汽笛が耳を劈いた。
 まばゆいヘッドライトに目が眩む。光の中、赤いリボンが舞う。
 一両の電車が通り過ぎた。モネを赤黒い破片に挽き潰しながら。
 呆然と、立ち尽くす。
 ゆっくりと電車が戻ってくる。散らばった赤黒を丁寧に踏みしめて。
 扉が開いた。一人の男が出てくる。制服を着ている。運転手だ。運転手は僕をじっと見て言った。
「乗りますか?」

 自分がボックス席に座っているのに気が付いた。草臥れたクッションにお尻が沈む。
 電車が動き出す。窓の外で夜の街が加速していく。
「隣、あいてる?」
 耳に馴染んだ声がした。目を上げる。見慣れた澄まし顔。
 電車の揺れに合わせて赤いリボンが揺れる。

◆◆◆

 当然、僕は「どうぞ」とおずおずと頷いた。
 女の子は「そっか」と笑って向かいの席に腰をおろす。そのまま何も言わないで窓の外を向く。
「モネ……さん?」
 澄ました横顔に声をかける。女の子は片目だけで僕を見て、しーっと唇に指をあてた。
「だぁっしゃりゃす。しまぁだにごちゅっだつぁい」
 祝詞が聞こえて、電車が動き出した。狭い座席、膝が触れそうになる。剥き出しの膝は眩しいくらいの白。
 本物だろうか? と疑問に思う。いつも頭の中にいるモネ。頭の中にいた通りのモネ。頭の外にどうしている?
「あの光はなあに?」
 女の子は窓の外を指さして尋ねた。深夜の街は真っ暗で、汚れた窓ガラスに作り物のような整った顔が写っている。指の先には遠く炎が輝いていた。
「きっと倉庫かお店が焼かれているんだよ」
「へえ」
 興味深そうに女の子は頷く。光はすごい勢いで後ろに消え去っていく。
「あ、また」
 今日はいつもより焼き討ちが多いのだろうか、色々なところで火の手が上がっている。
「お星さまみたい」
 女の子は窓の外を見たままそう言う。星空というのがあると店長に聞いたことがあった。僕は見たことがない。空はいつも曇天で、今も火から上がる煙を飲み込んだ黒い雲が空を覆っていた。
 風が吹いて煙が一条こちらになびいてきた。窓に煙がまとわりつく。
 こんこん、と窓を叩く音がした。隣の座席の窓だ。声が聞こえた。
「開けてもらえませんか?」
 濁った声。暗い煙の中、姿は見えない。
 どうする? と女の子がこちらを見る。困って首をかしげる。相手の願いを聞くことは良い結果をもたらさない。素性も姿もわからない相手ならなおのことだ。
「ねえ、お願いです。草臥れてしまったんです」
 声は言う。
「ねえ、開けてあげよう」
 僕は首をふる。けれども女の子は席を立ち、隣の窓を開けた。
 とたんに電車の中に煙が立ち込めた。
「あ、」
 霞む視界の中、女の子が黒い煙に巻かれるのが見えた。

◆◆◆

「モネ!」
 思わず叫んでいた。女の子は煙の中でばたばたと痙攣するように暴れている。煙が酷くて近づけない。見守ることしかできない。
 せめてものできることを探してあたりを見回す。そうだ、と窓に飛びついて下げ開く。重く淀んだ空気が車内に流れ込んで、煙が少しだけ薄れる。
 女の子に駆け寄る。顔色は青白い。ゆっくりと肩を揺すって呼びかける。
「モネ……モネ」
 本当にその名かはわからない。けれども他に呼びかける名も知らない。
 女の子がうっすらと目を開ける。安堵の息が漏れる。
「モネ?」
 女の子が小さくつぶやいた。煙を吞んだからか少ししわがれている。
「大丈夫?」
「ああ、そうだ。私は、モネ。ありがとう。もう大丈夫」
 ぼんやりと答えながら、女の子は立ち上がった。座席にすがり、ゆっくりと腰を下ろす。ほっと息をついて
「この電車はどこへ行くの」
 と尋ねてきた。問われて気がつく。この電車はどこへ行くのだろう?
「なに? 行き先もわからないで乗ってるんだ」
 女の子はしゃがれ声で微笑む。僕は頷くことしかできない。
「ああ、でも、それなら車掌さんに聞いてみるよ」
「いいよ」
 僕の提案に女の子は首を振った。
「どこへだって行けばいい。着いた所でまた考えよう」
 大きな目が僕を見つめている。また、頷いてしまう。違和感。そっと目を見返す。
「なあに?」
 女の子が笑う。何が引っかかったんだろう。
 ガラリと隣の車両と間の扉が開く。
 「じょっさけんぉはうぃっけんいたしゃす」
 ずるりずるりと何かを引きずる音と祝詞が隣の車両から聞こえてくる。車掌さんだ。
「あー」
 女の子は気まずそうに顔をそらし、外を見る。その横顔を見て違和感の理由に気がつく。見慣れた顔、どうして気がつかなかったんだろう。
 その切れ長の目の白目は鈍い灰色に染まっていた。
「その目」
 僕は口を開く。女の子は外を見つめている。
 ずるりずるりと車掌さんの音が近づいてくる。

◆◆◆

 灰色の目が大きく開かれる。僕の後ろを見つめている。
 ずるりずるりと引きずる音は大きくなり、時折ゴン、ゴンとなにかにぶつかる音も聞こえる。焦げ臭い煙の匂いの中に、地下水道のような生臭い匂いが混ざってくる。
「じょっさけんぉのごゔぉっいおねぎぇいたしゃす」
 祝詞が近くに聞こえた。
 いつの間にか車掌さんが後ろに立っていた。背の低い、影のような車掌さん。右手に幾つかヒトガタを引きずっている。乗客だったものだろう。ごんごん、という音はあれらが座席にぶつかる音だったのか、と得心する。
「じょっさけん」
 車掌さんが呟く。闇色に輝く瞳が僕の目をじっと見つめる。目を通して頭の中まで覗かれるような光る瞳。
「なるほど、それは良い切符のようです」
 ペーパーレス化の普及は本当のようだった。車掌さんは小さく頷く。
 けれども、と車掌さんは女の子に向き直る。じっとその灰色の目を見つめる。
「そちらは枚数が……」
 車掌さんの言葉は女の子の右の拳が顔に突き刺さって中断された。短い踏み込みながら足首、膝、腰、背骨、肩の回転を連動させた鋭い突き。やや打ち下ろすように放たれた突きに車掌さんは衝撃を逃がせず座席に倒れ込む。
 驚いて女の子の方を見る。女の子は何も言わずに振り返り、走り出した。座席の間をすり抜け、揺電車の揺れをものともせず、重力を感じない軽い足取り。隣の車両の扉の方へ。
 横たわる車掌さんをちらりと見る。微動だにしない。車掌さんも、右手に引きずっていたヒトガタたちも。
 「じょっさけ……じょっさけ」
 うわ言のように祝詞を呟いている。このままにしていては良くないとは思う。
 けれども
 顔を上げる。女の子は隣の車両に消えようとしている。
 今あの背中を見失って、いつかもう一度追いつくけるだろうか。あのモネが本当のモネじゃなかったとしても。
 遠くの背中を見つめる。立ち込める煙の向こう、燃えるような髪飾りが揺れる。 

◆◆◆

 青紫の唇が「さよなら」と動く。
 それを見ると思考はもえ切れて、僕は駆け出していた。「はうぃけん……はうぃ」呻く車掌さんの声を意識から振り払い。駆ける。
 駆ける。
 煙を掻き分けて、座席をすり抜けて、隣の車両に向かって、白い背中を目指して。
 車両の扉が閉まる。女の子の背中が消える。
 はやくはやくと気ばかりが急く。身体が重い。まわらない足がもどかしい。
 極夜の夜より長く感じる疾走の後、ようやく扉にたどり着く。
 がらり、と扉を開ける。閉じたときに聞いた音よりずっと重い扉。粘りつく手応え。
 扉の向こう、隣の車両は三等客席。座席はない
。ザラリとした板土間がどこまでも広がっている。
 女の子の姿は見えない。けれどもここを通り過ぎたのは確かだと思う。ふわふわと薄く、煙が漂っているから。窓は空いていない。カーテンは締め切られている。煙は薄暗い車両の中に細くたなびいている。
 車両の両側の壁の脇にぽつりぽつりと黒い布を被った塊が転がっている。あれは眠っているお客さんだろうか? 起こさないように息を詰め、足音を殺して歩く。
 聞こえるのはがたんごとんと電車の揺れる音だけ。張り詰めるような静寂が車両を満たしている。
 静寂を破って、お客さんたちの眠りを妨げるとどうなるのだろう。板崎さんが重ね合わせた銀の半球をドライバーでいじっているときに後ろから声をかけたくなるような欲望にも似た好奇心が込み上げる。
 欲望を振り払う。大きく踏み降ろしかけた足を慎重に床につける。
 ふっと煙が途切れているのに気がついた。慌てて車両の先に目を凝らす。見当たらない。消えてしまったのだろうか? さっきまで確かに漂っていたのに? 
 すべり落とした感触に力が抜ける。僕の大切になったかもしれないもの。喪失感。腰が抜け、座り込む。
 座り込んだ鼻先を幽かな残り香がかすめた。煙の香り。顔を上げる。薄く儚い霞が黒い塊の一つに伸びていた。
 
◆◆◆

「おい、あんた」
 突然、声が聞こえた。聞いたことのない声。
 伸ばしかけた手が凍りついたように止まる。心臓も一緒に止まりそうになる。
 声が聞こえたのは止まった手の伸びる先、黒い塊。
 固まったままの僕の前で塊がゆっくりもぞもぞと動く。塊を覆っていた黒い布がバサリと剥がれる。
 布の下から現れたのは、探していた女の子ではなかった。顔中に青い無精髭を生やした痩せた男の人。男の人はぼんやりとした目で僕を見つめている。
「どなたさん」
 男の人は欠伸をしながら尋ねる。答えられず固まっていると、危険がないと判断したのか「まあ、いいか」と呟いてまた黒い布を被ろうとする。
 ようやく口が動くようになって口を開く。
「僕は……女の子を探して、いるんです」
 つっかえながら口から言葉をひねり出す。男の人は動きを止めて僕をちらりと見る。
「女の子、かい?」
「はい、この辺りで女の子を見ませんでしたか?」
「どんな子なのさ」
「可愛い女の子です」
 少し考えてから付け加える。
「アイドルの、セロリモネ……に似てて」
「セロリモネ、はわからないけれども」
 男の人は目を擦りながら答える。
「可愛い女の子なら、もしかしたらこの先の購買車で見つかるかもしれないよ」
「本当ですか?」
 飛びつくように問い返す。男の人は変わらない調子で言葉を続ける。
「ああ、この電車の購買車は品揃えが良いって専らの噂なんだ」
 かくいう俺もね、と男の人は枕代わりにしていた鞄を叩いて言う。
「ここで物を売って、色々と仕入れるつもりなんだよ」
 鞄はなにかがパンパンに入って、時折ぴくぴくと蠢いている。
「そろそろ市の立つ時間だ。」
 男の人は立ち上がり、腕時計を見ながら言った。
 ジリリリリ
 けたたましくベルが鳴った。それを合図にそこら中に転がっていた黒い塊たちが各々起き上がり人間の形になっていく。皆、荷物を担いで隣の車両へと向かう。
「じゃあ、俺は行くよ」
 男の人が言った。 

◆◆◆

 歩き出した男の人の後ろについて、隣の車両の扉をくぐる。
 扉をくぐった途端、静寂は消え去った。代わりに耳に飛び込んできたのは活気ある市場の喧騒だった。ワクワクと品定めをする声、一人でも多く客を捕まえようと呼び込む声、狡猾そうに価格を交渉する声。今までの静かな車内から一転、くらくらするような活気が僕を包んだ。
 その賑やかさがなんだか恐ろしくて、男の人の後ろに隠れるように車内を進んでいく。よく知らない人だけれども、全く知らない人たちから隠れる分にはそれで構わない。
 男の人は僕をちらりと見てから、特に気にしないことにしたのか何も言わずに足を進める。
 いろいろな品が並んだ商店が所狭しと並んでいる。大きな店と大きな店の間にはその隙間を埋めるように小さな露天商が店を開いている。
「ちょっと見せてもらうぜ」
 前を歩いていた男の人が足を止めたのは、数匹の鳥を並べた露店の前だった。動きを止めた鳥たちがぴくりともせずこちらを見つめている。
「これは何ですか?」
「鳥のお菓子さ」
「こんなに本物みたいなのに?」
「じゃあお菓子じゃないのかもな」
 僕の質問に男の人はおざなりに答えた。鳥たちを見るのに夢中で僕への興味は失ってしまったようだ。
 鳥たちの視線から逃れるようにあたりの店を見回した。色んなものが並んでいる。見たことのあるようなもの、見たことのないもの、見たことがある気がするのにどこか違うもの。
 そうだ、と自分が探しているものを思い出す。女の子、モネに似たあの女の子はこの車両にいるのだろうか。
 いくつかの屋台越しに、遠くの屋台のショーケースの中身と目が合った。思わず体が動く。商店と商店の間をすり抜けて、その屋台に向かう。
「モネ」
 息が止まる。
 ショーケースの中にはモネの顔が首だけになってこちらを向いて微笑んでいた。
「おお、お客さん。それをみとめるとはお目が高い」
 店主が僕の方を見て大仰な口調で言った。

◆◆◆

 薄く微笑むモネの顔はいつも頭の中で見たままの顔。首から下がなくなっても可愛らしさは変わらない。
「ねえ」
 真っ赤な唇が動く。
「ひさしぶり。元気だった?」
「どうします?」
 陶磁に墨を垂らしたようなモネの瞳から目を逸らせない僕に店員さんが問いかける。
「お知り合いのようですから、勉強しときますけど」
「おいくらですか?」
 知らないうちに声が漏れる。どんな額でも買えるほどのお金なんてないのに。
「そうだな、半額まで負けておきましょう。目玉2つか……それとも耳を2つと鼻を一つでどうでしょう」
 思いがけない言葉に視線が動く。店員さんの方に。本気だろうか? 店員さんは僕の顔をじっと見ていた。値踏みをする視線。冗談には聞こえない。とても価値が釣り合っているとは思えないけれども。
「どうします?」
 店員さんが繰り返す。僕はもう一度モネの顔を見る。
「目の方で」
 頭の中に焼き付いた顔は目がなくても見えるけれども、匂いはわからない。それじゃあ手に入れる意味がない。
 目を取り出すためにまぶたを閉じる。モネの顔が視界から消える。それでもモネの顔はしっかり思い出せる。
 モネはこんな時にはなんと言うだろう。こんなことがあった気がする。内臓を売って投げ銭をしたファンに向けていった言葉。
 頭の中のモネが口を開く。生放送じゃない、アーカイブのモネ。
 あのとき言っていたのは
「応援はありがたいけど、生活水準を落とすのはだめだよ」
 目を開く。
 そうだ。モネはそう言っていた。きっと今でもそう言う。だから
「買ってくれないの?」
 それなのに、ショーケースの中のモネは悲しそうに呟く。
 モネの言いつけと眼の前のモネの悲しい顔。どちらも諦めることは出来ない。
「どうします?」
 店員さんが繰り返す。
「じょっさけんはゔぃけんしゃす」
 喧騒の中にかすかに、祝詞が聞こえた。かすれているけれども、通る声。それからずるりと何かを引きずる音。 

◆◆◆

「別に自分の目や鼻や耳、でなくてもよいのでしょう?」
 店員さんを見つめて問いかける。
「もちろんですよ」
 店員さんは仮面のような笑顔のまま頷く。
「商売の基本は等価交換。それがどうやって手に入れたものであろうとも売買の場では同じものは同じだけの価値があります」
 耳の後ろに祝詞の気配を感じながら、店員さんの言葉に耳を傾ける。思いつきの妥当さと実現可能性を考える。不可能ではないように思える。だから、僕は店員さんの目を見て言う。
「心当たりがあります。少しだけ、待っていてもらえますか?」
「ええ、それは構いませんが……」
 店員さんはショーケースに目を落とす。
「良い品物ですから、他に買い手が見つかるかもしれませんよ」
「できるだけ急ぎますんで」
 おまちしております、と丁寧なお辞儀をする店員さんを背に小走りに駆け出す。前の車両に。狭い商店と商店の間を抜けて、地面に広げられた露天をまたぎ越して。
 走りながら、思い出す。
 車掌さんと対峙したときの緊張感。戦いを挑むと考えることさえ浮かばないほどの威圧感。けれども
「無理ではない」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 頭の中で蘇るのはさっきの女の子一撃。倒れ伏せる車掌さんの姿。
 車掌さんも生き物だ。殴れば倒せる。命までは奪えないまでも、一瞬でも意識を刈り取れればよい。あの引きずっていたお客さんたちをくすねるのには十分な時間が稼げるだろう。
 車両と扉をくぐる。市場の混沌とした喧騒は消え去る。痛いような静寂が耳に突き刺さる。「こんつぁっきうぅれまぁすんで」静寂の中、祝詞が聞こえる。それからずりずりと物を引きずる音。聞こえるか聞こえないか、まだずいぶん遠い。
 落ちていた瓶を拾い、布を被り、息をひそめる。 
 お客さんたちがみんな市場に言ってしまったこの三等客席はガランとしていて、節約のためだろうか、電気も消えていて薄暗い。
 アンブッシュにはうってつけの暗さ。

◆◆◆

 布の中で息をひそめる。扉越しに足音が聞こえてくる。時折立ち止まっている。殴打音、何かを締め付ける音。そしてまた足音が始まる。ずるずる、と引きずる音は前に聞いたときよりも重たく、数が増えているように聞こえる。
 ゆっくりとしかし確実な歩調で足音は近づいてくる。高鳴る心音が聞かれるんじゃないかと思って、瓶を握っていない方の手で心臓を抑える。
 大丈夫、いつもやっていたことをやるだけ。
 足音がいよいよ扉の前までやってくる。瓶を握りなおす。冷たかった瓶は僕の体温が移って少し暖かい。
 がらり、と扉が開く。布を被ったままの黒い視界の中、気配を伺う。 
「じょっさけんぉはうぃっけんいたしゃす」
 扉のところで立ち止まり、祝詞を唱えるのが聞こえる。しばらくしてまた歩き始める。明かりはつけていない。
 歩みに迷いがあるようには聞こえない。考えてみれば、車掌さんもこの車両のお客さんたちがみんなこの時間に隣の購買車に行っていることは知っているはずなのだ。だから誰もいない、と考えていたとしても不思議ではない。
 足音が隣の車両より速いように聞こえるのはきっとそのせいだろう。
 ならば、と一層息を潜め、身じろぎの一つもしないようにする。人ではなくて荷物であると思ってくれればもっと良いのだけれども。
 足音が止まる。近い。どきりとする。僕がここにいるのがバレたのだろうか? 自分は荷物、自分は荷物、祈るように自分に言い聞かせる。
 踏み出す音。遠ざかる方向。通路の反対側へ。少し胸をなでおろす。
「じょっさけんふぁいけん」
 音を立てないように立ち上がる。布を踏み、足音を消して近づく。薄闇の中、車掌さんが布を捲っているのが見える。寝てる人の形をした荷物。仕掛けをしておいてよかった。
「なんだ、ただの荷物か」
 車掌さんが呟く。僕はその背後に立つ。車掌さんは無防備に立ち上がる。
 その後頭部に狙いを定めて僕は瓶を振り下ろした。
 
◆◆◆

 バリン
 音を立てて瓶が割れる。
 確かに芯を喰った手ごたえ。この一撃を食らって立っていられた奴は街でもほとんどいなかった。
 思った通り、車掌さんは力なく倒れ込む。車掌さんの握っていた鎖が床に落ちてがちゃりと音を立てた。わき腹をつま先で蹴ってみる。小さなうめき声。命まではとってはない、はず。
 落ちた鎖の先、ヒトガタの一つを探る。頑丈な黒の袋で包まれたヒトガタ。ちゃんと目か耳か鼻が残っていたらいいのだけれども。
 ジッパーを下ろし、袋を開ける。二つの目が僕を見返していた。ああ、よかったと安堵が胸に沸く。少なくとも目は確保できそうだ。もう少しジッパーを下ろす。
「え?」
 二つの目がギラリと光る。深い闇色の光。混乱。床に横たわる車掌さんの顔を覗き込む。それからもう一度袋の中を覗く。混乱は収まらない。
 袋の中から見返す目は、いや、無表情に僕を見つめるその顔は、床でうめいている顔とまるで同じだった。
 動揺が思考を侵す。意識の空白。その間に、袋から手が伸びてくる。気がつくのが遅れる。数瞬
だけ、けれども致命的なほどに。
 伸びた手が僕の首に絡みつく。かろうじて左手を隙間にねじ込む。
 袋を振り払いながら、二人目の車掌さんが立ち上がる。僕を動かない一人目の車掌さんの隣、冷たい床に押し倒しながら。
 「乗務員への暴力行為はご遠慮いただいております」
 感情のない声。昏い瞳が僕を見つめる。首の手を振り解こうともがく。万力のような力でびくともしない。挟み込んだ左手ごと砕き潰されそうになる。
 頭に送られる酸素が少なくなり、意識が遠のいていく。頭の中に映像が展開される。聞いたことがある。走馬灯。
 けれども、再生されているのは僕の生涯じゃない。見えるのはモネの顔。頭の中のモネのアーカイブ。この顔は、そうだ手を付けてはいけないお金を投げ銭にしてドブンブレラに追われているファンへの言葉。たしか、あの時モネが言ったのは。

◆◆◆

 歌、雑談、プロデュース業、便利屋、廃品回収、寝かしつけ。
 セロリモネの活動は多岐に渡る。
 とりわけ人気があるのは公開お悩み相談室だ。手紙やメール、その他の電波などの手段を用いてファンからのお悩みを集め、放送の中で答えていくというコーナーだ。
 多種多様なファンからの多種多様なお悩みをときにズバリと、ときに柔らかく切り分けていく。僕も一度だけ読んでもらったことがある。心臓が止まるほど嬉しかったのを覚えている。「まあ、電肢化はちょいちょいデメリットもあるから、しっかり自分で調べて納得してからやった方がいいよ。うん、そりゃ便利なことも多いけどさ、それだけじゃないこともあるみたいだから」
 
 人気の理由にはもちろん話の内容が面白いとか、他のファンと悩みを共有して一体感が高まるとか、そういうのもあった。けれども一番の理由は誠実でファンに親身な気持ちが、あけすけでぞんざいな言葉の向こうに透けて見えたからだ。
 どんなに小さな悩みにも、あるいは大きな悩みにも真剣に悩んで相談者のことを考えながら答えているのが伝わってくるのだ。「で、次のお悩みは……ってなかなか長いな。」
 その時もモネはお悩みを見てやっぱりぞんざいな感想を漏らして続けた。
「えー『こんもねです。モネさん』はい、こんもねー。『いつも応援してます。少し困ったことになりました。モネさんを応援するためにお金を転がしていて、ちょっと研究所のお金を失ってしまいました。取り戻そうと拝借するうちにいつの間にかすっからかんになってしまいました。同僚にもバレてしまい研究材料にされそうになっています。どうか憐れな一人のファンに一言いただけないでしょうか』」 お悩み読み上げの後、長い沈黙があった。
 長い長い沈黙だった。
 耳を傾けているファンたちが不安になる長い沈黙。
 沈黙の後、モネは深いため息をついた。
 それから、吐いた息より大きく息を吸って口を開いた。

◆◆◆

「いいかい、あんたたちね。いつもいつもいつも言ってるけどね」
 その声は地の底から響くような、本物の怒りのこもった声だった。
「もう一回だけ言っとくよ。生活水準落としてまで応援するのはやめなさい。……なに? 命狙われてるだけで別に生活レベルを下げてはいないって? おばか、おおばか、おろかもの。あんた知らないから言っておいてあげるけどね、実は命狙われると生活水準はガク落ちするものなの! 気軽に外もいけないし、おちおち眠ることもできない。そんなことくらいもうとっくにわかってくれてると思ってたけどね! ていうかね、命狙われるだけならいいけど、結局それって最後には命おとすことになるんだからね? そんで、ばかなあんたたちは知らないかもしれないけど、死んでしまったら応援もできなくなるんだからね。ファンがいなくなるのは悲しいってことくらいわかってよ。だいたいさ、そもそもそんなことまでして応援されてうれしいと思う? 『はいはーい、モネちゃん。この投げ銭は僕内臓を売って作った投げ銭だよー、実質内臓。喜んで受け取ってねー』って受け取れるか! そんなお金渡されても誰もうれしいとは思わないし、喜びもしない、ただ気まずい気持ちになるだけでしょうが! 小銭手に入れようと内臓売る契約する前に、そのお金もらった相手がどんな気持ちになるか考えたことある? ないよね? ちょっとでもあったらそんなことするわけないよね。
 だから、改めて言っておくよ。生活水準提げてまで応援なんてするな。わかったか、ばかものども」
 とここまで一息にまくしたてた後に、少しだけため息をついて続けた。
「まあ、でも、やっちゃったことは仕方がないからさ、頑張りなさいよ」
 それから、そうだ、もう一度ためらうように口を開いたんだった。
「頑張って、生き延びなさい。それだけ」
 思い出した言葉で、薄れかけていた意識を取り戻す。
 生き延びないと。

◆◆◆

 力が抜けかけていた体に活を入れる。最後の力を振り絞り、もがき続ける。
 車掌さんの腕を掴み、体を揺する。びくともしない。再び意識が遠のきかける。
 その時、床をはい回っていた右手に何かが触れた。無我夢中で握りこみ、振り回す。
「ぐう」
 車掌さんが声を漏らす。ほんのわずかに首を掴む力が緩む。隙間に挟んでいた左手にぬるりとした感触が伝わる。滑らせるように車掌さんの手を振り解く。
 床の上を転がって距離を取る。
 「げほ、げほ」
 圧迫から開放された気道に空気が送り込まれる。立ち上がる。
「危険物の持ち込みはご遠慮いただいております」
 車掌さんが口を開く。左手で右の前腕部を抑えている。抑えた隙間からダラダラと赤い血が流れ出ていた。
 右手に鋭い痛み。とっさに掴んでいたのは瓶の破片だった。鋭い切っ先が手の平に食い込んでいた。もがいているうちにこれで切りつけていたのか。
 車掌さんは腕を抑えたまま一歩、足を引く。殺気。こういった職業の人は危険を感じたときはためらいなく危険を排除すると聞いたことがある。僕もガラス片を腰だめに構える。
 凶器持ちとみなされた以上、戦いは終わらない。どちらかが動かなくなるまでは。 
 見合う沈黙。
 がたん、と電車が揺れる。わずかに僕の重心がずれる。その瞬間、車掌さんが動いた。距離が消える。
 やけにゆっくりとした時間の中、車掌さんはぶれのない体幹で僕に突き進んでくるのが見えた。槍のように鋭い右腕が僕の心臓に伸びる。
「あぶない!」
 叫び声が聞こえた。澄んだ、よく通る声。
 胸に暖かな衝撃。後ろに倒れ込む。
 「え?」
 驚きの声が漏れる。目の前で燃える赤のリボンが揺れる。白いワンピースを染める血はそれよりもずっと赤い。血は胸に空いた大きな穴からとめどなく流れ続けていた。
「モネ?」
 腕の中でモネがゆっくり目を開く。
「言ったでしょう」
 ごぼごぼと声に血の水音が絡みつく。
「生き延びなさい」

◆◆◆

 目を閉じる。
 モネの声がまぶたの裏に響く。
「生き延びなさい」
 目を開く。赤い視界。目だけを動かす。
 首を傾げる。薄暗闇の中には誰もいない。
 モネはいない。
 車掌さんも。
「モネ」
 名を呼ぶ。がたんごとんという電車の揺れの他に答えるものはない。静寂だけが三頭客席を満たしている。この車両に入って来たときととまるで同じような。
 違うのは喉の痛み。それから腕の中の湿った温もりだけ。モネのいた温もり。血まみれのモネの温もり。
 立ち上がり、歩き出す。その足がぐにゅりと柔らかいものを踏み、躓きそうになる。
「あ、すいません」
 思わず謝って、下を向く。そこにいたのは物言わぬ車掌さんだった。どうしてこんなところに寝ているのだろう? そう思った後に得心する。ああ、そうだ、この車掌さんは僕が瓶で一撃食らわした車掌さんだ。
 しゃがみ込み、首に手をあてる。温もりはない。呼吸も脈もない。動作は停止している。
「ああ、そうだ」
 ここに来た理由を思い出す。
 車掌さんの体をひっくり返し、仰向けにする。まぶたをめくる。光を失った暗い瞳が覗く。優しく、中身を傷つけないように目尻と目玉の間に人差し指を入れる。頑丈な感触を指先に感じる。やがて奥に目の奥に指が届く。ゆっくりと力を入れていく。ぬるり、と眼窩から眼球が溢れる。
 滑らないように辺りに落ちていた黒布でくるみながら眼球を掴む。
「これでいいか」
 右手に握っていたガラス片で眼球に付いた脂肪や視神経を削ぎとっていく。
「よし」
 満足いったところで黒布を開く。顔から切り離された眼球はなんだかひどく寂しげに見えた。
 同じことをもう一つの目にも繰り返す。
 2つの球体をポケットにしまう。
 「まだ残っていると良いけれども」
 隣の車両、購買車へ。
 扉を開ける。奇妙な静寂。静寂?
 購買車にはもう誰もいなかった。客も店員も。
 どこまでも並ぶ露店には一様に同じ看板が下げてある。
「準備中」
 
◆◆◆

 さっきまでの喧騒が嘘だったかのように購買車は静まり返っている。
「しまった、間に合わなかったか」
 独り言は無人の市の隙間に飲み込まれ、こだまさえ帰ってこない。
 記憶を頼りにさっきのお店のあたりまで歩く。モネの顔を売っていたお店。
「この辺りのはずだけれども」
 色とりどりの品物がひしめいていたショーケースは、どれにも埃よけの布がかけられて色彩が拭いさられている。のっぺらぼうのように判別のつかない店構えがどこまでも並んでいる。
 記憶をたどる。角を曲がる。店と店の間を抜ける。露店の跡を跨ぎ越す。
 かたり、と踵がなにかを蹴飛ばした。あわてて振り返る。辺りと変わらぬ灰色の布の下で何か背の高いものが倒れていた。前腕ほどの大きさの細長いもの。
 値段の高いものだろうか。壊れていないと良いのだけれども。恐る恐る布をめくる。
 布の下はやっぱり灰色が並んでいた。たくさんの、異なった大きさの筒。僕が倒したのはその中でも大きなものだった。そっと持ち上げてためつすがめつ眺めまわす。少なくとも見ただけでわかる傷はついていないようだった。
 ほっとして元の位置とおぼしき場所に戻す。
「あれ?」
 筒の端に穴が空いているのに気がついた。それほど大きな穴ではない。昼間の猫の瞳孔くらいの大きさの穴。とくになにか考えることもなく、筒を目に当てて覗き込む。 視界に色が溢れた。黄色、青、緑、橙色。大小様々な色たちはゆったりと揺れ動き、舞い散り、十六等分の幾何学模様を描ぃ。筒を揺らす度に穴の中の光景は移り変わっていく。ある時は花のようで、ある時は星のようで、ある時は瓦礫の枝から差し込む木漏れ日のようで。新しい形、新しい模様。一度として同じ形はない。
 「え」
 光景が赤く染まる。燃えるような赤。その赤は見覚えのある赤。十六分割された世界の中で赤が揺れる。赤い髪飾り。髪飾りの下で十六人の女の子が振り返る。「お気に召しましたか?」

◆◆◆

 驚いて、筒から目を話す。
 ぎょろりとした大きなの目のおばあさんが傍らに座り込んで僕を見つめていた。いつ来たのだろう。全然気が付かなかった。
「すみません。勝手に見てしまって」
「いいんだよ、どうせ仕舞いにするつもりだったから」
 言いながら、おばあさんは肩から下げた大きな鞄に手際よく筒を詰めてい。
「あの」
「いるのかい? それ」
 おばあさんは僕の手の中の筒を見つめながら言う。
「いえ、持ち合わせがありませんから」
「そうかい」
 おばあさんが手を差し出す。僕は筒を返そうとする。
「どうしたね?」
「いえ」
 僕の手は筒を握ったまま凍りついたように離そうとしない。離そう、離そうと試みるほどに指は曲がり、筒を握りしめる。
 それを見ておばあさんは深いため息をついて言った。
「そんなに、気に入ったのかい」
「それは……はい」
 おばあさんはもう一度深いため息をついた。
「それじゃあ、持っていきなさい。お代は良いから」
「でも」
「いいんだよ。あんたみたいな子が、そんな目をして物を欲しがってるときにはね、結局ただでもなんでも渡しちまうのが一番安くつくんだ」
 そう言っておばあさんはぶるりと体を震わせた。けれども
「そういうわけにはいきません。価値のあるものには対価を払わなければ。自分が望むものならばなおのことです」
「じゃあ、あんたには何が払えるって言うんだい」
 おばあさんが値踏みするように僕を見つめます。
 何かないか、とポケットを探る。
「ああ、そうだ」
 指先に布に包まれた塊が触れる。そっとつまんでポケットから引っ張り出す。勢い余って零れ落ちたポケットの中のガラクタを無視して、布を開き、おばあさんに見せる。
「これはどうですか?」
 布の中で車掌さんからもらった二つの目がぼんやりと宙を見つめている。
「いらないよ。そんなもの。あたしにゃなんの価値もない」
 おばあさんはそう言った後に、突然目を見開いた。
「いや、待ちな」

◆◆◆

「そいつはなんだい?」
 おばあさんが皺だらけの指で床をさす。その先に散らばるのは釘、枯れ草、ドブ券の切れっ端。さっきポケットからこぼれたガラクタたち。
 おばあさんの指はその中の一つ、きらりと輝く物を指している。拾い上げる。それはガラスの破片。さっき車掌さんの目をしまう時に一緒に入ってきていたらしい。
「良い色のガラスだね」
 透明だったそのガラスは脂肪や血がこびりついていたのが乾いて黄色や赤の斑模様になっている。おばあさんは見開いた大きな目でガラスをみつめている。
「その……いりますか?」
「いいのかい?」
「ええ、僕にはいらないものですから」
 ガラスをおばあさんに手渡す。おばあさんはガラスを受け取ると天井の灯りに透かして眺め回し始めた。
「なにに使うのですか?」
「ああ、このかけらを砕いてな、万華鏡にいれるようと思うんだよ」
「まんげきょう?」
 不思議な五感の言葉が気になって、オウム返しに繰り返す。おばあさんは不思議そうな顔をして答える。
「万華鏡さ。その子たち」
 おばあさんは僕が握ったままにしている筒を指差して言葉を続ける。
「その子たちのことだよ。きれいだろう。こいつがあればまたきれいな子が作れるんだ」
 おばあさんはそう言ってガラスの破片を撫でた。
「こいつをくれるってんなら、その子はあんたにやるさ」
「いいんですか?」
「ああ、いい取引さ。その子だって欲しがってる人のところに行く方が良い」
 おばあさんはほくほくとガラスをカバンにしまった。
「この先揺れますので、対ショック姿勢をお取りください」
 車内放送が流れた。意味を考える間もなく、閃光。衝撃。浮遊感。床に叩きつけられ、上下がわからなくなる。
「大丈夫かい?」
 転がる途中で腕を掴まれた。慣性で腕が抜けそうになる。掴んでいたのは殺気のおばあさん。意外なほどの力強さ。
「なんですか? これは」
「馬賊だね」 
 また、衝撃。今度は身構えていたので大丈夫。

◆◆◆

 おばあさんは窓に駆け寄ると、窓の縁から外を覗いた。僕も真似をして外の様子を伺う。
 夜の闇の中、走っている電車に並走する幾つかの影があった。
 影たちの一つがこちらになにかを投げる。閃光。衝撃。今度は少し遠い。まばゆい光に影たちの姿が照らし出される。
 追ってきているのは緑の細長い馬に乗った男たちだった。髭だらけの恐ろしい顔で電車を睨みつけながら、「ホウホウ」と声を上げて馬を走らせている。
 線路の周りは舗装されていないところも多い。このようなところでは機械よりも馬のほうが効率のよい乗り物なのかもしれない。実際、馬賊たちは電車から引き離されることなく、ぴったりと並走してくる。
「大丈夫なんですか?」
 声を抑えておばあさんに問いかける。
「そろそろ、出迎えが出るはずだよ」
 かっ、と電車側面の照明が点灯した。眩い光が馬賊と馬たちの目をくらませる。数頭の馬が驚いて立ち上がり、乗り手を振り落とす。あれが出迎え、だろうか。けれども、いくらかの馬賊たちはたちまち立ち直り、追跡を再開する。
「まだ追ってくる」
「いや」
 おばあさんの声が聞こえていれば、反応できていただろうか。電車から飛来した何かが一人の馬賊を吹き飛ばした。馬から落ちた馬賊は声も上げず後ろへ消え去っていく。馬賊を吹き飛ばした何かは空になった馬の背を蹴り、再び跳躍する。
 跳躍の瞬間、わずかに速度が落ちたそれを僕の目がかろうじて捉える。
「暴力行為はご遠慮いただいております」
 それは車掌さんだった。馬賊を蹴り飛ばしながら、馬の背から背へ跳び回っている。車掌さんを追随するのは5つの黒い塊。その塊たちも意志を持つかのようにすれ違いざまに馬賊を殴り飛ばしている。
「でやがったな」
 低い声が聞こえた。続いてホウホウという声。
 車掌さんの周りの馬賊たちが速度を落とし、空間ができる。
「今日は逃さねえ」
 一際大きな馬賊の一人がそのスペースに踊りこんだ。

◆◆◆

 ぞろり、と男は大きな棒を取り出した。太く、長い棒だった。棒の先には目玉のような赤い2つの丸と、黒と黄色のバツ印が取り付けられている。
「電車備品の破壊はご遠慮ください」
 車掌さんは乗り手のいない馬の背に立ったまま、無機質な声で告げた。
「全部もらってやるよ、遠慮すんな」
 男は高く笑いながら、馬の腹を蹴った。人馬一体、駆ける馬が車掌さんの馬に肉薄する。間合いが詰まる。棒の間合いへ。棒が振り下ろされる。 重さを感じさせない鋭い一撃。重く素早い一撃が車掌さんの肩口を捉える。
「あ」
 流血の予感に目を覆う。
 けれども、聞こえたのは肉を裂く音ではない。硬い金属がぶつかる音。がちり、という意外なほどに小さな音。
「なにぃ!?」
 何が起きた? 窓から外を覗く。
 男が目を見開き、驚きの声を上げていた。振り下ろした棒は車掌さんの眼前で止まっていた。
 バチンと鈍い音が闇に響いた。
 固まっていた男の棒が解放されたように動き出す。目を凝らす。車掌さんの手の中にギラリと銀色に輝くものが見えた。あれは
「ハサミ?」
「車掌さんにあれを使わせるとはあの男もなかなかやるね」
 おばあさんが小声で呟く。見れば、男の振り回す棒に取り付けられたバツ印には三角の大きなかけができている。
「ちっ」
 男は舌打ちをして車掌さんと再び間合いを取る。隙を伺うように棒を大きく振り回し、ホウホウと声を上げる。
「これならどうだ?」
 男がにやりと笑う。
 車掌さんと男を取り囲むように並走していた馬賊たちが囲みを解く。並の馬賊では束になっても車掌さんに敵わなそうだけれども。
「まずいかもしれないねえ」
 おばあさんが漏らす。
 馬賊たちは車掌さんを無視して走る電車に突撃を始めた。車掌さんは追随する黒い塊を振り回し、手当たり次第に馬賊たちを蹴り落としていく。
「おっと、あんたの相手は俺だぜ」
 注意が逸れたその瞬間、頭目の男が車掌さんの脇腹に突きを叩き込んだ。

◆◆◆

 隣の車両で爆発が起きる。壁に穴が空き、扉から風が吹き込む。馬賊たちが鬨の声を上げて殺到する。車掌さんが塊を繰り、牽制している。けれども、頭目の相手をしながらの牽制は完璧にはいかない。隣の車両、三等客席に一人、二人と馬賊たちが入り込んでくる。
「こっち、急いで]
 声が聞こえた。
 馬賊たちと反対の車両。風の音や爆発の音の中でも聞こえるよく通る声。扉の影から白い手が手招きしている。あの手は
「モネ?」
 考える前に、走り出していた。お店の間をすり抜けて、彼方遠くの市の果て、隣の車両へ。
「どこへ行くんだい?」
 おばあさんが叫ぶ。答える余裕はない。走る。走る。「けひゃあ、けひゃあ」後ろから荒々しく物をひっくり返す音が聞こえる。馬賊たちが購買車を荒らす音。騒々しい音の中、「ひいぃ」と悲鳴が聞こえる。ばたばたと足音も聞こえる。おばあさんが追いかけてくる。どちらにしろ、馬賊から逃げるにはこの方向しかない。
 露店を飛び越えて、隣の車両に近づく。手はまだこちらを招いている。
 もう少し。
 がらがっしゃんと背後で大きな音がした。ちらりと振り向く。おばあさんが倒れている。辺りには露店の品物が散らばっている。転がっている品物に躓いたのだろうか。
「うぅ」
 おばあさんが呻く。
「げひゃあ?」
 馬賊たちがこちらを向く。倒れているおばあさんに視線が集まる。一瞬の静寂。
「けっひゃあ!」
 奇声をあげ、馬賊たちが駆け出した。おばあさんめがけて。物言わぬ商品よりも、生きたおばあさんの方に価値を認めたようだ。
 どう、しようか。思考が加速する。時間が鈍化する。
 街の理論なら、僕は振り向いて隣の車両に駆け込む。犠牲は二人より一人のほうが良い。その一人が自分でないならなお良い。
 けれども、背後の白い手を見る。記憶に刻まれた均整の取れた手。あの手を悔やまずに握れるだろうか?
「けひゃあ」 
 馬賊が迫る。おばあさんはまだ立ち上がらない。

◆◆◆

 モネがゲームをするのを見ていて時々わからないことがあった。損をするのがわかっているのに誰かのために行動すること。例えば、初心者と思しきプレイヤーを殺さなかったり、それどころか貴重なアイテムを与えたりする。なにかのゲン担ぎかと思ったけれども、特にそういうわけでもなく、淡々とその選択をしているのが印象的だった。
 おばあさんの丸まった背中を見ていると、なぜだろうか、モネのことを思い出した。もしも僕がモネの操作するゲームのキャラクターならどうしただろう。そんな考えが頭をよぎる。いや、僕はゲームのキャラクターではない。命は一つしかない。すぐに打消しの言葉が浮かぶ。
 それでも、隣の車両を振り返ろうとする体は強い抵抗で引き留められる。誰かの腕っぷしじゃない。自分自身の考えが足を釘付けにする。ここで立ち去ってしまえば、モネの考えは二度とわからない気がした。
「ああ、もう」
 もう一度、振り返る。おばあさんの方へ。一歩踏み込み、飛び越える。馬賊たちとあばあさんの間に立ちふさがる。
「なんだ? おまえはっけひゃあ? 邪魔すんなら、てめえからけひゃあしてやんぞ」
 先頭の馬賊は油断なく僕の面で立ち止まった。値踏みするような嘗め回すような視線を感じる。空の手が心もとなくて、握ったままにしていた筒、万華鏡を構える。せめてものはったりくらいにはなるだろうか。
 危険に対峙するのは久しぶりだ。何度体験しても慣れない。体が硬くなりかけているのを感じる。意識して呼吸をして緩める。居着いてしまえば対応できない。そうだ、それもモネの言葉。改造熊退治に出かけたときの言葉。モネの言葉が再生される。あの時、モネは続けてこう言った。
「大事なのは観察すること、生まれ、動きの起り、隙。姿は雄弁に語る。対応できるかは別として、見なければ始まらない」
 そうだ。僕も馬賊をじっと見つめ返す。全身を詳細に眺める。
 ふと、目が止まる。あれは?

◆◆◆

 その馬賊は若い男だった。肉と骨ばかりに痩せ細った体に襤褸切れのような布が纏わりついている。かつては浴衣だったような布とかつてはツナギだったような布。どちらも擦り切れて破れ、泥と煤に塗れている。目が止まったのはその右の手首だった。
 そこには赤い布が巻き付けられていた。それだけは形を保った布だった。色は燃えるような赤。カチューシャかリボンか判別のつかない布。見覚えがある。モネの頭の上。そこで揺れる布どきりと鼓動がなる。嫌な想像が頭をよぎる。例えば倒れ伏したモネから奪い取られる赤い布。
 けれども、と目を凝らす。
 その布はそのものではないのがはっきりと分かった。そっくりだけれども、本物ではない。本物の燃え出る明るさをもっていない。そしてそのくすんだ赤色にも見覚えがあった。
 
 その昔、モネが歌の発表会を開いたことがあった。モネが万人の頭の中に住み着いてはいなかった時代のことだ。当然、今ほど多くの聴衆がモネの歌を聞いたわけではない。ごく僅かな人数のファンだけがひっそりとモネの歌を受信し、密かに心震わせ涙を流したということだ。
 その数人は、人数にして十三人。今となっては生死すらもわからない無名の彼らは、後のモネのファンからこう呼ばれる。「最初の十三人?」 男は驚きに目を見開いた。ありえない名前で呼ばれたように。
 彼らはモネの髪飾りを模した赤い布を身につけているという。他のファンたちは彼らへの畏敬の念を示すために、赤い布を身につけるのを避ける。モネに因んだ物を身につけるにしても色か形のどちらかをずらす。形も色も似たものを身につけるのは限られている。そして、その意味を知る者も。
「こんもね」
 小さく呟く。毎日聞いている挨拶。
「こんもね」
 男も小さく呟く。男は素早く背後を見渡す。他の馬賊はまだ遠い。
「けっひゃあ!」
 男が奇声をあげた。仲間たちに知らせるように。
「こっちにゃあ、なんもねえな!」

◆◆◆

 男は仲間たちの視線を遮るように立つと、しっしと追い払うように手を振った。その背中はなにも言葉を発してはいないけれども、由緒あるモネのファンとしての誇り高い仲間意識が滲んでいる気がした。
 「ありがとう」
 小さく呟く。男がぐっと、手首の赤い布を後ろに突き出す。自分の有り様を示すように。
 僕は倒れているおばあさんを助け起こし、なかば引きずるように支えながら隣の車両へ転がり込んだ。
 音を立てないように扉を閉める。
 たちどころに切り離されたように馬賊たちの略奪の音が遠くなる。もうしばらくは大丈夫そうだ。
「助かったのかい?」
「ええ、ちょっとした知り合い……のような人でした」
 なんと言うべきか困って、濁した言い方をしてしまう。
「そうかい、そりゃあ、運が良かったね……うぅ……」
 少し不思議そうに答えてから、おばあさんはうめき声を上げた。倒れた時に足を捻ったのだろうか、痛みを堪えるように足を擦っている。
「あの……大丈夫ですか?」
 突然声をかけられた。驚いて振り返る。ボックス席の一つから、幼い男の子が恐る恐る様子を伺っていた。
「怪我をしているのですか? よろしければ、こちらにどうぞ」
 男の子の後ろから別の声がした。落ち着いた大人の男の声。男の子も頷いて、向かいの席を示してい
「それじゃあ、失礼します」
 おばあさんを男の子たちの向かいに座らせる。
「すまないねえ」
 おばあさんは申し訳無さそうに頭をさげた。男の子はその様子を見て、隣に座る背の高い男の人に声をかけた。
「先生、薬はありませんでしたか?」
「ええ、ちょっとまってくださいね」
 先生、と呼ばれた男の人は立ち上がり、網棚の上に手を伸ばした。
「たしかこの辺りに……」
 先生はごそごそと金網の上の鞄を探る。
 立ち上がった先生の影に、一人の女の子が座っているのに気がついた。男の子よりも少し小さいくらいの女の子。女の子は何も言わずに、僕たちを見つめていた。
「こんにちは」
 女の子はお行儀よく挨拶をした。
 そんなに丁寧に挨拶をされたのはずいぶんと久しぶりのことで、なんと返すのが良いのか間が空いてしまった。
「こんにちは」
 おばあさんが絞り出すような声で挨拶を返す。それを聞いて僕も「こんにちは」とあわてて真似をした。
「おばあちゃん、お足痛いの?」
「ああ、ちょっと転んじまってねぇ」
「少し見せてもらっても良いですか?」
 先生、と呼ばれていた男が席に腰を降ろし、網棚からおろしてきた小さな鞄を隣に座る男の子に渡しながら言った。おばあさんは顔をしかめながら、服の裾をめくった。
「うわぁ」
 男の子が覗き込んで声を上げた。すぐに「やめなさい」と先生にたしなめられる。おばあさんの足は足首のところで真っ赤に腫れていた。
「きっとひどく捻ってしまったのですね。湿布を貼っておきましょう」
「はい」
 男の子は鞄を開けると、さっと包帯と湿布を取り出し、先生に渡した。
「どうぞ」 
「ありがとう」
 先生は包帯と湿布を受け取ると、丁寧な手付きでおばあさんの足首に巻いていった。処置が進むにつれて、おばあさんの眉間の皺は薄れていった。
「どうですか?」
 包帯を結び終えて、先生はおばあさんに尋ねた。
「ああ、ありがとう。だいぶ楽になったよ」
 おばあさんは落ち着いた様子で息を吐いた。
「それは良かった」
 先生は道具を鞄にしまうと男の子から鞄を受け取って網棚の上に置き直した。
「あんたはお医者さんかい?」
 ひと心地ついておばあさんは先生に尋ねた。先生は首を振った。
「いいえ、私はこの子達の家庭教師なのです」
「へえ、そうなのかい。随分と手当てが上手いからてっきり」 
「ええ」
 先生ははにかんで男の子と女の子の頭を撫でて言葉を続けた。
「この子達がよくケガをするものですから、その度に手当てをしていて、それでいつの間にか上手になってしまったのです」
 男の子と女の子は顔を見合わせて照れくさそうに笑った。

◆◆◆

「ああ、そうだ」
 おばあさんはそう言って自分の鞄を開いた。中を探って、幾つかの万華鏡取り出した。一つずつ丁寧に窓の枠に並べていく。
 女の子と男の子は興味津々といった様子で眺めた。
「なあに?」
「好きなのを覗いてご覧」
 男の子が先に手を伸ばして、万華鏡の一つを手に取り目にあてがった。
「うわあ! なに、これ」
「なになに?」
 男の子が驚きの声を上げると女の子も急いで万華鏡を掴んで覗き込んだ。
「え」
 女の子はそう声を漏らすと、凍ったように固まってしまった。時々筒を回す以外はピクリともしない。
「万華鏡、ですか」
 二人の様子を見ながら先生が言った。
「ええ、よろしければ先生もどうぞ」
「それじゃあ」
 先生も万華鏡を一つ取って目に当てた。蛇の鱗のような模様の万華鏡だった。
「ほう」
 感嘆の声を上げる。
「きれいですね、これは」
「だろう。それは苺蛇の鱗が入っているやつだね」
「苺蛇?」
「知らないかい? 苺のような色をした蛇だよ。鱗がきれいでね。光の具合で赤く見えたり、青く見えたりするんだよ」
「ねえ、これは? 何が入っているの?」
 男の子が万華鏡の一つを示して言った。羽根の模様が刻まれた筒だった。
「それはオオトリバチの羽が入ってるよ。ほら緑にキラキラしてるのがあるだろう」
 男の子は筒を覗き込んだまま動かない女の子を見て、不思議そうに尋ねた。
「ねえ、そんなにきれいなの?」
「うん」
 女の子はぼんやりと生返事を返す。その筒は甲羅のような六角形の模様の刻まれた青白い。女の子は何かを探すようにじっと筒を覗き込んでいる。
「ねえ、おばあさん。あれには何が入っているの?」
「あれは、溶けない氷が入ったやつだね」
「ああ」
 男の子はおばあさんの答えを聞いて納得したように頷いた。女の子に優しく言う。
「ねえ、僕にも見せてよ」
 女の子はようやく筒から目を離し、男の子に渡しながら言った。
「うん、でもお母様たちが見つからないの」

◆◆◆

「お別れしたのは、ちょうどこんなところだったもの」
 女の子はもう一度万華鏡を覗いて言った。
「お母様はそんなところにはいませんよ」
「いるの。きっといるもの」
 先生は優しい声でなだめるけれども、女の子は強い口調で言い返した。女の子は意固地になったようにぎゅっと筒を握る。その様子を見て先生は困ったように眉を寄せた。じっと二人の話を聞いていた男の子は「ねえ」と女の子の肩にそっと手で触れました。
「ちょっと貸してよ。僕にも探させて?」
「……うん、わかった」
 男の子の申し出に女の子は渋々といった様子で頷いて、万華鏡を渡した。
「ちょっと、お花を摘みに行ってきます」
 女の子はそう言って、席を立った。
「場所わかりますか」
「うん。一人で大丈夫」
 先生の問いに女の子はぶっきらぼうに頷いて隣の車両に向かった。
「あんたは、賢い子だね」
 女の子の背中を見送ってからおばあさんは万華鏡を覗く男の子を見て言った。
「……僕はこの万華鏡を見たかっただけだよ」
 男の子は万華鏡を覗いたまま言った。
「そうだろうともさ」
 おばあさんは足を擦りながら窓の外を眺めた。灯りのない平野がどこまでも広がっている。
「お母さん、を探しているのかい」
「ええ」
 先生は曖昧に相槌を打ち、ちらりと男の子を見た。男の子は万華鏡を窓の外に向けた。
「難しい話かい?」
「いえ、そういうわけでもないのですが」
「そうだよ。僕たちはお母様を探しているんだ」
 男の子が万華鏡を目から外して口を挟んだ。
「ほら、先生もこれを覗いてみて」
「ええ、はい」
 先生は万華鏡を受け取り、所在なさげに手の中でくるくると回した。
「本当に、こんなところだったんだ。お母様とお父様と別れたのは」
「寒いところだったのかい?」
「ええ、僕たちはお父様とお母様と先生と一緒に船に乗っていたんです」
 男の子は窓枠をかりかりと引っ掻きながら語り始めた。
「あの旅は楽しい旅でした。色々なものをみました」
「一番よく覚えているのは寒い海で見た、オーロラでした。なんとも言い表せないような色の大きな光の帯が、空一面にたなびいているのです。僕たちは甲板に立って、オーロラを眺めました」
 そこまで言って、男の子は先生をみて懐かしそうな目をした。
「ね、あの時先生が教えてくれたことは全部覚えていますよ」
「それは、嬉しいですね」
「ええ、あの光は太陽の光が地球の空気と触れ合ってあのように輝いているのだって」
「よく覚えていましたね」
「それから、あの光は見る人によって異なった色に見えるのだ、と仰っていたのも覚えています」
「ええ、そうでしたね」
 先生は窓の外を眺めながら答えた。それを聞いてから男の子はふと思いついたように尋ねた。
「ね、先生。先生はあのオーロラは何色に見えていましたか?」
「私には紫色に見えましたよ」
 へえ、と男の子は驚きの声を漏らした。
「本当に違って見えるのですね」
「何色に見えたのですか?」
「僕には、黄色に見えました。目を焦がすような鮮やかな黄色でした。あの色はまだ目に焼き付いています」
 男の子も窓の外に目をやり、「そうだ」と呟いた。
「あの光を見たあとでした」
 何気なく続けられた言葉を言ったきり、男の子は固まったように黙り込んだ。男の子の方に目をやる。窓ガラスに写った男の子の口は何かを言おうと開かれたままで止まっていた。
 「どうしたね?」
 おばあさんが不思議そうに尋ねた。
「いいえ」
「そうだ、その後だった」
 先生の言葉を遮って男の子が急に話し始める。
「光の中で、突然船が猛スピードで動き始めたのです。あの辺りはたくさんの氷山が浮かんでいて危ないからと、ひどくゆっくり進んでいたのに」
 あれはまるで、と男の子は言葉を続ける。
「まるで、船自体の気が狂ったような速度でした。何人かのお客さんがが振り落とされました。僕たちもお父様たちがしっかりと掴んでくれていなければ海に落ちていたかもしれません」

◆◆◆

 男の子は淡々と話を続けた。
「船は変わらずすごい速さで動き続けました。右に左に向きを変え、速度を上げ。僕たちは必死に抱き合っていました。そして……」
 男の子は虚空を見つめながらぶるりと体だけを震わせた。
「そして、あの衝撃がやってきたのです。世界の割れたような音が響きました。大きな揺れがあって、その揺れが収まったときにはあれほど暴れ回っていた船が動きを止めていました。
 恐ろしいほどの沈黙。それからぐらりと船が傾きました。どこかで誰かが叫びました。『氷山だ! 船が沈むぞ!』その声は船中に響いて……」
 短い沈黙。がたんごとんと電車の揺れる音がやけに大きく聞こえる。
「またたくまに恐怖と恐慌が船を覆い尽くしました。お客さんたちは少しでも高い方へ上がろうと駆け出しました。人の流れの中で僕はお母様と手を繋ぎ、もう片方の手で妹の手を握っていました」
 男の子は左手を見つめた。
「船の甲板の救命ボートには人々が詰めかけていました。お父様とお母様は叫びました。『子どもたちがいるのです。この子達だけでも乗せてください』と。その時、また船が大きく揺れました。人の流れに押され、気がつくと僕たちはボートの前にいました。でも」
 男の子は手をぎゅっと握った。
「確かにこの手に握っていた妹の手がいつの間にかなくなっていたのです。『妹が!』僕はそう叫びました。お父様は僕の肩に手をおいて言いました。『お父さんたちが探すから、お前はボートに乗りなさい』。『でも』と言いかけた僕の背を押し、先生に向かって言ったのです。『先生、この子をよろしくお願いします』と」
 言葉を繋げたのは先生だった。
「そうです。それで暴れるこの子とボートに乗ったのです。それは正しかったのでしょうか。けれども」
 先生は言葉を切り、絞り出すように言った。
「私はご両親の言葉に逆らうことはできませんでした。どうしてできたでしょう。あの覚悟の決まった目を見て」

◆◆◆

「お二人の目はもう決意を固めた目でした。私を信頼してくださっている目。私はこの身に換えてもを生き延びさせなければ、と思いました」
「ええ、わかっています」
 男の子はじっと黙ってから「今では」と付け加えた。
「あの時はわかりませんでした。先生の考えも、お父様たちの考えも。どうして別れなければならないのか。本当に、危ないのはわかっているのに。別れたらもう二度と会えないかもしれないのに!」
「あの時はそうするしかなかったのです。そうするのが一番良かったのです」
「わかっています。今ではちゃんとわかっているのです。だから……」
 男の子はじっと先生を見つめた。
「ありがとうございました」
 先生は目をそっと伏せて答えた。
「やるべきことをやっただけです」
 先生はそれだけ言って黙り込んだ。男の子も何も言わない。
「それで、とりあえず3人は生き延びたってわけだ」
 沈黙を破ったのはおばあさんだった。
 二人の黙り込んだ顔を交互に眺めながら、場を取り繕うように喋り続ける。
「そのボートに乗って、どうにかこうにか妹さんとも巡り会えて、この電車に乗れて。良かったじゃないか。そうだろう。きっと、お父様とお母様もどこかにいる」
「ええ、きっとそうですね」
 男の子は短くそう言った。そして窓の外を見た。
「なにか、気になるのかい?」
「覚えていないのです」
 いささか唐突に男の子は言った。
「なにをだい?」
「妹とどこで出会ったのか」
「それだけ夢中だったのだろう? よくあることさ」
 男の子は窓の外をじっと見つめている。
「どうしたね?」
「なにも、覚えていないのです。ボートに乗って、人混みの中、空が黄色くて、黄色い光が降り注いでいて、光は目を焼くほどに輝いていて、目にいや、脳みそに焼き付いていて、焼き尽くして、洗っても洗ってもまだとれない。ほら、あの光だ、 あの黄色い光が」
 そう言って、男の子は指さした。何もない暗い空を、目を見開いて。

◆◆◆

 おずおずと、口を挟む。
「黄色い光?」
「ええ、見えるでしょう? あの輝く光が。見えないわけがないでしょう。こんなに明るく輝いているのに」
 僕とおばあさんは困惑して顔を見合わせた。男の子の指差す先、窓の外にはなにもない。ただ、暗い夜空が広がっているばかりだ。男の子は語り続ける。その口調は次第に速く、強くなっていく。
「あの光、あの光はもう消えない。まぶたの裏に焼き付いて、目を瞑っても差し込んでくる。世界を染め尽くし、視界を燃やし尽くしている。燃える、染まる、世界が黄色く」
「大丈夫ですよ」
 先生が言った。興奮した男の子を抱きとめて、その目を塞ぐ。
「大丈夫。光はただの光です。目を瞑って、大きく息を吸ってください。次第に光は薄くなっていきますよ」
 先生の腕の中で、男の子は先生の言葉に耳を傾けている。肩が大きく上がって、下りる。
 しばらくそうしていると、男の子は途端に大人しくなった。先生が腕を解いて座席にもたれかけさせた。男の子は目を瞑って動かない。
「大丈夫なのですか?」
 男の子を起こさないように声を潜めて先生に尋ねる。
「ええ、時々あるのです」
「それで……」
 僕の言葉に、先生は首を振った。男の子は力なく座席に座っている。
「本当、なのだと思います。ボートに乗ってから……」
 先生は一瞬虚空を見つめてから、頭を振った。
「気がつくとこの電車に乗っていて、妹さんがいた。その間はちっとも覚えていないのです」
「黄色い光、というのは?」
 おばあさんが尋ねる
「私には見えません……少なくとも目を開けている間は……けれども」
 先生は黙り込んだ。目をつむり、体を震わせ、目を開く。
「目をつむると確かに、感じるのです。目の奥に、暖かな輝きを」
 もう一度目を閉じる。手探りに男の子に触れる。
「これがこの子が見ているものと同じ光なのかわかりませんが」
 おばあさんも僕も何も言えずに黙り込む。
 その時、ガラリと扉が開いた。

◆◆◆

 開いた扉は後ろの車両の扉だった。
 カポンと音が鳴った。
 
 そこに立っていたのは緑の細長い馬だった。丸く細い体に棒きれのような足が突き刺さっている。その馬の手綱を握り、隣に立っているのは二人の馬賊だった。大柄な馬賊と、少し小さい馬賊。どちらも白い布をかぶっていて顔は見えない。
 身構える。
 けれども、馬賊たちはなにかを探るように境目に立って動かない。
 布越しに、目が黄色く光った。「え」
 突然、男の子が立ち上がった。
「お母様、お父様」
 ふらふらと歩き出そうとする。
「待ちなさい」
 おばあさんが男の子の手をとって止めた。男の子は気にせず、そのまま進もうとする。
「あんたは生き延びたんだ。行かなくていいんだよ……行っちゃいけない」
 男の子が振り返る。ぼんやりと見開かれた目。その瞳は黄色く輝いている。
「行きますよ。何を言っているのですか。あれはお父様とお母様です。僕にはわかります。わかるのです。だから行かないと」
「お父さんとお母さんは馬賊なのかい?」
「僕たちがいつの間にか電車に乗っているんです。お母様たちが馬に乗っていたって不思議ではないでしょう」
 男の子はおばあさんの問いに煩わしそうに答えると、乱暴に手を振り払った。
「本当に、そう思うのかい?」
 背中におばあさんが問いかけた。その声は堅く、重い声だった。
「商売をしてるとわかるんだよ。欲しいという思いは目を霞ませるんだ。あんたはお父さんとお母さんに会いたくて、本当かどうかわからないのに行こうとして……いないかい?」
「……そんなことは、ありません」
 返答には少し間があった。確信の揺らいだような間。
「本当だと思っているならいいさ、本当に行くべきなら行けばいい。でも、少しでも違うと思うなら、それをちゃんと見つめるんだよ」
「それは」
 男の子は口ごもる。いつの間にか足は止まっていた。男の子が振り返るすがるように先生を見る。
 その時、歌が聞こえた。

◆◆◆

 その歌は聞いたことのない外国の言葉の歌で、そのくせなぜだか懐かしい歌だった。歌声が耳を通って思考に染み込んでくる。
 歌っているのは小柄な方の馬賊だった。ゆっくりと、体を揺らしながら歌っている。
「いきましょうか」
 立ち上がり、声を発したのは先生だった。いつの間にか、網棚から鞄を下ろし左手に持っている。
「とめなさいよ。あんたも、先生なら」
「先生だから、行くのです」
 そう言って先生は空いている右手で男の子の手を取った。
「あなたが行くというのなら、どこへだって」
「僕は一人でも大丈夫ですよ」
「先生ですから」
 それに、と先生は微笑んでから続けた。
「お父様に頼まれましたから」
 男の子は頷いて、歩き始めた。先生の手を引きながら。歌声はまだ続いている。おばあさんも僕も、もう何も言わないで、二人の背中を見つめている。 
「お兄ちゃん!」
 声が響いた。振り返る。前の車両の扉が開いていた。そこに立っているのは女の子。男の子と一緒にいた小さい女の子。走ってきたのか、息を切らしている。
「どこいくの?」
 男の子に呼びかける。男の子と先生はもう後ろの車両の近く、馬賊たちの近くまで行っている。
「置いてかないでよ!」
 女の子が叫ぶ。男の子が振り返る。その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。首をゆっくりと横に振る。
「お前は残るんだよ」
 男の子が言う。
「やだよ。もう一人にしないで」
 女の子が駆け出す。全速力で。目には涙が浮かんでいる。
「あ」
 車両の半ばで、女の子が躓いた。どんと鈍い音がする。
 再び歩き始めていた男の子が一瞬だけ振り返る。
「待って」
 女の子が叫ぶ。男の子の口が動く。
「さようなら」
 男の子は向き直り、馬賊たちの手を取った。がらり、と音を立てて扉が閉まる。世界を切り離す断絶。
「お兄ちゃん」
 男の子と先生はもう去ってしまった。歌はもう聞こえない。
 扉の前にはいつの間に置いたのか救急箱が一つ残されていた。
 
◆◆◆

「お兄ちゃん……」
 女の子は床に倒れたまま呟いた。
「その……大丈夫かい?」
 おばあさんが足を引きずりながら、女の子のを助け起こした。救急箱を拾って席に戻る。
「怪我は?」
 優しい声で尋ねる。
「大丈夫です」
 女の子は小さく首を振った。
「でも、それ……いいですか?」
 そう言っておばあさんの膝の上の救急箱を指さす。
「もちろんだよ。どうぞ」
 おばあさんは目を細めて、箱を差し出した。女の子は箱を受け取り、しばらく見つめた後に、ぎゅっとお腹の前で抱えこんだ。
「なんで」
 ぽつりと救急箱の上に雫が落ちた。うつむいた顔から、うぐ、うぐと嗚咽が漏れる。
「大丈夫……大丈夫だよ」
 おばあさんが女の子を抱きしめると、頭を撫でながら宥めた。おばあさんの腕の中ですすり泣きは次第に大きくなり、やがてあたりへのはばかりも忘れ泣き声を上げ始めた。
 僕はなにかをすることもできないで、窓の外に目をやった。黄色い光はいまだに見えない。ただ黒い闇が広がっている。闇の中、白い煙がかすかにたなびいているのが見えた。街からはもうずいぶん離れている。どこから来た煙だろう。不思議に思う。
 少し窓を開けて外を見てみる。煙は後ろの車両から出ているようだった。壁に開いた穴から小さな火が見える。馬賊だろうか。街から遠く離れても略奪の火はどこにでもある。けれども、それにしてはやけに静かなように思えた。
 火を見ているうちに、馬賊たちが穴から顔を出した。彼らがまたがっているのは馬ではなかった。それは牛だった。闇に溶け込む紫色をした丸々とした牛たち。牛の背にたくさんの戦利品を乗せている。
「はいよ!」
 頭目が黒と黄色の棒をかざした。けひゃあ、と声が上がり、牛たちはいっせいに夜の闇に駆けだして行った。あのどこかに先生と男の子がいるのだろうか。
「お兄ちゃんと先生は、行かなくてもよかったのに」
 涙に赤く腫れた目で、牛たちを見送り、女の子は口を開いた。

◆◆◆

「本当はお父様たちと行かないといけないのは私だったのです」
 女の子は鼻を啜った。
「どういうことだい」
 女の子を抱きしめたままおばあさんが尋ねる。話が気になるというよりも、話させて落ち着かせよう、という聞き方。
 泣きじゃくりながら、女の子は話し始めた。
「船に乗っていると、突然黄色い光が降ってきたのです」
「そうかい」
「あの光が降って、船が大混乱になり、お父様やお母様、お兄様たちとはぐれて、もみくちゃの中で私は、ただ潰されないようにするのに必死でした」
 そう言いながら、女の子はいとおしそうに救急箱を撫でた。
「突き飛ばされ、押しのけられ、いよいよ潰されそうになった時に誰かが手を引いて助け起こしてくれたのです」
「誰だったんだい?」
「わかりません。見知らぬお姉さんでした。赤い髪飾りをつけたお姉さん。きれいな声の素敵なお姉さん。」
「え」
 思わず声が漏れる。女の子の語るお姉さんから、一人の少女のことを思い出した。
 何か言おうとして、やめた。おばあさんが僕の肩に手を置いて首を振っているのが見えたから。
「それで?」
 おばあさんが女の子に話の続きを促す。女の子は少し不思議そうに首を傾げてから、それでも話を続けた。
「私を抱きかかえて守るようにしながら、お姉さんは一緒に歩いてくれました。やがて、ボートに辿り着いて、なんとか二人で乗りこめました。『生き延びさえすれば、お母さんたちにも会えるよ』、お姉さんはそう言って私を励ましてくれました」
「それでボートに乗って、どこかに行って、それでここにいるんだろう? よかったじゃないか」
 おばあさんの言葉に、女の子は俯いたまま首を振りました。
「そんなはずはないのです」
 吐き出されたのは強い言葉だった。
「私は覚えているのです。私たちが乗ったボートは大きな波にさらわれて、ひっくり返ってしまったのです。冷たい海に投げ出されました。すぐに上か下かもわからなくなりました」

◆◆◆

「身の凍るような冷たい水に包まれて、私にできるのはバタバタともがくことだけでした。上も下も、右も左もわからない。それでも、動かないといけないという恐怖。ただただ夢中で手足を動かした」
 女の子はぎゅっと自分の体を抱きしめる。その肩は少し震えているように見えた。
「そのとき、視界の端に赤いものが移りました。その赤はゆらゆらと揺れながらこちらに近づいて来ました。そして、なにかがこの手を掴んだのです」
 女の子は凍える手を温めるように手を擦り合わせた。
「先生にご本で読んでもらったおとぎ話に出てくる人魚かと思いました。そのまま海の底へ、人魚の国へ連れて行かれるのかと。けれども、その人魚に手を引かれてたどり着いたのは海の中と同じくらい寒い、海の上でした」
「それで?」
 おばあさんの相槌に頷いて女の子は続けた。
「人魚だと思っていたのはさっきのお姉さんでした。お姉さんとわたしは流れてきた木切れに捕まりました。ああ、あの冷たい空気の肺に突き刺さるような冷たさと、けれども生き返るような美味しさははっきりと覚えています。お姉さんはわたしにしっかりと木切れを掴ませました。『もう少しだけ、もう少しだけ、寝ないで起きていれば、きっと助けが来るから、それまで頑張って起きておこう』、ずっとそう言って励ましながら、背中を擦ってくれました。自分も寒くて疲れていたはずなのに」
 そうだ、と赤くなった目をこすりながら女の子は少し笑った。
「どれだけそうしていたのかわからないけれども、いつの間にかお姉さんは歌を歌いはじめていました。やっぱりお姉さんは人魚だったのかもしれない。そんな風に思ったのを覚えています。心の惹かれる、たいへん安心のする歌でした」
 そう言って、女の子はそっと目を閉じた。
「そんな風にお姉さんの歌を聴いていると、あれほど必死に起きていようとしていたのに、意識が薄れていき、眠たさに抗えなくなってしまったのです」

◆◆◆

「うとうとと夢見心地のまま、わたしは空に登っていくような感じがしました。なにか温かいものに抱えられて、ゆっくりと」
 女の子が窓の外に目を向けた。馬賊たちの火の煙はだいぶ薄くなって、それでも細く空に登っている。
「夢の中で声を聞きました。二つの声。その声は言い争っていました。一つの声はわたしをそこに温かで心地よいところに置いておこうとする声でした。もう一つの声は少し厳しい声で、わたしにはまだやることがあるのだから、ここから追い出さなければならない、と言っていました。二人の議論は長々と続きました。わたしの意識はまぶたの中でさらに深いところへ落ちていこうとしていました。その時、どちらの声だったのでしょう、どちらかの声がわたしに尋ねてきたのです。『君はどちらが良いのだい?』と。どちら、というのはつまり『ここに残る』のか、それとも『立ち去るの』のかということでした」
「それで、どちらを選んだんだい?」
 おばあさんが尋ねると、女の子は顔を曇らせた。
「それは……あんまりに眠たかったので『ここにいたい』と」
「その『ここ』ってのが、ここだっってことかい」
 おばあさんは座席を撫でた。女の子は首を振った。
「そう答えたあとに、厳しい声が尋ねてきたのです。『でも、お父様やお母様には会いたいのだろう?』と。それにも頷きました」
 少し待って、お女の子は言い直した。
「違いました。頷いたんじゃない。こう答えたんだ。『会いたいです』。声が問いかけます。『でも、そのせいで君はしなくてもいい苦労をして、味あわなくても良い苦しみを味わわないといけないかもしれないよ。それでもいいのかい?』と。わたしは今度はしっかりと意識を持って答えたのです。『それでも、会いたいです』と」
 窓の外を睨んで女の子は続けました。
「気がつくとわたしはまた冷たい海の上で、木切れに捕まっていたのです。隣りにいたはずのお姉さんはそこにいませんでした」

◆◆◆

「その時にはあまりにも眠たくて疲れていて、自分が一人だということにも気がつきませんでした。たださっきまではあった温かさが喪われた、という気持ちだけがお腹の中で暴れまわっていました。それは冷たくて悲しい気持ちだったのですけれども、そのお陰で少しだけ眠たさに抗うことができました」
 女の子は語り続けた。ときおり、その時の寒さを思い出したかのようにぶるぶると体を震わせる。
「そうして木切れにしがみついて流されるままになっていると、こつんと背中になにかがぶつかりました。暗闇の中、手探りで探るとそれは太い木材でした。最初は船の破片かと思いましたが、探っているうちに幾つかの同じような木が並んでいるのがわかりました。その木材たちは長い二本の金属で繋がれていました。そこでようやく気がつきました。それは海の上に伸びる線路だったのです」
 女の子はそこまで言ってしばらく黙り込んだ。擦り切れて柔らかく輝く座席の手すりにそっと手を当てる。
「そう、この音でした」
 手すりを撫でながら女の子は話を続ける。
「線路に上がり、枕木を歩いていると、この音が聞こえてきたのです。がたん、ごとんと、規則正しい音が、遠くから。わたしはそれでも歩き続けました。歩くのを止めたらもう進めなくなるような気がして」
 電車の揺れる音はがたんごとんと変わらず流れ続けている。
「後ろから、きぃーっと大きな音がしました。振り返ると眩しい光が目を刺しました。そう、この電車が止まっていたのです」
「それで?」
 おばあさんが尋ねる。
「眩い光の中に人影が現れました。人影から声が聞こえました。『乗りますか?』と言っていました。『お代はもう頂いていますから』と。わたしは、ああ、もう歩かなくて良いのだと思って頷いたのでした」
「人影?」
 おばあさんの疑問に女の子は目を細めて答えた。
「ええ、小柄な制服を着た影でした」
「だぁしゃぁらす」
 扉が開き、祝詞が聞こえた。

◆◆◆

 その祝詞はいつか聞いた時よりもいくらか優しい声に聞こえた。
 足音が近づく。ずりずりと何かを引き摺る音も聞こえる。車掌さんだ。
「あ」
 女の子が飛び上がるように立ち上がった。
「こぬさきうれぁすんで」
「車掌さん」
 祝詞を遮って、女の子が叫ぶ。車掌さんの暗い目が、じっと女の子を見つめる。女の子は揺れる床を踏みしめ、目を逸らさず口を開く。
「わたし、ここでおります」
 きっぱりと、決意のこもった声だった。二人の視線がぶつかり合う。車掌さんは答えない。女の子もそれきりなにも言わない。
 沈黙が車内に満ちる。
 視線を逸らしたのは車掌さんの方だった。床に視線を落とし、首を振る。
「そういうわけにはいきません」
「でも」
「走り出した電車は、次の駅に着くまで止まらないのです」
 車掌さんはゆっくりと言う。
「では、次の駅で降ります。どのくらいですか?」
「まだ、随分と先ですよ」
「そうですか」
 短い沈黙。車掌さんが口を開く。
「運賃はもう頂いています。もっとずっと先までの分を」
「いいのです。この先にはきっとわたしの探すものはないのです」
 女の子はそう言い切る。また沈黙が流れた。
「本当に、良いのですか?」
 少しのためらいを見せてから、車掌さんが改めて尋ねる。
「はい。良いのです」
 女の子は頷く。
 車掌さんは目をつむり、黙り込む。しばらくそうしてから目を開く。顔を上げ、じっと女の子の目を見る。
「わかりました。では、次の駅で」
 そう言って、振り返ろうとして、ためらい、向き直る。そして「けれども」と付け加える。
「まだ、時間はあります。よく考えてください。電車が止まるまでは降りることはできないのですから」
「はい」
 女の子が頷くのを見て、車掌さんはずりずりと歩いて去っていった。
「ふう」
 ため息をついて女の子が座席に腰を下ろす。ぎしりと草臥れた座席が音を立てる。
「本当に行くんだね」
「ええ」
 おばあさんの問いに女の子は頷いた。
 
◆◆◆

 おばあさんは対面に座る女の子の顔をじっと見つめた。女の子はそっぽを向いて睨むように窓の外を見ている。暗い外には煙の残滓が流れていく。煙は空に登ることなく薄れて消えていく。
「お父さんたちを探すのかい?」
 窓の外に目をやりながらおばあさんが沈黙を破った。女の子は視線を動かさずに答える。
「ええ」
 答えはそれだけ。おばあさんはちらりと女の子の横顔を見てため息をついた。
「あんたはお兄さんの妹だね」
「そりゃあそうですよ。わたしは弟じゃないし、お兄さんはお姉さんじゃない」
「そうじゃなくてね……」
 あー、とおばあさんは曖昧な唸り声を漏らす。
「あの子も止めても行く、と言って聞かなかった」
「そうですか」
 女の子の視線が少しだけ動き、おばあさんの顔をかすめた。おばあさんはかすかに眉を上げた。
「これはあの子にも言ったのだけれども」
 おばあさんはそう前置きをして、女の子の様子を伺った。女の子は動かない。耳だけがおばあさんの方に向いている。
「あんたにも言っておく。なにかが欲しいって気持ちは目を曇らせるよ」
「……そうですか」
「欲しいって気持ちは悪いもんじゃあない。それでできることもあるし、それがないとできないこともある。でも、それに支配されてしまったら、見たいものしかみえなくなる。そして、見るべきものは見えなくなる」
 だから、とおばあさんは締めくくった。
「気をつけな、あんたの欲しいにあんたの進む道を捻じ曲げさせないように」
 少し間をおいて、女の子が頷く。
「はい」
 また少し間。
「気をつける」
 女の子はつけ加えた。おばあさんは満足そうに頷いた。
 窓の外の暗闇がだんだんと減速していく。
「もうすぐ着きそうですね」
 黙り込む二人に話しかける。
「そうだね」
 おばあさんは頷いて立ち上がる。腰を伸ばし、脚をかばいながらカバンを持った。
「手当て、ありがとうね」
「いえ」
 おばあさんはゆっくりと出口へ向かっていった。
 
◆◆◆

 窓の外に光が見える。駅の光だ。蛍光灯の青白い光が並んで電車を出迎える。ゆっくりと電車が減速していき、やがて停車した。
「さろうきりかうぇのためしばぁくていしゃしゃす」
 車内アナウンスが聞こえる。
 女の子は対面に座ったまま立ち上がらない。
「行かないの?」
「もう少しいます」
「そう」
「しばらく発車しないみたいですから」
 女の子は窓の外を眺めながら答える。
 駅は橋の上にあるのか、下の方に川が流れている。その川の中にいくつか黒い影が見えた。
「あれはなんだろう」
 目を凝らす。影は少しずつ動いているのがわかる。
「人?」
「星浚いではないですか?」
 思わず漏れた声に女の子が答えた。
「なに? それは?」
「さっき先生が言っていたのです。この駅の近くには昔からよく星が降るのです」
 女の子も目を細め、水面を見つめた。よく見ると川の中にきらきらと輝くものがあった。それは駅の灯りとは違う、色とりどりのきらめきだった。
「それで、ああやって川を攫って星の欠片を探すのです」
「なるほど。そういえば僕のいた町でもドブ浚いをしている人がいたなあ」
「あなたの町でも星が降るのですか?」
「星は降りませんが、稀になにか価値が落ちていることがあってね」
「価値?」
「捨てられた金属だとか、人間だとか」
「ああ、そうなんですね」
 女の子が曖昧に頷く。
 ここはあの町からどのくらい離れているのだろう。淀み、濁った空気。どこにいっても付き纏う悪臭。少しも懐かしくはない。もう息を詰めずに呼吸するのにも慣れてきた。
「あ、あれ」
 女の子が水面を指さして言った。
 その指の先に目をやる。
 背中の曲がった影が、川の中で蠢いていた。その背の曲がり方には見覚えがあった。
「おばあさんだ」
「きっと星を探して、マンゲキョウに入れるんでしょう」
 いっそここで降りて星の欠片を浚って暮らすのも悪くないかもしれない。そんなことを考える。少なくともドブ浚いよりは安全だ。

◆◆◆

 窓を開けて覗き込む。星の欠片は見えるだろうか? 黒い川面の上、白い泡がキラキラと駅の灯りを受けきらめいている。
 川の音を聞いていると吸い込まれそうな気持ちになる。身震いをして顔を引っ込める。まだ、もう少し電車に座っていたいと思う。
 顔を戻す視界の端、川の中に赤いものが流れていくのが見えた。燃える赤。
「え」
 窓から体を乗り出し川を覗き込む。気のせいだったのだろうか? 目を凝らしても何も見えない。
「モネ?」
「どうしました?」
 女の子が怪訝な顔をして尋ねてくる。
「今の見た?」
「何をですか?」
 女の子は首を傾げる。僕は椅子に座り直して首をふる。
「ううん、なんでもない。多分ただの気のせいだ」
「そうですか」
 女の子は不思議そうな顔で僕の顔を見ている。目を逸らす。頭を振って、目に焼き付いた赤を追い払おうとする。
「そうだ、そのお姉さんは」
 なにかしゃべろうと頭をひねり、出てきた言葉がそれだった。なんとか、言葉を続ける。
「どんな人だったの? その、助けてくれたっていうのは」
「どんなって」
「もしかしたら、そのお姉さん、知っている女の子かもしれなくて」
「本当ですか?」
 飛びつくように、女の子が顔を上げる。ぎっと僕の顔を目でつかむ。
「赤い髪飾りをしていたのでしょう? それは燃えるような赤色のリボンではなかったかい?」
 女の子は眉を寄せて考え込む。
「それで、歌。歌も素敵な歌だったんでしょう。それが、どんな歌を歌っていたとか、覚えていたら歌ってくれないかい?」
「ごめんなさい。生き延びるのに必死であんまりよく覚えていないのです」
 申し訳なさそうに女の子が首を振った。しまった、と思う。委縮させてしまっただろうか。
「ああ、こちらこそ、ごめん」
「いいえ」
 沈黙。
「それじゃあ、お兄さんの知ってる女の人は、どんな人だったの?」
 女の子が気まずさを打ち破るように尋ねた。
「ええっと、そうだね」
 少し考えて口を開く。

◆◆◆

「どんな?」
「そう、そのお姉さん、どんな人なの?」
 問われて、言葉に詰まる。モネをなんと言い表せば良いのだろう。モネはいつの間にか僕の頭の中にいた。そこにいて、微笑んでいるのが当たり前でいつもの状態。それは僕だけではなくて、あの街に住んでいる人はみんなそう。頭の中の受信機は誰にでも平等にモネを届けていた。モネについて話したいなら
「モネがさ」
 と言いさえすればよかった。それだけで相手の頭に相手の頭の中にいるモネが想起される。それで十分だった。
 だから、女の子に問われて、初めて自分の中にモネを言い表す言葉がないことに気がついた。
「モネは……」
 開いた口から言葉が続かない。
「そのお姉さんはモネ、って言うんですか?」
「そう、女の子で、君よりは少し年上、なのだと思う」
 途切れ途切れに、なんとか言葉を繋いでいく。
「重さのないみたいな軽い身振りをしていて、だから踊るのと、そう、歌うのが上手くて、見た目ももちろん可愛くて」
 一つずつ言葉で言い表すたびに、表現したいと思っている頭の中のモネが言葉で分解されてばらばらになっていくような気がした。
 つたない僕の言葉を女の子は目を見開いて聞いている。ちゃんと伝えられているんだろうか。
「それで?」
「それで……それで…」
 目を閉じて思い出す。まぶたの裏のアーカイブをじっと見る。けれども、ばらばらになってしまったモネはもう言葉で表現できるところがないように思えた。
「それで、赤い、大きなリボンをつけているんだ」
「赤い、リボン?」
「そう、君の見たお姉さんも赤い髪飾りをしていたのでしょう?」
「ええ」
 女の子が口ごもって答える。不思議に思って女の子を見る。その視線が、僕の方を向いているけれども、僕を見ていないのに気がついた。僕の頭の上を見ている。
「どうしたの?」
「赤い、髪飾り」
「え、」
 言葉に導かれて、振り返る。
 隣の座席の背もたれの上で赤いリボンが揺れていた。

◆◆◆

「お姉さん?」
「モネ?」
 ボクと女の子の呼びかけが重なる。赤いリボンからの返事はない。
 立ち上がり、おそるおそる座席に回り込む。後ろからひっそりと女の子がついてくるのがわかる。
 背もたれの影からそっと覗き込む。
 そこには赤いリボンをつけたお姉さんが目を閉じて眠っていた。
 振り向いて、女の子に問いかける。
「お姉さん?」
「モネさん?」
 同時に女の子が尋ねてくる。僕も首を傾げる。あらためて眠るお姉さんを見る。どきどきとするほど整った顔。赤いリボン。
 寝顔はモネに似ている気はする。けれども、確信は持てない。モネの寝顔は見たことがない。
 足下で女の子も首を傾げている。
 元の席に戻ろうと足を引く。
「ううん」
 ちょうどその時、お姉さんが唸って目を開けた。あわてて隠れようとする。知らない人に寝顔を覗き込まれていては、目覚めたときの気も悪いだろう。けれどもまぶたの開く速さは、体が動く速さよりもずっと速い。僕たちが座席に隠れようとしている間に、お姉さんは目をぱっちりと開け、大きな欠伸を一つした。
「えーと、その」
 慌てる僕たちをぼんやりとした目で眺めて、お姉さんは口を開いた。
「やあ」
 とても気さくな呼びかけで、少なくとも怒っているようには見えなかった。ほっと胸をなで下ろして、返事をする。
「あの、おはようございます」
「ああ、うん、おはよう」
 窓の外を見て、電車が止まっているのに気がついたのか、続けて尋ねる。
「止まってるんだね。ここはどこだい?」
「駅の名前はわかりませんけれども、星のかけらの取れる川の上です」
「ああ、それじゃあ天の川橋のあたりかな。ありがとう、お嬢ちゃん」
 にっこりと笑って女の子にお礼を言う。女の子は赤くなってもごもごと口の中で何かを言う。お姉さんはお腹を撫でて外を見た。
「もう少し止まっているのかな、それなら食べ物を買いに行くんだけど。たしか、この辺りはクラブサンドが美味しいんだ」

◆◆◆

「来なよ」
 お姉さんは伸びをしながら立ち上がり、通路を歩き出す。あまりにも堂々とした無頓着な背中に、僕と女の子は顔を見合わせる。
「ホームにね」
 出し抜けに、振り向きもせずお姉さんが言う。
「あるんだよ、美味しいクラブサンド出すお店が」 夜の川の空気はじっとりと湿っていて、けれどもあの町のような嫌な臭いはしない。清々しい空気を吸い込んで、腰を伸ばす。
 おねえさんはすたすたと軽い足取りで迷うことなく歩いていく。その行く先に目を向ける。遠く、ホームの端、暗闇に飲まれるようにぽつんと小さな売店があった。
「あれですか?」
 お姉さんが顔だけ振り向き、にっこりと口角を上げて頷く。
「そうそう、あのお店。この前この辺に来た時にたまたま寄ってね、すごく美味しかったから覚えてたんだ。ちょうどよく起きれてよかったよ」
 お姉さんの歩調はとても速くて、僕と女の子は少し速足で追いかける。少し先の暗闇で赤い髪飾りがひょこひょこと揺れる。お姉さんは背が高くて大人っぽいのに、可愛いリボンがとても似合って見えた。
 モネ、なのだろうか?
 僕の頭の中にいたモネは、こんなに大人ではなかった気がする。けれども、人間は成長するものだから、とも思う。
 モネは人間なのだろうか?
 電波の中の女の子。頭の中で結ばれる像にだけいる女の子。そんなモネが成長することがあるのか、疑問に思う。成長しないでいてほしい、とも思う。ずっと、そのままで。
 頭の中でモネが笑った。
「いいよ、私は、ずっとこのままで、ここにいてあげる」
 頭の中で僕は答える。
「本当に?」
「本当だよ、私はそのためにここにいるんだから」
 頭の中にしみいる柔らかい声。僕はしばらく考えてから口を開いた。「やってる?」
 お姉さんが暖簾をくぐる。気がつくと、ホームの端、売店の前に辿り着いていた。
「なんにします?」
 カウンターの向こうで目の飛び出た扁平な顔をした店主がこちらに向き直った。

◆◆◆

 店長がぎょろりとした目で僕たちを見る。
 かちりと手に持ったハサミを鳴らす。
 お姉さんは店長の風貌を気に止めずに三本の指を立てた。
「クラブサンド、三つ」
 店長は頷いて、ぶくぶくと声を上げた。カンカンとカウンターを叩く。ホームの縁から数匹の蟹が現れた。甲羅にどこか店長に似た模様のある蟹たちだった。
 店長は手際よく蟹たちを3匹ほど掴むと、ぐらぐらと湯の煮える鍋に放り込んだ。
 手を拭い、傍らに置いていたパンを取り上げ、バターを薄く塗ってから、お姉さんに視線を送る。
「君ら好き嫌いはないよね?」
 突然話を振られて、僕と女の子は思わず頷いた。お姉さんは店長に向き直る。
「うん、とくに抜くものはなしで」
 店長は頷いてパンにレタスと玉ねぎとピーマンをのせる。
「あ」
 女の子が声を漏らす。お姉さんは女の子を見て
「大丈夫、ここ野菜も美味しいから」
 と言って笑う。
 いつの間にか青緑の色だった湯の中で蟹たちは鮮やかなオレンジ色に染まっていた。店長は素手で蟹を掴み上げ、手に持っていた鋏でバチバチと殻を切り裂いた。そのままパンの上にボトボトと蟹の身を掻き出していく。
「手早くやれば熱さを感じないのさ」
 お姉さんが僕らの顔を見て言う。
 店長はパンをもう一枚手に取ると繊細な手付きで具材の上にのせた。さくり、さくりと二度鋏が閃いた。
 ハラリとパンが四つに分かれる。パン自身が切られたことに気がつかないような滑らかな切り口だった。くるりと油紙で四つのパンを包む。
 いつの間にか同じ手順が二度繰り返されて、カウンターの上には三つの包みが並んでいた。
「どうぞ」
 店長は包みを紙袋に入れ、お姉さんに手渡す。
「ありがと」
 お姉さんはカウンターに数枚の硬貨を置くと紙袋を受け取った。
「ずっと食べたかったんだよ」
 お姉さんの言葉に店長が頷く。何も言わないのに少し嬉しそうなのがわかる。
 ふわりと茹で蟹の香りが漂って、ぐうとお腹が鳴った。

◆◆◆

「食いなよ」
 お姉さんが僕たちに一つずつ包みを投げてよこした。夜の寒さにかじかんだ手に、ゆでたての蟹のぬくもりが染みわたる。包みを開くと濃厚な蟹の匂いのする湯気が立ち上った。
 ぐう、とお腹が鳴る。そういえば随分と食べ物を食べていない。鮮やかなピンクと白色をした蟹が街灯の明かりの下で輝いている。玉ねぎとピーマンの鮮やかな白と緑が食欲をそそる。ごくりとつばを飲み込み、一口齧る。
 口にした瞬間にさわやかな川の香りがのどの奥を駆け抜けた。やわらかくも弾力のある力強い肉を噛みしめると、濃厚な蟹の甘みが口いっぱいに広がる。その味わいを共に挟まれた玉ねぎとピーマンの苦みや辛さが強く引きたて、最後にレタスとパンの柔らかさがふんわりとすべてを包み込んでいく。
「おいしい」
 思わず、声が漏れる。
「そうだろう」
 お姉さんが嬉しそうに頷く。
「いっぺん誰かに食わせたいと思ってたんだ。私は美味しいと思うんだけど、あんまり人が並んでるとこ見たことないからさ」
 お姉さんはちらりと売店を振り返った。売店はホームの端にひっそりと建っている。
「ひょっとしておいしいと思ってるのは私だけで、他の人にはとんでもない味に感じられてるのかもしれない、なんてことも思ってたから」
 よかった、とお姉さんは笑う。
「お嬢ちゃんは、どうだい?」
「ええ、おいしそう、ですね」
 女の子はそう言いながらも、包みを開けて、中身に口をつけていなかった。じっとパンにはさまれた緑色を見つめている。
「なんか、苦手なもんでも入ってた?」
「いえ、そういうわけでは」
 女の子は首を振る。しきりにつばを飲み込んでいる。苦手なものがあったとしても、この香りに抗うことなんてできやしない。女の子が小さな口を開ける。
「ん!?」
 女の子の目が大きく見開かれる。咀嚼して、もう一度口を開く。
 その時遠く高い空から、一迅の風が吹いた。ピィという高い鳴き声とともに影が通り過ぎた。

◆◆◆

 警戒さえしていれば、あるいはその襲撃を躱すことができていたかもしれない。しかし、そうするにはクラブサンドの芳香はあまりに魅力的すぎた。女の子の意識はその大部分がクラブサンドの方に向けられており、頭上への注意なと払う余裕はなかった。
 それに加えて襲撃者は驚くべき迅速さで襲いかかってきた。接近を認識したときには既に、襲撃者の爪はクラブサンドに深く食い込んでいた。
「だめ!」
 女の子は叫び、とっさに手を払う。襲撃者の爪は離れない。バサリと不穏な羽音。影がぐいと、跳ね上がる。お姉さんが影に掴みかかる。けれども影は瞬きをする間に空高くに舞い上がる。もう誰の手も届かない。
 影は僕たちを嘲笑うように、ぴぃと高く鳴いた。
「くそっ!」
 お姉さんが地面を蹴って罵りの声を吐いた。
「今のは?」
「ウミネコかそうでなければカモメだ」
 お姉さんが空を睨む。
「でも、ここは海ではないでしょう?」
「それじゃあ、きっとトンビだろう」
 お姉さんはしゃがみ込んで女の子の顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい?」
「ええ、私は」
 女の子は呆然と空になった手の内をみつめている。
「でも、サンドイッチが……」
「怪我は? 引っ掻かれたりしてない?」
「ええ、大丈夫です」
「それなら良かった」
 お姉さんは安心したようにため息をつくと、女の子の頭を撫でた。
「無事なのが一番だからね」
 それから、片手に持っていたクラブサンドの包みを女の子に差し出して言った。
「食べるかい? 食いかけだけれども」
「良いのですか?」
「ああ、覚えてたより量が有ってね。もうお腹いっぱいになっちまった。悪いんだけど残りを食べてくれると助かる」
 頭を掻きながらお姉さんは言う。女の子はおずおずと包みを受け取り
「ありがとうございます」
と答えた。
「さっきのこそ泥鳥の野郎もお腹をすかしてたんだろうさ。許してやりな」
「ええ、それは」
 女の子は頷く。
 遠く高い空のどこかでぴぃと鳥が鳴いた。

◆◆◆

じりり、と発車のベルが鳴る。
「やばいやばい」
 お姉さんが走り出す。僕たちもつられて走り出す。切り離され、短くなった電車、乗り込み口はやや遠い。
「待って」
「ほら」
 お姉さんが手を差し出す。女の子の歩幅は狭い。走る速度も速くない。女の子は頷いて、手をとり一緒に走りだす。お姉さんは飛ぶように駆ける、曳かれて女の子も加速する。乗り込み口まであと少し。
 もう一度、発射のベルが鳴る。先ほどよりも高く聞こえるのは気のせいか。焦る脚が地面を蹴る。息が上がる。粘るような時間の中で、体はあまりに重すぎる。先を行くお姉さんは重さなんてないように、一直線にドアへと転がり込む。女の子も跳び込むように電車にドアをくぐる。もうすぐそこだ、手が届く。
 ベルが鳴り、音を立てて扉が閉まる。
「あ」
 扉のガラスの向こうで、女の子とお姉さんが驚いた顔でこっちを見ている。
 大きな影が街灯の光を遮る。気がつくと、扉に少し隙間が空いている。
「むん」
 野太い声が聞こえた。見上げると大きな男の人が扉の隙間に手を突っ込んでいた。少しずつ、隙間が大きくなる。
「えいや!」
 気合の入った声。同時に扉が開く。
「ふう、危ないところだった」
「あの、ありがとうございます」
「なに、いいってことよ。俺も乗れなきゃ困ってたところだ」
 男の人は額の汗を拭い朗らかに笑った。
「ドアに物を挟むのは良くないよ、君。子供が真似をしたらどうするんだい」
 お姉さんは厳しい表情で男の人を睨んだ。
「ああ、それは、確かに良くないね」
 お姉さんの視線の先には、女の子がへたり込んでいた。きっと驚きすぎたのだろう。
「君は真似しちゃだめだぞ」
「ええ、とてもできませんけれども」
 優しい声をかけて、男の人は女の子を助け起こした。
「さて」
 男の人は車内を見渡し、一つのボックス席に目を止める。
「あの席が君たちの席かな? ご一緒してもよいかい」
「え」
 お姉さんが心底嫌そうな声を上げた。

◆◆◆

「空いている席は他にだってあるでしょう」
 お姉さんはしかめっ面で車内を見渡した。いくつかの席はぼんやりとした影のようなお客さんたちが座っているけれども、その合間合間にはなにも座っていない席が確かにあった。
「旅は道連れ世は情け、袖振り合うも多生の縁、こうして偶々とはいえ声を交わしたんだ、できることならこの長い電車旅、誰かと一緒に過ごせたら多少は退屈も紛れるかと思うのだけれども、どうだろうか?」
「いや、普通に嫌ですけれど」
 男の人の流れるような長口上。お姉さんの返答は短い。お姉さんが男の人を見る目つきは、鋭くて睨みつけような目つきだった。そっと女の子を自分の後ろに隠す。女の子は戸惑った顔で男の人とお姉さんを交互に眺める。
「怪しいもんじゃないぜ」
「怪しい人はみんなそう言います」
「そんなに怪しいかい?」
 男の人は困った様にひょいと眉を上げてみせる。その笑顔は影のない太陽のような笑顔。
「怪しいですよ。怪しくない人は知らない人の席に座ろうしないもの」
「ふむ」
 男の人は腕を組み、顎を掻いた。
「それもそうか」
 あっさりと頷くと、荷物を拾い上げ肩にかける。ぎしりと背負い紐が音を立てた。
「それじゃあ、よそに座るよ。すまないね、変なことを言って」
 悲しそうな顔をして振り返り、空いている席を探して歩き始める。
「あの」
 声をかけたのは、女の子だった。お姉さんの後ろから恐る恐る様子をうかがいながら、男の人をじっと見つめている。
「うん?」
「もしよければ、私と一緒に座りませんか?」
「いいのかい?」
 男の人はにっこりと笑う。
「やめときなよ、お嬢ちゃん」
「でも、お姉さんのことも私よく知りませんよ」
「そりゃあ、そうかもしれないけどさ」
 お姉さんはじっと男の人を見る。沈黙。他のお客さんたちが言いあっている僕たちを見て囁き合っているのが聞こえてくる。お姉さんはため息をついた。
「わかったよ。それじゃあ、一緒に座ろう」

◆◆◆

 気まずい沈黙が座席を支配していた。
 お姉さんは深い皺の刻まれた額を窓ガラスに押し付けて、流れる風景を目で追っている。隣に座る女の子は気まずそうに膝の上の救急箱をいじっている。
 重苦しい空気の原因である男の人は、と僕が隣に目をやると、相変わらずにこやかな表情で窓の外を見ている。
「何をしているんですか?」
 女の子が顔を上げた。その視線は男の人の右手に向けられていた。確かにその手は奇妙な動きをしていた。人差し指と中指を下向きに突き出し、すれ違うように動かしながら、不規則かつ小刻みなリズムで上下に動かしている。
「これはね、忍者だよ」
 ぴくり、とお姉さんの肩がわずかに動いた。それに気づかず、女の子が尋ねる。
「忍者?」
「知らないかな、遠い昔にいたんだよ。そういう、夜を行き、闇に生きた者たちが」
 窓の外は暗い。ときおり茂みや林の影が後ろへ去っていく。
「彼らはどんな暗闇の中でも、風のように走り続けたそうだよ」
「それで……その、忍者がどうしたんですか?」
「ほら?」
 男の人はよく手の動きが女の子に見えるように体を開いた。
「えーっと」
「その手が忍者だって言いたいのかい?」
 お姉さんが男の右手を横目でにらんだ。
「そのとおり」
 男の人の右手がぴょんと跳ねる。窓の外の茂みの影を飛び越えるように。女の子が気が付き、驚き、笑った。
「窓の外を走っているんですね」
「闇の中を忍者が走る、電車に並ぶ速度を保ったまま」
「なるほど」
 笑いながら、女の子が真似をして右手を動かす。ぎこちない動き。あの動きで走っている忍者はすぐ木にぶつかってこけてしまうだろう。
「ちゃんと、少し先を見て、どのくらいのタイミングでどのくらいの高さを跳ぶかを考えるんだ。忍者の動きに無駄動きはない。ぎりぎりを見極めるんだ」
「はい」
 真剣な顔で女の子は答え、暗闇を見つめた。
「くだらない」
 お姉さんは冷たい声でそう言い切ると、窓の外に視線を戻した。

◆◆◆

「忍者なんているわけない」
「そりゃあそうさ、昔の話だもの」
 お姉さんの不機嫌そうな声も気にせず、男の人の右手は夜の闇を駆け続ける。
「昔にだって、忍者は超人なんかじゃなかった」
「まあ、昔はね」
「今はいないんだろう」
「そうだね」
「じゃあ、超人の忍者なんて今も昔も存在しないってことだろう」
「おお! そうなるか」
 男の人の忍者が驚いたように飛び上がり、茂みをよけて着地した。お姉さんは苛立たしそうに舌打ち。忍者が視界に入らないように体ごと窓の外に向く。
「でも、夜の闇は深いからね。我々の見えないところになにがいてもおかしくはないよ」
「忍者も、ですか」
「うん、よく目を凝らしてみてごらん。もしかしたら見えるかもしれない」
 女の子は男の人の言葉に誘われて、走る手を止め、外をじっと見つめた。つられて僕も外に目をやる。暗闇が通り過ぎていくばかりで、なにも見えない。
「ほら」
 突然に男の人が開いている左手で暗闇を指さした。
「あそこに」
「どこですか?」
 わくわくとした口調で女の子が指のさす先を見る。
「今見えなかったかい? あの茂みに影のようなものが隠れたよ」
「本当ですか? 私には見えなかったのですけれども」
「注意深く見てごらん、きっとずっと追いかけてくるだろうから」
「あのねえ」
「しっ!」
 男の人は人差し指を口の前に立てて、お姉さんの言葉を遮った。
「今の音、聞いたかい?」
「え?」
「もうふざけるのは」
 どん、と音がした。音は天井、その上から聞こえた。
「なに?」
 お姉さんが眉をひそめる。男の人はなにも言わず天井をにらみつけている。
 とんとんとんとん、と今度は軽い音が続く。かすかな音。けれども耳を澄ますとかろうじて聞こえる。足音のような音。走る電車の屋根の上で? 一人のものではない。二人分。追いかけっこをするように重なり合う。
 女の子と僕も状況がわからなくて、天井を見つめる。
 どん、っともう一度大きな音がした。

◆◆◆

 窓の外を上から下に何かが横切って行った。大きな影。見えたのは一瞬だった。その一瞬に見えたのは人の顔だった。よく見えはしなかった。すぐに窓の外に消えていったから。
 それきり天井の上は静かになった。けれども
「静かに」
 お姉さんは天井をにらみ続けている。天井の上の存在は確かにまだいるのが感じられた。男の人は頷いて、カバンに手を伸ばす。音を立てないように静かに、慎重に。
 とりだしたのはいくつかに分割された木の棒だった。片側は空洞に、もう片側はねじになっている。やはり静かに、ねじになっているほうを空洞に差し込んでいくと、棒は連結され男の人の身長ほどの長い棒になった。その先端にさらに革の袋に覆われた板をねじ込む。連結部を軽く揺さぶってしっかりとつながっているのを確認すると、丁寧な所作で袋をはらった。
 袋の下から現れたのは鋭い刃だった。車内の明かりの下を受けて黒塗りの片刃がギラリと輝く。あの町で夜にどぶめっこが入ってこないようにするために枕元に置く槍、それを飛び切りきれいに磨き上げたような、そんなやりだった。
 男の人は槍を構え、天井に向ける。その上の気配に向けて。
「ふっ」
 小さく、鋭く息を吐き、男の人が槍を天井に突き刺した。槍はするりと軽く天井を貫いた。
「よし」
 男の人は突き刺した槍をこじる。そのままお姉さんに目配せをする。お姉さんはそれを見るや否や、素早く窓を開ける。夜の風が車内に流れ込む。お姉さんは窓枠に手をかけると、風に乗るように、外へ飛び出した。
「お姉さん!」
 慌てて窓の外をのぞき込む。線路わきにお姉さんの姿は見えない。
「大丈夫」
 男の人が槍を握ったまま、視線を上に向けた。上を向く。暗闇の中、屋根の上へ登る足の先端が見えた。
「なにを?」
 問いかけると男の人は首を横に振って言う。
「中に戻りな」
 聞き返そうと体を車内に戻したところで、屋根の上からいくつかの重たい殴打音が聞こえた。
 
◆◆◆

 殴打音は長く続いた。一方的な音ではない。それは重なり合う殴り合いのリズムだった。
 何が起きているのかわからず、僕と女の子は顔を見合わせる。男の人は天井に刺さったままの槍をときおり右に捻り左にこじる。その度に片方の殴打音のリズムが堕れ、しだいに他方の殴打のリズムが優勢になっていった。ひときわ大きな音が闇に響いた。
 再び窓の上から下に塊が落ちて行った。
 それきり、ぴたりと殴打音は止まった。
「ふう」
 と、男の人がため息をつき、槍を天井から抜いた。
「い、今のは?」
「気にしなくていいよ」
 男の人は槍の穂先を拭い(赤く汚れているように見えた)、手際よく棒にバラしていく。程なく「やれやれ」という声とともにお姉さんが窓から戻ってきた。
 どかり、と座席に腰を下ろす。よく見ると頬に大きな痣ができている。
「だ、大丈夫ですか?」
「ああ、平気だよ。こんなもん唾でもつけとけば治るさ」
「そんなわけないじゃないですか」
 女の子は慌てて救急箱を開けて中を探った。嫌がるお姉さんの顔に消毒液を浸した脱脂綿をあてる。お姉さんは痛みに顔をしかめながらうめいた。一通り消毒し終えてから、手ぬぐいを取り出すと水筒の中の水を垂らした。
「これをあてててください」
 お姉さんはしぶしぶ手ぬぐいを受け取り、腫れた頬にあてた。
 手当が終わるころに、ちょうど男の人も槍を荷物にしまい終え、座席に腰を下ろした。槍の穂先は荷物から少しだけ飛び出している。さっきと同じように収まっているはずなのに、一度意識してしまうとその存在感は大きく感じられた。
「さっきのは何だったんですか?」
 おそるおそる尋ねてみる。男の人はううんと首を傾げて、お姉さんに視線を送る。お姉さんは視線に気が付かないふりをして、窓ガラスを鏡代わりにして、傷の具合をじっと見る。すこしの間の根競べ。最後には男の人が折れた。
「言っただろう」
 男の人が口を開いた。
「忍者、というやつさ」

◆◆◆

 とうとうと、男の人は語る。
「さっき言ったかもしれないけど、忍者というのは闇に生きる者たちなんだ。闇さえあれば、そこにいる。そういうものたち」
「それが、さっき屋根の上にいたというのですか?」
「ああ、それも二人もいやがった。騒々しく、どたばたやってたの、聞こえただろう?」
「ええ」
「決着がついたみたいだったんで、漁夫の利を狙ったのさ。さすがに忍者相手に正々堂々戦うのは分が悪いからね」
 男の人は天井に目をやった。槍で突いた穴は開いたままで、夜の空気が車内に少しずつ流れ込んできていた。
「それで、勝って油断しているところを槍で足止めして、そちらのお姉さんにとどめを刺してもらったってってわけさ」
「とどめっていうのはよぉ」
 お姉さんが横目で男の人をにらんだ。
「もう、動かないくらいまで痛めつけた後で、最後の最後に入れるもんのことをとどめって言うんだと思ってたんだけどよ」
「動きづらくはしていたつもりだけれども」
 男の人は気まずそうに、荷物に目をやり槍の袋を撫でた。男の人が天井に刺した槍を繰っていたのは、その先に繋いだ忍者の動きを制限するためだったのだろうか。
「お姉さんも、あれがなけりゃもっとしんどかっただろ?」
「そりゃあ……まあな」
 思いのほか、おとなしくお姉さんは頷いた。濡れ手ぬぐいの端から青紫の痣がのぞく。さっきよりは少しだけ、腫れが軽くなっているように見えた。手ぬぐいから槍での補助があったうえで、あれだけの手傷を負ったのだ、もしも対等に殴り合うことになっていたら、もっと酷い怪我をしていたのかもしれない。
「まあ、次があったら、とどめは俺がさすからさ」
「次なんてねえよ」
「あの」
 お姉さんと男の人の言い合いに、女の子が口をはさんだ。
「でも、あの忍者たちはどうしてこんなところにいたんですか? どうしてあんなところで戦いなんか」
「あー、それはだな」
 男の人が一度口を開きかけて、すぐに言い淀んだ。

◆◆◆

「なぜなのですか?」
 女の子が問いを重ねる。不安そうな、訝しがる目。突然現れた暴力に戸惑っているのだろう。女の子の生きてきた世界では闘争なんてそんなになかっただろうから。
「さあねえ」
 口を開いたのはお姉さんだった。救われたように男の人はお姉さんに視線をやる。
「忍者なんて私たちとは全然違うんだもの、何を考えているかなんてちっともわからないよ」
「そういうものなんですか?」
「ああ、突然やってきて、なんの理由もなく暴れて、時々戦って去っていく、それだけさ」
「でも」
 女の子が口を挟む。
「なんの理由もなく暴れるなんて、そんなこと」
「ないっていうのかい?」
 ぎろり、とお姉さんが鋭い目を女の子に向けた。今までの目とは違う恐ろしい目。女の子はびくりと体をこわばらせる。
「まあ、世の中にはあるんだよ、そういうことが」
 助け舟を出したのは男の人だった。
「理由なく暴れて、戦って、去っていく。ただ確実なのは被害が残ること。なんとかできるときはなんとかするけど、結局だいたいの場合はなんともできずに被害だけが残る」
「被害、だけが?」
「ああ、さっきのあれだって、そうさ」
 男の人は天井を指さして続ける。
「もしも、邪魔をしなかったら残った忍者が何をしていたかわからない。戦いの昂揚で車両を壊していたかもしれないし、別の忍者が現れてもっと派手な戦いを始めていたかもしれない」
「だから……殺したんですか」
「そうだよ」
 躊躇いながらの女の子の問いに、きっぱりと男の人は答えた。
「お嬢ちゃんはないのかい? 理不尽の被害にあったことは。理由もなくなにかを奪われたことは」
「それは……」
 女の子は口ごもる。さっき女の子から聞いた身の上話を思い出す。氷海の海の話。沈没。空から降る黄色い光の帯。
「なにか、あるのかい?」
「それが、忍者のせいだっていうんですか?」
「さあ、忍者かどうかはわからないさ」
 男の人ははぐらかすように肩をすくめた。

◆◆◆

「なにか心当たりでもあるのかい」
 男の人はじっと女の子を見つめて尋ねた。その目は大きく見開かれている。吸い込まれそうな青い目だった。
「いいえ」
 女の子は一度首を振った。それから男の人の目をしばらく見てから、もう一度首を振った。
「船に乗ってたのです」
 男の人の目にいざなわれるように、女の子は話し始めた。目を細め、思い出しながら、痛みに耐えるように。
「その船に、黄色い光が降り注いだのです。それで船が無茶苦茶になって、氷山にぶつかって、それで、船が沈んで、お父さんも、お母さんも、お兄さんも……先生も」
 女の子は口をつぐんだ。窓の外、遠くを見つめる。
「奪われてしまったのです。突然に」
 断絶の響きを持った言葉だった。言葉は座席に沈み込んでいった。
 お姉さんも男の人もなんというべきかわからないようだった。黙り込み、各々が言葉を探している。僕も、なにか言おうと思考に潜る。ちらりとお姉さんの赤いリボンを見る。こんなとき、モネならなんて言うだろう。
「なるほど、失われたものに理由があるのかどうか、というのが君にとって大事なわけだ」
 頭の中のモネが言う。いつだったかのお悩みコーナーでの回答だっただろうか。あの時はモネも少し考えて、言葉を選びながら口を開いていたのをよく覚えている。
「そりゃあ、一言で言っちゃえば『理由なんてない』なんだと思うよ。理不尽なんてものは理不尽なもんなんだからさ。でもね、あー」
 そこでモネは言葉を切った。少しだけ言葉を探して、口を開く。
「理由が欲しいってのも分かる。ただ理由もなく失われたなんてのは悲しすぎるからね。何かの代償だったり、犠牲だったりして、失われたことに価値があってほしいんだよね。そう思うのは悪いことじゃない」
 首をひねってから続けた。
「そうじゃなかったら、例えば悪いやつがいて、そいつが奪って行ったんだって思うかもしれないね。それならそいつを憎めばいいんだから」

◆◆◆

「ただねえ」
 モネは器用に仮想の腕を組んで天を仰いだ。
「たしかに、そう思っているのは楽かもしれない、そいつを倒すことができれば失われたものの恨みは晴らせる。実際に倒せるかどうかはわからないけれども、そう思っているうちは希望がある」
 でもね、とモネは目をつむって続けた。その言葉を、僕はなぞる。
「でも、もしも、その黄色い光が例えば忍者のせいだったとしてら、君は忍者をやっつけるの?」
 僕の言葉を聞いて、女の子は僕の目を見た。暗いまなざしだった。女の子は頷く。
「もしも、できるのであれば」
 重たく、沈み込むような声だった。重さに抗うように、口を開く。
「それでみんなが帰ってくるわけじゃなくても?」
「ええ、少なくとも私の気は晴れますから」
 ぎらりと、女の子の目が輝いた気がした。
「やめときな」
 口を挟んだのはお姉さんだった。女の子を見つめる。強く鋭い目つき。女の子はたじろがずに言い返す。
「もしも、のはなしです」
「もしも、だからさ。そんなことを考えても仕方がないんだよ」
「仕方がなくても、考えてしまうのです。それに、お姉さんだって」
 女の子はお姉さんに向き直った。じっと、横顔を見つめ、天井の穴を指さす。
「お姉さんだって、忍者を倒したじゃあありませんか」
「降りかかる火の粉を払っただけ。近くに危ないがあって、私はそれを払えた、それだけだよ。わざわざ火に突っ込もうとするのは……良くない」
「私にもしも忍者を倒せるだけの力があるなら、私も」
「君にはそんな力はないんだろう」
 びしりと、お姉さんは言う。厳しい声。女の子は口を閉ざす。
「それは倒せない、ってことなんだよ」
「ええ、それは、わかっています」
 女の子は頷く。重い口調。目を逸らす。きらりとその目が光った気がした。鮮やかな、黄色の光。黄色の光?
「え」
 思わず声が漏れる。そっと女の子の目を窺う。赤く充血したその目には涙が浮かび、車内の光を浴びて輝いていた。

◆◆◆

 胸をなでおろす。さっきの黄色い光は気のせいだったのだろう、と思う。胸のざわつくような不吉な黄色。きっと明かりの光が涙に奇妙な具合に反射して、そうに見えただけ。自分にそう言い聞かせる。
 女の子はそっと目元を拭う。もう光はない。真っ黒な目で僕らを見ている。
「いつか私もそれだけ強くなれるのでしょうか」
「いつかはね」
 お姉さんが女の子に目をやって言う。先ほどとは違う、優しい声。見ると、救急箱の上の女の子の手にお姉さんはそっと手を載せていた。指の根元が固く膨れ上がった大きな手。一朝一夕に作られた拳ではない、長い時の中で鍛え上げられた戦う拳。女の子はお姉さんの手の甲と自分の手の甲をじっと見比べた。
「私は、まだ弱いのですね」
「ああ、でもそれは強くなれるってことさ。君が何かと戦おうと思うなら、なにかを倒したいと思うなら、その思いを忘れちゃあ駄目だよ」
 お姉さんは女の子の手をぎゅっと握って続ける。
「大事なのは思い続けること。そうすれば少しくらい道を間違えたとしても、いつかは目的に辿り着けるから」
「はい」
 女の子は頷いた。赤く腫れてはいるけれども、力強い目つきをしている。
その目にはもう涙はない。
「私、強くなります。そして、あの黄色い光を倒すのです」
「ああ、そうしな、そうしな」
 お姉さんはくしゃりと笑うと、女の子の頭をわしわしと撫でた。男の人はその光景を微笑みながら見ている。幸福そうな光景。
 僕は少しためらってから口を開く。
「でも、光なんかを本当に倒せるのでしょうか。それに、悪いのは本当にその光なんでしょうか」
「あの黄色の光を見た後に、船はおかしくなったのです。ですから、きっとあの黄色の光が悪いのです。私はかならずあの光を倒す方法を見つけてみせますから」
「それならよいのだけれども」
 相槌を打つ。勢いに負けて、打ってしまう。けれども、僕の頭の中に先ほどの、いつかのモネの言葉が再生され続けている。

◆◆◆

 なにかを言おうと口を開く。何を言おう。どう言えばモネの言葉を伝えられるだろう。言葉は出ない。
 お姉さんと女の子は何も言わない。お姉さんはまた窓の外を、女の子は救急箱をじっと見ている。この場に言葉はいらないように思える。それでもなにかいうべきだと思う。モネの言葉を伝えたいと思う。けれども僕の口は声の出し方を忘れたかのように、ぽかんと開いたまま沈黙を放ち続ける。
 ただ時間だけが過ぎていった。
 言葉を探しているうちに、電車の速度はだんだんと落ちていく。次の駅が近いのだ。止まる前に言葉にしようと探すけれども、焦るほどに言葉を見失ってしまう。
 結局、電車が完全に止まってしまうまで、何も言えないままだった。
 お姉さんが立ち上がる。
「さて、私は行くよ」
「はい」
 一緒に女の子も立ち上がる。つられて、というふうではなくて、自分の足でしっかりと立っちあがる。
「あの、お姉さん」
「なんだい?」
 女の子の呼びかけにお姉さんは振り返る。
「私、ついていきますから」
 お姉さんは片眉を大きく上げた。
「そうかい」
「お姉さんが嫌だって言ってもついていきます。それで強くなるんです。私が決めたんですから」
「面倒は見ないよ」
「承知の上です」
 女の子は頷き、じっとお姉さんの目を見つめる。お姉さんもその目を鋭い眼差しで見返してから頷く。
「それなら勝手にしな」
「はい」
 お姉さんのそっけない言葉に女の子は嬉しそうに答える。つかつかと歩き始めたお姉さんの後を追って、女の子も出口へと向かう。
「あの!」
 捻り出した声は思いの外勢い良く出た。女の子が振り返る。続く適切な言葉は見当たらない。
「その、頑張って」
 適切でないとわかっていても、言葉を絞り出す。
「生き延びて、もしも、目指す道の先に君の求める光がなかったとしても」
 女の子はきょとんとして頷いた。
「ええ、ありがとう」
 そして、何事もなかったかのように振り返り電車を降りていった。

◆◆◆

「行っちまったな」
 男の人が空になった座席を見つめて、ぽつりと言った。
「本当に良かったんでしょうか」
 別段、尋ねるつもりはなかった。けれども問いかけが口から漏れるように転がりでた。男の人は横目で僕の顔を見た。
「まあ、座りなよ」
 男の人に促されて、座席に腰を下ろす。男の人の斜向かい、女の子の座っていた席。少しだけ温かい気がする。きまりが悪くて座席に着いていた手を膝の上に置きなおす。
「なにか言い足りないことでもあったのかい?」
「いえ」
 一度否定してから、もう一度首を振る。
「あったのかもしれません」
「色々と熱く伝えれてたじゃないか」
「僕の伝えたいことが、伝えられた気がしなくて」
「伝えたいことをそのまま伝えられることなんてごくごく稀なことだぜ」
「そういうことではなくて」
 したり顔に少し苛立ちが生まれる。ふとあらためて男の人を眺める。
 この人の中にモネはいるのだろうか。
 あの街から遠く離れて、もう電波は届かない。
「モネが、言っていたんです」
「モネ?」
 案の定、男の人は聞き慣れないという反応を返してきた。
「モネはアイドルです。僕の……僕達の非実在の」
「ふむ」
 男の人が曖昧に頷く。ぴんとは来てない表情を浮かべている。
「それで、そのモネ、さんがなんて言っていたんだい?」
「それがわからないのです」
「ふむん」
「なにか、こんな時に言うのがぴったりな言葉を言っていたはずなんです。そんな気がするんです。でも、なんて言っていたのか、それが思い出せなくて」
 なるほどと男の人は頷いた。黙って考え込む。影のように曖昧な乗客の一団が乗り込んできて、ガヤガヤと座席の脇を通り過ぎていった。横目で見送るうちに、一団は開いている席を見つけたらしく、席を決め荷物を網棚に上げたりし始めた。
「もしかして、それは」
 出し抜けに男の人が口を開いた。少しだけ躊躇っているようにも見えた。
「そんなこと何も言ってないんじゃないかい?」

◆◆◆

「なんですって?」
 思わず素っ頓狂な声で聞き直してしまう。それだけよくわからない言葉が聞こえた。男の人の顔をじっと見る。気が触れている様子は見えない。見えなくてもおかしな人はいる。この人もその類だろうか?
 モネはいつでも正しいとは限らないかもしれない。けれども、どんな悩みや問いにも真剣に答えてくれた。こんな時にぴったりな言葉もいつだったかに言ってくれていたはずだ。
 ああ、そうだ。
「あなたはモネを知らないから」
 世界にはモネを知っている幸福な人と、これからモネを知る幸福な人がいる。この男の人が後者だったというだけだ。それならば、するべきことは決まりきっている。口を開く。言葉が流れ出てくる。
「モネはどんな悩みにもぴったりの答えをくれるのです。今までに言っていなかったとしても、これから言ってくれるのです。あなたが頭の中にモネをインストールして勝手にしゃべるようにしてしまえばよいのです。そうしてしまえば、あなたが悩んだ時にもたちどころに心強い答えを離してくれるのですよ」
「そう、なのかい」
 男の人は少し気おされたように答えた。勢いよく話過ぎただろうか。モネの良いところを伝えようとすると、多くのことを伝えないといけないので、早口になってしまう。それで話を聞く気を失わしてしまったらもったいないし、申し訳ない。
「ごめんなさい、つい興奮してしまって」
「ああ、いや、そうだな」
 もごもごと男の人は口の中で言葉を作る。
「でもさっきの君の悩みには答えがなかったのだろう?」
 穏やかな口調で男の人が口を開く。なにかを言い返そうとする前に、男の人は言葉を続けた。
「どんな悩みにでも答えてくれるはずのモネが答えてくれない悩みがあった
、それならモネがどんな悩みでも答えてくれる答えてくれるというわけじゃない」
「そんなことはありません」
「それじゃあ、もしかして、こうは考えられないかな。」
 男の人は顔を寄せて続けた。

◆◆◆

「本当はモネなんていないんじゃないかい?」
 囁かれたのは焼けるような言葉。はねのけるように体を起こし男の人の口から遠ざかる。
「非実在のアイドルなんだろう? 電波が君の頭の中に像を結ぶ。君の頭だけに。他の人の頭の中にはいない。そうだろう」
「そんなことは」
 店長や板崎さんや、それにあの最初の十三人の馬賊だって
「ない? そうかい?」 
 反論が口から出るより先に、男の人は言葉を続ける。赤熱する言葉を。
「君でない人たちの頭に浮かんでいるのは本当に君と同じモネなのかい?」
「違ったらなんだって言うんですか? そんなことはどうでもいいことでしょう」
「ああ、そうだろうさ、どうでもいいさ。でもそれじゃあ、君、聞いておくけれど、君でない人たちの頭の中に本当にモネは像を結んでいるのかい? 確かめたことはあるのかい?」
 男の人の言葉は熱を持ち、その言葉を聞いた僕の頭の温度は上がっていく。燃えるように、燃え盛るように、思考に火が点いたように。頭が熱く燃えていく。
「本当は誰も見ていない姿を君だけが見て、聞いていない言葉を君だけが聞いて、そんなものはね、君」
 男の人が決定的に口を開く。思考を焼く言葉。聞きたくない。耳にまぶたはない。耳を瞑ることはできない。「いるとは言わないんだよ」 燃える、燃える。言葉を聞いた思考が燃える。怒りか嘆きか混沌か。頭の中は真っ赤な炎で焼き尽くされる。赤い、赤い炎が支配する。
 赤、赤、そうこの燃えるような赤は、軽やかに揺らぐ赤は、知っている、僕は知っているはずだ。いつも見ていたはずだ。見ていた赤のはずだ。
 揺れる揺れる赤が揺れる。カチューシャのようにリボンのように。それを髪に飾っているのは
「それでもいるのかい?」
 けれども炎は髪飾りではない。焼き尽くす赤。燃え尽きた思考は静かな灰に変わっていく。 
 息が苦しい。酸欠のように喘いで、声を絞り出す。
「それでもセロリモネはいるのです」

◆◆◆

「絶対にいるのです」
 もう一度繰り返した言葉は弱々しく消えていった。
「そうかい」
 興味深そうな目つきで、男の人が頷く。なにかを言い返そうとする。なにも思いつかない。炎は思考を全部燃やしつくして、頭は中に冷たい灰が詰まったみたい。ちっとも上手く動いてくれない。
「それじゃあ、大切にするんだね。頭の中にいるセロリモネを」
「ええ、当たり前です」
 こんな時にモネなら、なにか気のきいた嫌みの一つでも言い返すのだろうか。頭の中のモネに問いかける。
 答えはない。
「え?」
 頭の中を探して回る。灰だらけの真っ白な頭の中。あのわかりやすい燃える赤の髪飾りは見当たらない。
「モネ?」
「どうしたんだい?」
 口に出して呼びかける。答えはやっぱり帰ってこない。
 あの声も笑顔も、ずっと頭の中にあったはずなのに、全部が燃え落ちて灰の中に消えてしまった。
「モネが、いない」
「だから、そう言っているだろう」
「そうじゃなくて、僕の頭の中から」
「いなくなっている?」
 頭の中の沈黙は確かなモネの不在を告げていた。
 立ち上がる。
「どうした?」
「探しに行かないと。ここにいないなら、ここでないどこかにいるはずじゃあないですか」
「どこへ探しに行くのさ」
 男の人が窓の外を親指でさす。
 いつの間にか電車は動き出していた。窓の外の風景が加速していく。モネはさっきの駅で降りたのだろうか。目を凝らしても駅の光はもうぼんやり遠くに小さく見えるだけ。モネの姿は見えない。
「次の駅で引き返します」
「そうかい」
 それじゃあ、と男の人が僕の顔を見上げる。
「とりあえず今は座ったらどうだい」
 そう言われてようやく、自分がまだ立っていることに気がついた。けれども腰を下ろすつもりにはなれなかった。理由を考え、思い至る。男の人が不思議そうに首を傾げる。
「よく考えてみるとさっきの駅で降りたのだとは限りません。僕はもう少し、この電車の中を探してみようと思います。」

◆◆◆

「それもいいんじゃないかな」
 男の人は静かにそう言った。目を細め、窓の外を見ている。まばらに立つ街灯が一瞬だけの明かりを残して後ろに走り去っていく。何か面白いものでも見えているのだろうか。僕の方にはもう視線を向けようともしない。
「ええ、それじゃあ」
 背を向け、歩き始める。どこへ行こうか。前か、後ろか。どちらにいてもおかしくない。どちらにもいなくてもおかしくないけれども。
「待ちなよ」
 声が聞こえた。振り返る。男の人の声だった。
「君はいなくなった、その女の子、モネを探しに行くのだな」
「ええ、そうですよ」
 答えると、男の人は深いため息をついた。内臓まで吐き出すような深い深いため息だった。男の人は窓の外を見たままの姿勢で、どんな表情をしているかは見えない。
「一応、言っておくよ」
「なにをですか?」
「言っておかないといけないことさ」
 背を向けたまま、男の人は続ける。抑えた淡々とした声だった。
「君はその女の子を探さないこともできるんだ。探さないで、そのままきた電車に乗って、家に帰ることもできる。もしも探しに出たなら、君は味わわなくてもいい苦しみを味わい、遇わなくてもいい辛い目に遇うかもしれない。挙句結探し当てることなんてできなくて、どこかでくたばっちまうかもしれない。それでも、行くんだね」
 聞いたことのある言葉だった気がする。同じ言葉ではなくても似たような言葉、口調を。
 けれども、その記憶も灰のかなたに埋もれて薄れ去っていた。
「ええ、行きます」
 だから、僕は頷いた。他にどう答えることがあるだろう。
「それじゃあ、頑張って。虚無に気を付けて」
「ええ、ありがとうございます」
 礼を言ってまた振り返る。男の人はそれきり黙り込んだ。
「まもぉなつぎゅれまつんで」
 祝詞が聞こえた。がらり、と扉の開く音が聞こえた。
 前の車両からだった。暗闇から小柄な制服の影が現れた。影はゆっくりと僕らの席に向かってきた。

◆◆◆

 ことりと音がした。床を見ると革の袋が落ちていた。男の人は口の前に人差し指を立てて首を振った。その上着の下で、腹の下に呑ませた抜き身の槍の穂先が、ギラリと光った。
 静かに頷く。刃物はどこに向いているかが重要だ。自分に向いているのは一番良くない。他人に向いているのなら、それが動いていようが刺さっていようがあまり問題ではない。今のところ穂先は僕には向いていない。けれども、男の人の顔を見ると下手な動きをしたらたちまちその切っ先が僕に向きそうだった。だから僕は黙って頷き、近づいてくる車掌さんの方に向きを変えた。
 脚を引きずるようにしてゆっくりと車掌さんがやってくる。鎖に繋いで後ろに連れていた黒い袋のうちの幾つかは空になっているようだった。
 僕は座るきっかけをなくし、待ち受けるように立ったままになってしまった。車掌さんは不審そうな顔をしているのだろうか? 目深に被った帽子の影になって表情は読めない。
 車掌さんが立ち止まる。なぜだか緊張して体に力が入って固くなる。
「ぞっさけんうぉはいかぇんいたしゃす」
 車掌さんはくるりと背を向けて祝詞を唱えた。隣の席のお客さんたちに向けての声だった。いつの間にか静かに盛り上がっていたらしい隣の席のお客さんたちが慌てて荷物をひっくり返す音が聞こえる。その音に紛れて、背後でごくりと唾を呑み込む音が聞こえた。
 視線だけ後に向ける。静かに、音もなく男の人が立ち上がった。右手は上着の下に。しっかりと穂先を握っている。
「車内での暴力行為はお控えください」
 車両内に響いたのはくぐもっているのに耳に残る声だった。声は車掌さんから聞こえた。切符を確認しながら背を向けたままの車掌さんに、けれども男の人はそれ以上足を進めることができないで、ぴたりと止まった。
 車掌さんはお客さんたちに切符を返してから、ゆっくりと振り返った。男の人はふっと息を吐いてそのまま座席に腰を下ろした。

◆◆◆

 曖昧な笑顔を作って男の人は言った。
「ああ、そんな、暴力なんてつもりはないんですよ?」
「そうですか、それでは切符をどうぞ」
 感情の見えない目で男の人を見つめ返して、車掌さんは答えた。差し出した手袋は随分と汚れている。最初に見た時には真っ白だった気がするのだけれども。
「かなわないね」
 男の人は観念したようにため息をついて、ゆっくりと槍の穂先を懐から取り出した。いったん脇の座席に置くと、床に落ちていた鞘を拾い上げる。慎重な速さで穂先を鞘に納める。
「これで、どうだい?」
 鞘に包まれた刃の柄を車掌さんに差し出しながら男の人は言った。よく見ると革の鞘には細かな模様が刻まれていた。鳥と星をあしらったひどく入り組んだ模様だった。
「どちらまで?」
「この次の駅まで」
「でしたら、そうですね」
 車掌さんは手のひらの上の鞘をしげしげと見てから少し考え込んだ。
「鞘だけで十分ですよ」
「本当ですか?」
 男の人はおどろいて目を開いた。
「それじゃあ、危ないことなんてしなくてよかったな」
 脇を向いて小さく呟く。
「なにか?」
「いいえ、鞘だけでいいなら喜んで」
 男の人は車掌さんに答えてから、穂先を持ち替えてゆっくりと鞘を外した。刃先は車輌の光を受けて暗くぎらりと輝いた。一瞬、躊躇うように男の人の動きが止まった。わずかに穂先を持つ手に力がこもる。男の人はちらりと車掌さんの顔を窺って
「ふう」
 と、またため息を一つついて刃物を鞄にしまい込んだ。
「どうぞ」
 そう言って鞘を車掌さんに指し出した。車掌さんは黙って頷いて受け取ると、自分の鞄に大切そうにしまった。
「それで、君は」
 車掌さんが顔を上げる。暗い目が僕の目を捉えた。じっとまっすぐに見つめてくる。灰色になった頭の中を覗かれているような感覚。
「なるほど、君は」
 帽子の陰で車掌さんの眉が大きく上がった。
「行く先をなくしてしまったのだね」
 その声はいやに優しい響きに聞こえた。

◆◆◆

 首を傾げる。僕の目指す先はずっと変わらない。
「いいえ、なくしてなんかいません。僕はモネを探しているのです。ずっとそうでした。これからもそうです」
 車掌さんの目を見つめ返して言い返す。この言葉には中身があるのだろうか。たとえすかすかの言葉でも他に言えることはない。他の言いようもない。
「そうですか、それなら探すしかないのでしょうね。探すべき導きがもうあなたから失われていたとしても」
「車掌さんは、モネを見ませんでしたか?」
 念のため、尋ねてみる。車掌さんは目をつむり、ゆっくりと首を左右に振った。
「残念ながら」
「そうですか。もしも見つけたら教えてくださいね」
「ええ、わかりました。もしも、見つけましたら」
 もしも、にアクセントを置いて車掌さんは言った。憐れむような、悼むような声だった。あの町で排水湖に落ちた恋人を探す女性に書けるような声音。
「電車の中を探すつもりですか?」
「ええ、そのつもりです」
 少しだけ、苛立ちが返事に乗ってしまった。車掌さんは気にする様子もなく同じ口ぶりで言葉を続ける。すっと、前方の車両を指さしながら。
「強いていうのであれば、あちら側の車両がお勧めです。こちらでは」
 そういって車掌さんは目線だけで後方を振り返った。
「私は見ませんでしたから」
「そうですか」
 思いの外、筋の通った忠告に拍子抜けしてしまう。
「ありがとうございます」
「いいえ、仕事ですから」
 間抜けな声でお礼を言うと、車掌さんは首を振った。
「それじゃあ、お兄さんもお世話になりました」
「いいってことよ。気をつけな」
 男の人に向き直って挨拶をすると、軽薄そうな声が返ってきた。意外に思って顔を見ると、なぜだか責務から解放されたような表情をしていた。
「どうしたんですか?」
「いや、どうしようもないことはどうしようもねえんだなった思ってさ」
「はあ」
「まあ、見つかるといいな、モネさん」
 その言葉は本心のように聞こえた。

◆◆◆

 お辞儀だけをして、席を離れる。
 見送る二人の視線を感じる。見たことのある目だった。街の外へ稼ぎに行くと言って仕事を辞めた内田さんを見る店長の目。希望なのだろうか、それとも哀れみなのだろうか? 
 でも、考えてみるとそれはどちらでもよいのだ。彼らの目にどんな意味が込められていたとしても、それは僕が探しているものには関係ないのだから。
 ふわふわと力の入らない足で、電車の中を進む。しっかりした床のはずなのに雲の上を歩くように不確かだ。
 隣の車両への扉が近づいてくる。僕が入ってきた扉だ。馬賊たちから逃げて、駆けこんできた扉。今はその扉に向かってゆっくりと進んでいる。馬賊に穴をあけられて燃えていたけれども、さっきの駅で入れ替えたのだろうか。気のせいだろうか、扉が近づくにつれてかすかに煙の臭いが香ってくるように思える。
 案外、僕の頭の中の匂いなのかもしれない。
 ふとそんなことを考えながら、扉に手をかけて開ける。
 むせかえるような煙の臭いが鼻を刺した。咳き込む。気がつく。これは匂いじゃない、煙そのものだ。慌てて息を止めて、扉を閉めようとする。頭が痛い。目がちかちかする。足から力が抜ける。視界が暗くなる。
 気がつくと倒れ込んでいた。前のめりに真っ暗な車両の中に。頬に床の冷たさを感じる。
 後ろでがらりと音がした。力を振り絞って後ろを振り返る。閉じたドアののぞき窓から光が差し込んでいる。車掌さんがこちらを見ているのがわかる。逆光になっていてどんな顔をしているのかはわからない。
 「たすけて」、と開いた口から煙が流れ込む。流れ込んだ煙が僕の体内を煙の黒に染め上げていく。白い灰に埋まっていて空っぽになっていた僕の頭の中にも煙が立ち込める。黒い煙が。
 遠のきかけた意識の中に、何かがいるのを感じた。頭の中の一部を奪われたように、気配を感じる。
「だれ?」
 頭の中に問いかける。
「俺は煙だよ」
 声が聞こえた。

◆◆◆

「煙だよ、煙、知っているだろう?」
 声はなれなれしい口調で語り掛けてくる。
「知りませんよ。誰ですか」
 喉に煙が染みて声が出せない。混乱した頭で、混乱した頭の中に問いかける。
「つれないな、もう何度も会っただろう?」
 言われて考え込む。思い出せない。燃え尽きて灰に埋もれた記憶の中のどこかで会っているのだろうか? 声は記憶から真っ先に消えていくと聞いたことがある。この声の記憶も消えてしまったのだろうか。考えながら、這いずるようにして座席に向かう。煙の中、他のお客さんは見えない。縋りつくようにして座席に座る。頭の位置が高くなり、少しだけ息が楽になる。
「思い、出せないです」
「あら、そうかい。悲しいな」
 変わらない口調で頭の中の声が言う。
 窓にもたれかかり、ガラスに額をつける。額の熱が吸われて心地よい。窓の外を見ようとすると、ガラスに映った僕がぼんやりとした目で見返していた。違和感。
「え」
 声が僕の煙に燻された喉から漏れる。
「本当に、覚えていないんだ」
 頭の中の声が言う。窓ガラスをもう一度見る。やっぱり間違いない。ガラスの向こうの僕は、確かに僕なのに、見たことのある僕の顔をしていない。いや、ほとんどの箇所は同じなのだ。でも、決定的に違う箇所があった。
 目を見開き、眼球に触る。ひりひりとした痛みを感じる。ガラスの向こうの僕も、目に触り、顔をしかめる。本物の目だ。けれどもその白目はどうしたことか鈍い灰色に染まっているのだ。
「あなたの仕業ですか?」
 問いかける。頭の中で煙が首を振るのを感じる。
「別に、そうしようって思ってそうしたわけじゃないんだよ。ただ、俺がここにいるとそうなってしまうみたいなんだ」
「出て行ってくださいよ」
「そんなもったいないことできないよ」
 煙が口をとがらせる。
「せっかく入れたんだ、しばらくここにいさせてもらうよ。まあ、君も親切だと思ってさ、少しぐらい我慢しておくれよ」

◆◆◆

「どうだい、もう体も慣れてきたんじゃないかい?」
 声が言う。言われてみると、いつの間にか息苦しさは耐え難いものではなくなっていた。確かに息苦しさは残っているのだけれども、なんとか呼吸はできるようになっている。
 半分の思考と半分の呼吸。余裕ができたのか、突然居座ってきた闖入者を腹立たしく思う。
 息を思い切り吐いて、体の中から煙を追い出そうとする。面白がるような笑い声が頭の中に響く。
「そんなことをしたって仕方がないよ。まあ、そのうち気が済んだら出ていくからさ」
「そこにいて良いのはあんたじゃないんだ」
「へえ」
 興味深そうな相槌。
「いていいのが俺じゃないのなら、誰かほかの奴がここにいるべきだ、ってことかい?」
「ええ、そうですよ。今はいなくても、いつか戻ってくるんですから」
「そいつは随分大切な人だったんだろうねえ」
 ぽつり、と声が聞こえた。今までの苛々させられるような声とは打って変わって、いやにしんみりとした声だった。たじろいで思わず聞き返してしまう。
「なんですか、急に」
「いやね、ここはとても居心地が良いからさ、君はその人のことを大切に思って、大事に大事にしていたんだろうな、って思ってさ」
「そうですよ」
 口に出して言う。煙にしわがれた声で、のどが痛いけれども絞り出す。
「大切な人なんですよ。モネは。そこにいていいのは、だから早く出て行ってください」
「モネっていうのかい? ここにいたのは」
「ええ、そうですよ。知っているのですか?」
「ああ、たぶんだけれども」
 煙は曖昧に言葉を濁す。問いかける。もしもこの煙がモネの行方を知っているのなら、この息苦しさの埋め合わせになるかもしれない。
「少し前に女の子の体に入ったことがあるんだ。ぼんやりとしか覚えていないけれども、その子の名前がモネ、と言っていたような気がするんだ」
 耳がかっと熱くなる。
「本当ですか? あなたに会った後、モネはどうしたのですか?」

◆◆◆

「どうなったって言われてもね。すぐに別れたよ。そんなに長く一緒にいることもできないんだから」
 煙が頭の中で答える。どこか申し訳なさそうな響き。その中に不穏な言葉を聞いた。問い返す。
「長く一緒にはいれない?」
「ああ、そうだよ。あんたもそうやって平気そうな顔してるけど、息苦しくはあるんだろう? ずっといたら死んじまうよ」
 とんでもないことを言い始める。それなら早く出て行ってくださいよ、そう言いかけた言葉は煙が続けた言葉に遮られた。
「あの子にも尋ねたんだよ。早く出て行って欲しいのかって。そりゃあ、そうだろうなって思ったんだよ。わかってるさ。あんないい子を殺したいとは思わないからね」
「じゃあすぐに出て行ったんですか?」
 それだけの思いやりがあるなら、少しだけでも僕の方に向けてほしいと思う。その思いは体の中の煙に伝わっているのだろうか。
「いいや、それがあんたとあの子の違うところさ。あの子はね、優しくこう言ってくれたのさ。『あなたが私の中にいたいというのなら、別にいつまでだっていてくれればいいさ』って」
 ちかり、と記憶の中に何かがきらめいた。探そうと記憶の中を振り返る。けれども気がついた時にはきらめきは灰に埋もれて消えていた。
 残念と思う間に、煙は誰かの言葉を真似して続けた。
「『苦しくないってわけじゃないよ。でも、あなたが私と一緒にいたいと思ってくれて、そこに居続けるんなら、私は我慢するよ』って、言ってくれたんだ」
 もしも、この煙に体があったなら遠くを見つめながら語っていただろう。そんな風なしっとりとした声だった。
「それで、ずっと?」
「いいや、まさか」
 煙が首を振った。
「そんな親切をされて、おっちんじまうまで一緒にいるなんてできないよ。次の駅で別れたさ。俺はあの子の吐いた息に乗ってふわふわとあの空に漂って行ったのさ」
 窓の外の空を見る。煙もこの空を見ているのだろうか。あるいはモネも?

◆◆◆

「それはどの駅だったのですか?」
「どうだったかな」
 煙は少し考えこんだ。もくもくと肺の中で頭をひねるように蠢くのを感じた。
「いくつか前の駅だったのは覚えているのだけれども」
「モネは、その女の子はそこで降りたのですか?」
「さあどうだろうね。俺はそのまま空を漂っていたから。ただ、あの子がしばらく俺を見送っていたのは見えたぜ」
 その言葉を聞いて思い至る。煙の去るのを見送るだけの停車時間があった駅はさほど多くはない。仮にモネがその駅で降りていたとしても、そんなに大きく戻る必要はないのかもしれない。煙に体に侵入されるという不快な体験の中で、初めて得られた良い情報だった。
 少しだけ、煙が体の中にいることを許せる気がした。ほんの少しだけ。健康に害のない期間だったら。
 もしかしたら、そうすることであの子に近づけるかもしれない。
「モウ」
 鳴き声が聞こえた。
「なんですか、その声?」
「何がだい?」
 煙は怪訝そうな声で返事をしてきた。煙の声ではない?
 耳を澄ませる。
「モウ、モウ」
 また聞こえた。確かな低い声。奥の方の客席から。重い体で立ち上がり、声の方に向かう。足音を忍ばせて、慎重に。
「モウモウ」
 声は変わらず聞こえてくる。物悲しそうな声だった。
 静かに客席をのぞき込む。
「モウ!」
 驚いたような声が上がった。
「これは、馬?」
 紫色をした丸々と肥えた馬がうずくまって涙を流していた。
「もしかして、馬賊の馬かな」
「馬はひひーんと鳴くと思うけれどね」
「でも、馬賊が乗っていたのなら馬なのでしょう」
 煙の言葉に適当な返事を返しながら、馬を観察する。馬は脚を折り曲げた姿勢のまま微動だにしない。
「置いていかれたのかい?」
 できるだけ優しい声を作って手を差し出す。悲しそうなその目に共感する部分があった。馬はおどおどと僕を見つめてくる。
 驚かさないようにゆっくり馬の頬に触れる。しっとりとした感触が手のひらに広がった。

◆◆◆

 つややかな紫の皮膚の下に、確かなぬくもりを感じる。しっとりと肌に吸い付くような手触りは、けれども命の息遣いを確かに伝えている。
 そのぬくもりは胸をゆっくりと満たしていった。モネがいなくなって、伽藍洞になっていた胸の中。煙では埋まらなかった空洞だ。その物悲しそうな目のせいだろうか、馬に触れていると少しだけ喪失感の痛みが和らぐような気がした。
「一緒に行くかい?」
「いいのかい?」
 煙が驚いいたように声を上げる。
「俺にはあんなに冷たくしてたのに」
「この子はいい子だから」
「へえ」
 あなたとは違って、という言葉は飲み込む。煙が鼻で笑う。煙も俺とは違って、と思っていそうだった。仕方がないと思う。少なくとも煙よりはこの馬に一緒にいてほしいと思う。馬は言葉がわかったというわけではないのだろうけれども、ようやく顔を動かして僕の手の平の匂いを嗅いだ。
 怯えてはいるけれども、こちらに害意がないことは伝わったようだ。
 ゆっくりと耳の間を撫でる。ごつごつとした瘤が指の間に心地よい。
「モウ」
 馬がのそりと立ち上がった。座っているときにはわからなかったけれども、立ち上がると随分と大きい。電車の中がひどく狭く感じる。音もなく、再び足を折り、頭を下げる。
「どうしたの?」
「乗れって、ことじゃないのかい?」
 煙が言う。
「いいの?」
「モウ」
 馬は一鳴きすると頷いて見せた。黒い大きな目が僕を見つめている。
 座席の手すりに乗ってから、馬の背中に乗る。馬が立ち上がる。天井に頭をぶつけそうになって頭を屈める。
 馬が一歩脚を踏み出す。体勢を崩しそうになって、首にしがみつく。鐙の乗っていない背中の乗り心地は良くない。文句を言うわけにもいかないけれども。
「モウ」
 馬は鳴き、ゆったりとした足取りで開いたままになっていた窓に向かう。ごうごうと風が流れ込んできている。
「どうするのさ?」
 尋ねる。馬は何も言わず窓めがけて走り始めた。

◆◆◆

  馬は躊躇いなく駆け続ける。勢いをどんどん増しながら。窓が急速に血数いてくる。止めようにも方法を知らない。ぶつかる、と身を硬くして、目を閉じる。
 予想していた衝撃波はいつまでたっても訪れなかった。代わりに閉じた瞼にごうごうと風が当たるのを感じた。目を開ける。夜の暗さが目に沁みた。
 あたりを見回す。自分が電車の外にいるのに気がつく。
 僕は馬にまたがって、夜空を駆けていた。それほど速いわけではない。のそりのそりといった、けれども力強い歩調で馬は駆けて行く。
「飛んでる?」
「そりゃあ、馬賊の馬だもの、空くらい飛ぶだろうさ」
 煙が言う。そういえば馬賊たちは焼き討ちの煙とともに飛び去って行っていたのを思い出す。煙が体の中にいる僕が乗っているのだから、この馬が空を飛んだとしてもおかしくないのかもしれない。
 遠く目の下に電車が走っていくのが見える。電車は煙を出さずに走る。透き通るような夜の空気の中を電車の窓の光が切り裂いていく。
 あの光の中にモネはいたのだろうか? わからない。今までの駅にいるのと同じくらいの確からしさだと思う。だから馬の首を軽く叩き、声をかける。
「いこう」
「モウ」
 馬は一鳴きして、速度を上げる。電車の響きが遠くなる。真っ暗な原っぱが目の下に広がる。
「ねえ、あっちに行ってはくれないかい?」
 煙が胸の内で声を上げた。どこかを指さしているような気がする。その方向に目をやる。何も見えない。
「どうしたんですか?」
「あんただって別にどこに行こうというわけでもないんだろう?」
「あっちになにがあるんですか?」
 尋ねると煙は黙り込んだ。胸の中に沈黙が広がる。しばらくして口を開く。
「わからない。でも、俺は、あっちに行きたいんだ」
 煙は真剣な口調で続ける
「ねえ、頼むよ。どうかあの灯りのところに行ってくれよ。お願いだ」
「灯り?」
 目を凝らす。煙の意識の先、暗闇の中に小さな明かりが見えた。

◆◆◆

 声をかけるよりも先に、馬は光の方へ向きを変えていた。
「ありがとう」
 煙の言葉に僕は首を振る。
「馬が向かっただけですから」
 暗闇の向こうの小さな灯りは、海辺の灯台のように光を放ち続けている。馬はまっすぐに駆けていく。馬の足取りは思いの外速く、光はどんどん近づいてくる。
 近づくにつれ鼻先に新しい煙の匂いが漂ってきた。
「お仲間?」
「どうだろう」
 誰かが火を燃やしているようだった。小さな野営の焚き火。黄色く輝く暖かな光。
 光から少し離れたところで、どかりと音を立てて馬が着地した。そのまま僕も馬から飛び降りる。柔らかな土の感触を靴の下に感じる。僕が歩き始めると馬は一緒に着いてくる。茂みに隠れて焚火は見えなくなっていた。微かな光だけが時折、隙間からもれる。
「誰かいるのですか?」
 歩いていると焚き火の方から声が聞こえた。さんざん叫んだ後のしわがれ切ったかすれ声だった。答えは返さずに近づいていく。わざわざ余計な情報を渡す必要はない。馬も分かっているのか静かに
 茂みが終わる。少し開けたところになるようだ。様子を窺う。一人か二人かそのくらい。向こうも警戒しているのだろうか。話し声は聞こえない。
 しばらくの沈黙。
「誰か、いるのですか?」
 焚火の近くからもう一度声がした。さっきと同じ声。少しためらってから、一歩足を踏み出す。
 黄色い輝きが目に刺さる。目をしばたかせる。向こうはじっとしていて動かない。もう一歩前に進む。
 少しだけ目が慣れて様子がわかるようになってくる。焚火当たっているのは二人のようだった。こちらの様子を窺っているのはそのうちの一人だけ。もう一人は火に向かって手を伸ばした姿勢で動く様子がない。
「こんばんは」
 できるだけ敵意のない声で挨拶をしてみる。
「こんばんは」
 帰ってきた声の中にあるのは警戒心だけで、敵意や害意はないように聞こえた。
「もしよければ、火に当たらせてもらえませんか?」

◆◆◆

 また、沈黙があった。こちらを眺める目が黄色い焚き火に照らされて輝いている。
「ええ、どうぞ、こちらへ。寒かったでしょう」
 親切そうな声だった。声の調子だけを信じるわけにはいかないけれども、さしあたってすぐに襲いかかってくることはなさそうだった。言葉に甘えて茂みから離れる。馬も黙ってついてくる。見開いた目が馬に向けられる。
「おや、そちらは……」
「つれです。近くまで、よいでしょう」
「ええ、もちろん構いませんよ」
 焚き火の主は頷いてから言葉を続けた。
「どうぞそこらにお座りください」
「ありがとうございます」
 手近にあった倒木に腰を下ろす。
 明かりの中で観察する。
 やはりこの焚き火にあたっているのは二人だけのようだった。一人はさっきから話している男。酷くしわがれてやせ細った男だった。黄色く輝く焚き火に照らされて、見開いた目がきらきらと輝いている。じっとこちらを見ているような、それでいてもっとどこか遠くを見ているような不思議なまなざしだった。
 もう一人の男よりは少し若いけれども、同じくらいかそれ以上に萎びて疲れて切っているようだった。先程から少しも動いていないように見えた。視線も意識すらも僕たちに向けている様子はなかった。ただじっと火に手をかざし、揺れる火を見つめている。
「助かりました」
 害のない言葉を口にする。どう振る舞うかはもう少しふたりが何者であるかをしってから決めても遅くはないだろう。
「夜の中で迷子になっていたのです」
「ああ、そうなのですね」
 男の相槌。それきり黙り込むので再び沈黙が訪れる。
「お二人はどちらへ?」
「二人?」
 男は困惑したように尋ね返してきた。僕も困惑して、もう一人の男に視線を送る。相変わらず動かない。返事の一つも漏らさない。
「なあ、あっちの方は……」
 突然頭の中で煙が語りかけてきた。二人に気づかれないように、黙って耳をすませる。
「どうやら生きてはいないようだぜ」

◆◆◆

 声につられて火に当たる男を見る。やはり視線を気にせず、動きもしない。
「大丈夫ですか?」 
 立ち上がり、声をかけて、近寄る。もう一人の男はこちらに目を向けるけれども何も言わない。
 動かない男の肩に手をかける。それでも動かない。固く強張っているのを感じる。そっと首筋に触れる凍えるように冷たい。生命の気配を感じない冷たさ。
「な、言ったとおりだろ」
 煙が言う。
「この人は?」
 もう一人の男に訊ねる。
「どの、人ですか?」
「この、焚き火に当たっている人ですよ。あなたの知り合いではないのですか?」
「知り合い……?」
 少しだけ苛立ちが言葉に乗ってしまう。答えは空虚なオウム返しだった。僕や男の死体が目に入っているはずなのに、見えていないような目つきでこちらを見ている。
「なあ、この人も」
 煙が口を開く。
「生きてはいるだろう?」
 煙に答える。当たり前だ。死んでる男は言葉を話さない。
「でも何も見ちゃいないぜ」
 煙の言葉に男の目をじっと見る。見つめ返す2つの目は確かに何も見ていない。ただ黄色の焚き火の光をきらきらと反射させているだけだ。
 その目を何処かで見たことがあったような気がした。記憶を探る。遠く、埋もれてしまったところにひっかかるものがあった。
 誰かが去っていった光景、去り際にこちらをちらりと見た目はこの男の目のような黄色く輝いていた。誰だったのだろう。記憶の中、去っていく男の傍らには少年がいた。やはり見開いた目を黄色く染めた少年。
 見えているものを見ず、目の前にないものを見つめている目。記憶の中に刻まれた光は、今僕の目の前にある目の光とそっくりだった。
「ねえ、もしかしてあなたは男の子と一緒ではありませんでしたか?」
 僕の言葉を聞いて、男の黄色い目が一際大きく見開かれる。
 がしり、と腕を掴まれる。やせ細った体からは想像できないような力強い手だった。
「あんた、坊ちゃんのことを知っているのかい?」

◆◆◆

 男はさっきまでの疲れきった様子から一転、酷く興奮した様子で僕を見つめる。掴む手は強く振り払えない。
「ねえ、どうなんですか? 知っているのですか? 坊っちゃんの行方を。今、坊っちゃんがどこにいて、何をしているのか、ご存知なのですか。ねえ、それならどうか教えてくださいよ。後生ですから、どうか、どうか教えてださい」
 すがりつくように僕の手を掴み、男は懇願する。けれどもその答えを僕は持っていない。
「ごめんなさい。昔、あなたに似た人に会ったことがある、そんな気がしただけなのです。その時に誰かと一緒だったような、そういう風に思ったのです」
「そうですか」
 がくり、と力なく肩を落とし男は火の側に座り込む。ぽつりぽつりと火に向かって言葉を紡ぎ続ける。
「そんなに遠くには行っていないはずなのです。ついさっきまで一緒にいたのですから。ずっと一緒に。それなのに」
 男の悲しそうな声はどうしてだか僕の胸をじくじくと締め付けた。
「なにがあったのですか?」
「わかりません」
 男はうつむいて首を振った。
「気がつくと私はここにいました。この炎の側に。長い間、見ていた気がします。それともさっき来たばかりなの気も。坊っちゃんもさっきまでいたはずなのにもう姿が見えないのです」
 男は顔を上げて、輝く目で暗闇を見渡した。見えていないなにかを探すように。
「こんなにも明るいのにどうして坊ちゃんの姿が見えないのでしょう」
 ふと、思い至る。もう一人の男のことを。火にあたった姿勢のまま、命を失っていた男。坊ちゃんというには随分と年をくっているけれども、目の前で嘆いている男より少し若く見えた。
「もしかして」
 そこまで言って口を閉じる。この男に伝えるべきだろうか。坊っちゃんが絶命しているかもしれないということを。
 伝えなければ、この男は何も知らないままでいられるのではないだろうか。
「おい、お前」
 ふいに声がした。掠れて煙たい声だった。

◆◆◆

 振り返る。
 そこに立っていたのは火に当たっていた男だった。たしかに絶命していたはずの男。死者はしゃべらないはずなのに。
 男が一歩足を踏み出した。ふらりと力ない足取り。堅い地面の上で、けれども地に足ついていないような、そんな足取りだった。
「ねえ、お前はよ、俺のことなんか置いていけばいいんだよ」
 男が声を発する。小さく開いた口から言葉が漏れている。言葉と同時にふわりと煙が漏れたのが見えた。煙は焚火の光の中で夜の空気の中に散っていった。
 その時、僕の胸の中がひどく清々していることに気がついた。さっきまでうるさく胸の中で渦巻いていた存在が今はいない。不在の訪れ。
「煙?」
 ぼんやりと立つ男に目を向けると、男は目をつむり首を振った。何も言わないでくれ、そう言っているような気がした。僕は口を閉じた。なにか言うべきことがあるわけでもない。
 もう一人の男に目を向ける。こちらは声を聴いたきり黙り込んでしまっていた。
「おい、聞いているのか?」
「坊ちゃん……なんですか?」
 男のぽかんと開いた口から躊躇いをはらんだ声が漏れる。
「ああ、そうだよ。他に誰がいるってんだ」
「でも、ずっと探してたのに見つからなかったから」
「ばかだな、俺はずっとここにいたよ。お前が見えてなかっただけだろう」
 煙は死者の口を使ってぶっきらぼうに答える。どういうつもりなのだろう。見当もつかない。
「じゃあ、坊ちゃん、一緒に行きましょうよ」
「嫌だよ」
 きっぱりと、煙は言った。切り離すような拒絶の言葉。それを聞いて黄色い目の男は首を傾げた。
「なぜですか? せっかくまた出会えたのに」
「いいだろ、別に。もう草臥れちまったんだ。おれはもうここにずっといる」
「それなら、私も一緒にいますよ」
「やめろやめろ」
 強い口調で煙は続ける。
「お前はまだ歩けるんだ。どっかに行ってしまえよ。お前がいたら……お前がいたら」
 煙は言いよどみ、言葉を繰り返した。

◆◆◆

「私がいたら、なんなのですか?」
 少し間を開けて、男が尋ねる。問いかけはしたものの答えを聞きたくないような、そんな声だった。
 おどおどとした黄色い目で、男は坊っちゃんの目を見つめる。煙の宿った坊ちゃんの目は灰色に濁っている。黄色い目と灰色の目はぶつかるように見つめ合う。
 先に目を逸らしたのは灰色の目の方だった。
「俺は一人で眠りたいんだよ」
「起きるまで、ここにいますから」
「だめだよ。ここにいたらお前もだめになってしまう。駄目になるのは俺一人十分だよ」
「ご一緒します。それが私の役目ですから」
 弱々しくも、有無を言わさない信念の込められた声だった。
「そうかい」
 煙はため息をついて頷いた。
「それなら、俺は少し眠るよ。朝になったらお越しておくれ」
「わかりました。ゆっくり眠ってください。私が起きて見張っておきますから」
「任せたよ」
 そう言って煙は火の側に座り込んだ。さっきまで息絶えていたのと同じ姿勢。
「朝になったら起こしてくれ」
「はい。おやすみなさい」
 煙は男の言葉を聞いて、安心した表情を作って坊ちゃんのまぶたを閉じさせた。
 眠る坊っちゃんに目をやる。目をつむり、本当に眠ってしまったかのように黙り込んでいる。話しかけようか迷う。何を思って入ったりなんかしたんだろう。僕の中からいなくなってくれたのはありがたいのだけれども。
「夜明けは近いのでしょうか?」
 男が空を見上げて言った。僕もつられて空を見る。空は真っ暗で、雲は一つもないのに星も月も見えない。
「どうでしょうね」
「明けない夜はありませんよ」
 男は言う。言い聞かせるような口調だった。誰に向けてだろう。僕か坊っちゃんか、それとも自分自身にか。
 坊っちゃんは眠った姿勢のまま何も言わない。
 男の言葉は、遠い記憶、あの町でもよく聞いた言葉だった。深い闇に沈む夜も、厳しい寒さの攻め寄せる夜もあった。けれどもあの町でさえ夜はたいていちゃんと明けた。

◆◆◆

 だから、この夜もいつかは明けるのだと思う。明るくなれば、黄色い目のこの男も坊っちゃんがもはや生きていないことに気がつくかもしれない。明けない夜がなくても、すべての者が朝を迎えられるわけではない。
 その時煙はどうするのだろう。男の人形遊びで付き合うのだろうか。あるいはそれからもずっと。
 尋ねてみるわけにもいかない。黄色い目の男はじっと坊っちゃんの方を見ている。坊っちゃんに話しかければ問い質されるに違いない。
 そもそも、そんなことを知ってどうなるというのだ。煙ともこの二人とも旅の途中で出会っただけの関係なのだ。彼らがこれからどこへ行き、どうするかなんて僕には関わりのないことだ。
 それでも、と考えてしまう。
 夜が明けて、坊っちゃんが起きてこなかったときに、この男はどうするのだろうか、と。
 ここまでの男の口ぶりと目つきからそれは容易に想像できることだ。
 彼の黄色く輝く目は何も見ていない。坊っちゃんの方を見つめているようで、坊っちゃん自身を見ているわけではない。
 きっと彼はずっと待ち続けるのだろう。坊っちゃんが目を覚まして立ち上がるのを。もう二度と起きることがないなんて考えもせずに。日が登り沈んで、また夜が来て、また朝が来て、それを何度も何度も繰り返しても、ずっと。
 僕には関係のない話のはずなのに、その光景を想像すると何故だがとても可哀想に思った。なにも見ず、何も知らずにここで朽ちていくであろう男と彼を縛りつけ続ける死体。死体は生前どうしてほしいと思っていたんだろう。もしかして、煙の言葉にはいくらかの身体の持ち主のものが含まれていたのかもしれない。
 男はじっと坊っちゃんの方を見ている。眠るように死んでいる坊っちゃんの方を。黄色く輝く見開いた目で。
 目をそらし、馬を撫でる。そういえばこの馬に、なにか食べさせるものがあるだろうか。ポケットを探る。その指先にごろり、と触れるものがあった。

◆◆◆

 ポケットから球体を取り出す。
 少し湿った手触りが手のひらの上で転がった。2つの球体。いつか車掌さんの一人からもらった眼球。
 男の黄色の目と手のひらの上の暗い目玉を交互に見比べる。使われていない目と使う者のいない目。両者が出会うのは悪くないことのように思えた。
 どうせ僕が持っていても使うあてがあるわけでもない。支払いのために手に入れたけれど、買うべき店も、商品もなくなっていてしまっていたのだ。きっとこれからも使うことはないだろう。
 渡したとしても僕にはなんの得もないのだけれども。
 それでも渡したいという気持ちが浮かんでくるのは自分でもひどく不思議なことに思えた。
 例えば要らないものを押しつけたいという気持ちだったり、何かの見返りを貰えるかもしれないという計算だったりするのかもしれない。今まで気にもしていなかった荷物を何も持たない男に渡して? 
 あるいは胸の中にいた存在の名残がそんな考えを生み出したのかもしれない、とふと思う。例えば煙が死体の中に入ったのは、二人に対する哀れみではないだろうか。その感情の名残が僕の体の中にいくらか残っていて、僕にとても似合わないようなことを考えさせている、そんな考えが浮かぶ。
「もしよければ、これを」
 結局僕にはいらないものなのだ。この目玉も、哀れに思うような感情も。ここで目玉を渡してしまえば、どちらとも別れが告げられる。
 そう思ったから僕は目玉を男に差し出した。
「なんですか? それは」
 男は不思議そうな顔をして僕の方を見る。近づいて、その手を取り目玉を握らせる。
「それは目玉です」
 少しだけ言葉を探して、口を開く。
「あなたの目は少し物を見づらくなっているようですから。よく見える目の方が、坊ちゃんを助けるのに便利でしょう」
「それは、ありがとうございます。でも、良いのですか?」
 恐縮した男の言葉に、首を振って答える。
「ええ、僕には不要なものですから」

◆◆◆

「けれども、私はちゃんと見えていますよ。なんでも」
 男が目玉を手に取る。しげしげと見つめる。本当に見ているのかどうかはわからないけれども、目は目玉に向けている。
「そうですか、それで使わないなら別に使わないでもいいのです。僕にはどうせ使う当てのないものです。そいつらだって、使われるかもしれない誰かにもたれていた方が幸せでしょう」
「それでは、ありがとうございます」
 男はためらいがちに礼を言った。
「私は見えていますよ」
 男は繰り返した。
「この目は確かに見えているのです」
「何が見えているのです?」
 少し考えて、男は答える。
「黄色くて明るい光が」
「それ以外のものは見えているのですか?」
「光しか見えませんよ。光以外になにがあるというのですか」
 男の目は黄色い光を受けて輝いている。確かにそれ以外のものが映っている様子はない。
「それじゃあ、坊ちゃんも見えないんじゃあないですか?」
 僕の言葉に男は動きを止めた。今ようやく気がついたように、目を見開く。
「そこにいるのですよ。声は聞こえていたのでしょう? あなたはその坊ちゃんの姿は見えていましたか? それで本当に坊ちゃんと一緒にいれるのですか?」
「それは……」
 男は手のひらに載せた眼球をそっと握った。僕の方を見て口を開く。
「この目なら、坊ちゃんを見ることができるのですか?」
「それは、わかりません。でも、前の持ち主はいろいろなものを見ていたようですよ」
 僕の言葉に男は黙り込んでしまった。手のひらは眼球の感触を確かめるように、握ったり開いたりを繰り返す。
「でも、この光は暖かで優しいものなのですよ」
「そうですか」
 僕はそんな相槌を打つことしかできなかった
 しばらくして男は目を開いた。
「それは、そうですね。見えなければお世話をすることもできません」
 男は一つ息を吸うと、両の目尻に人差し指の先を当てた。
「えい」
 男は気合の声とともに、ぐぬりと目を抉った。

◆◆◆

 ぶらりと二つの眼球が垂れ下がった。
「ああ、これも切らないと」
 男は眼窩の眼球を繋ぐ視神経を手探りでつまむと、一本づつ丁寧に眼球から引き剥がした。
 黄色く染まった二つの球体が切り離されて地面に無造作に転がる。
「ええっとこれかな」
 男は眼球を握り込んでいた両手を開き、また手探りで視神経を繋いでいく。布に色水が染み込むような滑らかさで視神経と眼球は結合していった。
 それから男はゆっくりと視神経を眼窩に収めてから、最後に左右の眼球を同時にぐっと押し込んだ。
 あっけないほどスムーズに眼球の交換は終わった。男は一度ぎゅっと目をつむり、それから二、三度ゆっくりと瞬きをする。また目を閉じて、そのまま動きを止めた。
「どうですか?」
 訊ねてみる。眼球を渡した手前、どうなったか知る必要があるように思えた。男は目を閉じたまま少しだけ首を振って答える。
「恐ろしいのです」
「何がですか?」
 男の声はひどくおびえた声だった。
「目を開けることが」
「そう、ですか」
 男の言葉の意味が掴めず、曖昧な相槌を返す。
「こうしていざ目を替えてしまうと、恐ろしくなってしまったのです。これから私が見る世界は本当に私が見る世界なのでしょうか」
「どんな目でもあなたが見るものがあなたの世界でしょう?」
「けれども、見る目が違えば、見えるものも違ってしまうかもしれないじゃないですか」
 男は目を両手で覆い、空を仰いだ。
「それなら、元に戻しますか? あなたの目はまだそこにありますよ」
 今までの男の目は男から切り離されて、輝きを失い、ただの黄色い球体になって地面に転がっている。けれども、まだ目としての機能は保っているはずだ。
「いいえ」
 男は天を仰いだまま言った。
「私は目を替えると決めたのです。決めたから目を替えたのです。それに後悔はありません。ただ」
 少し黙ってから口を開いた。
「ただ、恐ろしいのです。目を開く勇気がない、それだけなのです」

◆◆◆

 荒く息を吐きながら、男は続ける。
「けれどもわかっているのです。目を閉じたままでいるわけにはいかないのだと。私は目を替えた。ならいつか目を開かないといけないのです」
 男は大きく息を呑んだ。
「ねえ、親切なお方」
「はい」
「あなたはそこにいるのですよね」
「ええ、いますよ」
 問い掛けに答える。僕がここにいるのはたしかだ。
「坊っちゃんもそこにいますか?」
 次の問いかけにはすぐには答えられなかった。坊っちゃんらしき男はいるけれども、本当に坊っちゃんなのかどうかはわからない。少なくとも中にいてさっきまで喋っていたのは坊っちゃんではない。
 けれども、本当に坊っちゃんでないとも言いきれない。死んでいる男が坊っちゃんだったなら、それが動いて喋るなら、それは坊っちゃんなのかもしれない。
 結局のところ男の言うとおり、いつかは目を開けないといけないのだ。それは僕がなんと言ったところで変わりはない。
 だから、僕は正直に答えることにした。
「ええ、坊ちゃんかどうかはわかりませんが、そこに男の人がいることは確かです」
「それは、どのような男ですか?」
「あなたより少し若くい人ですね。ひどく草臥れた様子です。じっと火にあたって動きません」
 少し声を低くして答える。男はかすかに頷いた。
 それから、ゆっくりと前を向いた。坊ちゃんの方に顔を向けて、ゆっくりと手を目の前からどける。その瞼は固く閉ざされている。
「もしも」
 男が瞼を開く前に、尋ねる。聞いておかなければならない気がしたこと。
「もしも、そこにいるのが坊ちゃんじゃなかったら、どうするのですか?」
「それは……」
 男は少し考えて、それでもしっかりとした口調で答えた。
「探しに行く、しかないのだと思います」
 だから、と言葉を続ける。
「私は目を開けます」
 そう言い切って、大きく息を吸ってから、ゆっくりと目を開いた。
 二、三度瞬きをしてから焚き火の反対側、坊ちゃんの方を見た。

◆◆◆

 男の目が見開かれる。そのまま凍り付いたように固まってしまう。真っ黒な目の感情は読めない。
 視線はまっすぐに坊ちゃんの、男の死体に向けられている。死体はもちろん動かない。煙はまだ男の体の中にいるのだろうか。
 二人とも何も言わず、動かない。僕も動けない。部外者の僕が二人の間に張り詰められた沈黙を破るのは適切でないような気がした。
 長い静寂の後に、黒い眼の男が大きなため息をついた。
「そう、なのですね」
 続いて口から洩れた言葉は坊っちゃんにではなく、僕に向けられた言葉だった。
「坊っちゃんでは、ないのですか?」
 死体の方に目を向けて訊ねる。男は頷いた。
「残念ながら」
「そうですか」
「ええ、それにその方はもう……」
 悼むような目線を送る。
「さっきまで話していたのはこの方ですか?」
「ええ、そうですね。この人があなたと話していましたよ」
「そうですか」
 男はゆっくりと相槌を打った。目は開いたまま、けれども視線を落とし、額をごしごしとこする。もう一度大きくため息をつくと、立ち上がり、男の死体に近づいていった。
 立ったままじっと死体を見つめる。
「舐めやがってよ」
 ぽつりと言葉が漏れた。小さい、けれどもひどく荒々しい声だった。
「ああ!? 舐めやがってよ!」
 繰り返す。今度はさらに大きな怒鳴り声。
 どかり、と暗闇に鈍い音が響いた。
 見ると死体の腹に男のつま先が食い込んでいた。ぐらりと死体が倒れる。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな!」
 男は繰り返し怒鳴りながら、何度も何度も死体を蹴りつける。死体の口から薄く煙が漂っていく。
「なにが坊ちゃんだ! 何がどこか行けだ! 何様のつもりだ! ああ!? 憐れんだつもりか? クソが!」
 激しい口調で罵りながら、男の蹴りつける足は止めない。死体は何も言わず、ただその暴行を受け入れる。当たり前だ。死者に口はない。
「てめえもだぞ」
 ぎろり、と黒い目が僕の方を向いた。

◆◆◆

 男が距離を詰める。座った姿勢では下がれない。勢いのままにつま先が飛んでくる。足を突き出してインパクトをずらす。殺しきれない衝撃が体を襲う。何度も何度も。痩せ細った体から想像もつかないような重く鋭い蹴りつけ。
「てめえがこんなもん渡さなきゃあよ!」
 男が吠える。黒い目を見開いて。僕の渡した目。
 何度目かの蹴りに反動を合わせ、後ろに転がり距離をとる。蹴られた脛がずきずきと痛む。いくらかはふくらはぎの内側に食い込んで、しばらく足を有効に使えそうにない。蹴り返すのにも逃げるのにも。
 男がなおも距離を詰め、覆いかぶさるように掴みかかってくる。手を叩き落とそうとする。黒い目が僕の手を捉える。追随する機敏な動き。手は躱され、肩をつかまれる。振り払おうとする。男の腕が僕の動きの先を読んでいるように、振り払う動きを無効にする。
「おれはぼっちゃんといられたんだ! 一緒にいると思えたんだ! それを! それを! 知っていやがったんだろ、どうせ。坊ちゃんじゃないってことをよぉ! 知って馬鹿にして笑っていやがったんだろう。くそがよ!」
 重い拳がかざした腕に突き刺さる。罵声とともに何度も何度も。腕に力が入らなくなっていく。ぐわりと体ごと掴んだ肩が振られる。ガードが下がる。頬骨に重い痛みが走る。拳がガードをすり抜ける。口の中に鉄の味が広がる。
「もう!」
 背後から鳴き声が聞こえた。なんとか視線だけをそちらを向ける。馬が心配そうに顔を寄せる。
 ふらり、と後ろに倒れるように馬に倒れ込む。体をひねって馬にしがみつく。
「行って」
 馬の耳に口を寄せて呟く。馬が頷く。
 ふわりと体が宙に舞う。肩を掴む感覚は離れない。
「てめえ、舐めやがって」
「そのまま」
 男が叫ぶ。そっと馬の背を叩く。馬はのそりと加速する。
 ぎゅっと馬にしがみついていると、やがて肩の重みが消えた。叫び声が遠くなる。しばらくして遠くに物が落ちる音が聞こえた。

◆◆◆

 安堵して緊張が解けたのか、殴られた頬がずきずきと熱を持ったように痛み始める。夜風がひどく沁みる。顔をしかめながら殴られたところを触っていく。腫れてはいるけれども、骨までは折れていないようだ。
 意識が薄れかかる。ふわりと浮遊感。慌てて意識をつかみ取る。馬の首筋にしがみつく。しっとりとした感触が心地よい。
 ゆっくりと深く呼吸する。肺に新鮮な空気が送り込まれる。随分久しぶりな気がする。そうだ、もう煙はいないのだ。少しだけさみしい気持ちもする。この痛みに息苦しさが加わると相当に不快だったかもしれないけれども。
 腫れた瞼で下に目を凝らす。明かりはもう遠い。男ももう追っては来ないだろう。遠いところから叫び声がかすかに聞こえる。ケモノの遠吠えのような荒々しい怒鳴り声。何を言っているのかわからない。意味のあることは言ってないのかもしれない。もう言えないのかもしれない。人間は取り込んだものでできている。視力は人間の認識の大部分を占めるのだから、眼球が変われば意識も大きな影響を受ける。人外の域へと逸脱しつつある者の眼球を取り込めば、人格が豹変したとしてもおかしなことではない。
「渡したの、良くなかったのかな」
 語り掛ける。答えはない。そうだ、煙はもういないのだ。馬ももちろん何も言わない。胸の中にはまた空白が現れていた。語り掛けた言葉はその空白に呑みこまれて返ってこない。
 ゆっくりと頭を振る。鈍い痛みが頭を覆いつくす。視界がくらむ。
 くらんだ視界の遠くに灯りが見えた気がした。
「あれは?」
 独り言。小さな光。痛みの中に見た幻覚だろうか。
「見えるかい?」
 馬に語り掛けてみる。明かりを指さしながら。馬は指の先を見て頷いた。幻覚ではなかったのだろうか。ゆっくりと馬が進路を変える。遠くに見える灯りの方に。
 馬の背に揺られながら灯りを見つめていると、だんだんと夜の闇とその遠くの灯りに視界が染められていった。

◆◆◆

 視界の中で灯りはいつの間にか大きくなっていた。灯りの目の前にいることに気がつく。
 灯りは窓から漏れる光だった。森の中にぽつんと、一軒の小屋が経っていた。その窓から小さな明かりが漏れ出ていたのだ。
 馬にすがりながら小屋の周りを巡る。じくじくと脚が痛む。光は暖炉の火のように思えた。少しだけでも休めればよいのだけれど。
 入り口を見つける。ノックしようとして動きを止める。
 ちらりと先ほどの男の恐ろしい顔が頭に浮かぶ。この小屋の主はどんな人だろう。さっきの人のように恐ろしい人でないといいのだけれども。
 止まったまま考える。また、怖い人だったらどうしよう。痛む足では逃げ切れない。痛みと疲れを堪えてよそに行くのが安全ではある。
 僕を引き止めているのは窓から漏れる明るい光だった。赤い炎の暖かそうな光。あの光のそばはとても心地が良さそうで、その引力は危機感を乗り越えて僕を引き付ける魅力があった。
「もう」
 馬が鳴いた。しまった、と思う。いずれにせよ、僕の存在を家主に知られたくなかった。判断する。逃げる方が良いか。
 馬に飛び乗ろうとする。脚が痛む。力が入らない。すがりついたまま滑り落ちる。地面にぶつかる。体中の傷が抗議の痛みを上げる。
「うう」
「お姉さん?」
 うめき声に小屋の中から声が返ってきた。喜びに跳ねるような調子。
「いえ、通りすがりの者で」
「動くな、怪しい動きをしたら仕留める」 
 答えると声の調子は鋭いものになった。足音が近づいてくる。馬にもたれたまま待つ。
 扉が開く。
「誰だ? お前は」
 逆光の中、シルエットが問いかけてくる。背の高い、女性の影だった。その右手にはぎらりと黒く輝くクナイが握られている。使い込まれたクナイ。逃げるのは難しそうだった。
 腹をくくって答える。
「ただここを通っただけです。あなたのシマだとは知りませんで」
「なんだ、お前、怪我をしているのか?」
 女性は僕を見て言った。

◆◆◆

「ちょっと来い」
 しかめ面で女性は僕の手を掴んで引き寄せた。
「僕は何も」
「いいから来い」
 有無を言わさない強い力で腕をつかみ引き寄せてくる。僕は馬の角を掴んで抵抗しようとしたけれども、痛む腕では抗いきれない。ずるずると小屋の中に引きずり込まれる。
 どすんと押し倒される。勢いに負けて後ろに倒れる。床に倒れるかと思い、痛みに備えて身を固める。思ったよりも早く、お尻が何かに触れる。柔らかな感触。目を開き、下を見ると自分が椅子に座っているのに気が付いた。気が付くと女性は僕に背を向け、棚の中を探している。
 そっと、立ち上がり逃げ出そうとする。
「動くな、座ってろ」
 背を向けたまま、女性は言う。見えているのだろか。逃げられそうにはない。僕は大人しく椅子に座りなおす。
 女性が振り向いて近づいてくる。鋭い目つきで見下ろしながら。蛇ににらまれたカエルのように動けない。
「目をつむりな」
「え」
 聞き返す間もなく、顔に液体を振りかけられる。瞼を閉じるのが間に合わない、いくらかの液体が目に入る。目に焼けるような痛みが走る。目だけではない。顔中に痛みが走る。顔中に負った傷が燃えるように痛む。
「うがっ!」
 獣じみた声が漏れる。
「情けない声を出すなよ。堪え性のない」
 女性はそう言いながら、僕の足をまさぐる。痛みを丁寧にほじくり返すような手つきで。僕の口から勝手に悲鳴が漏れる。
 痛みは全身に響きあい、重なり合い、僕の思考を染めつくしていった。

「こんなもんかな」
 女性の言葉で我に返る。痛みのために、意識を手放していたらしい。椅子に座ったままの僕の目の前に女性がしゃがみこんで僕の顔を見ていた。
 どうやら生きてはいるようだ。見知らぬ相手の領域で意識を失ったのに、不思議だ。
「生きてる?」
 呟こうとして、口が動かしづらいことに気が付いた。口元に手をやる。布の手触り。どうやら傷を覆うように包帯がまかれているようだった。

◆◆◆

「なんで?」
 痛みに顔をしかめながら僕の口から疑問がもれる。女性はふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、振り返って棚に道具を戻しはじめた。
「嫌いなんだよ、怪我してるやつがいるの」
 女性が背を向けたまま言う。イライラとした口調とは裏腹に丁寧な手付きで一つ一つの道具を棚に置いていく。その手は傷だらけでごつごつとしていて。治療が自分自身に対しても何度も行われていたことがうかがえた。あの荒っぽくて、手慣れた手つきもそれなら説明がつく。
「ご自身もよく怪我をされるんですか?」
 沈黙を埋めるように質問をする。少し間が開いてから答えが返ってくる。
「あたしゃぁ、まあ、それなりさ」
 少し不思議な言い回しだった。また少し間が開く。こほんと一つ咳払いをしてからまた口を開く。
「一緒に住んでるやつがね。まあ、いつもいつも怪我して帰ってきやがってね。ったく、いちいち手当てするこっちの身にもなってみろってんだ」
 忌々しそうな声で吐き捨てる。最後の包帯を棚にしまうと女性はこちらに向き直った。
「いつものあいつに比べりゃあ、あんたの傷はそんなに重いもんじゃない、しばらく大人しくしてたら治るだろうさ」
「ありがとう、ございます」
 女性はまた、ふんと鼻を鳴らした。暖炉の近くの椅子に腰かけた。ぎしりと音を立てて椅子がきしんだ。
 女性の陰になっていて見えなかった、棚が暖炉の明かりに照らされて見えた。整理整頓されたたくさんの医療品が並んでいる。包帯、薬、針と糸。添え木用だろうか硬そうな板もいくつか積まれている。
「あれ?」
 その棚の隅に古ぼけた救急箱があるのが見えた。どこかで見たことのある救急箱だった。大切に使い込まれてそのまま年を経たような救急箱だった。
 なんだよ、と女性がこちらを見る。
 その時コンコンとノックの音が小屋に響いた。
「あ?」
 女性が鋭い目を入り口に向ける。音もなく懐からクナイを取り出すと、そっと立ち上がった。

◆◆◆

「お姉さん?」
 女性が扉に向かって呼びかける。しばらく待つ。返事はない。もう一度ノックの音。
 女性はナイフを胸の前に構えた。
「誰だ?」
 鋭い声で問いかける。また少し間。
「オニェッサンダヨ」
 歪な嗄れた声が聞こえた。
「ヴァタジダボ、カウェツギダラョ」
 車掌さんのような祝詞。明らかに車掌さんの声ではない声。
 女性が目線だけを僕に向ける。声を潜めて問いかけてくる。
「お前の知り合いか?」
 僕は首を振った。こんな声の知り合いに心当たりはない。
「じゃあ、あいつらか」
 女性は忌々しそうに吐き捨てた。間髪入れずにドアを蹴り開いた。闇が小屋に流れ込む。女性の腕が消える。闇の中に黒い閃きが走った。気がつくと女性は残身していた。勢いのままにくるりとクナイを回して血振りをする。 ぴしゃりと黒ずんだ血が床に散った。
「ふん」
 不機嫌そうに鼻を鳴らす。
 どさりとドアの向こうに何かが倒れる音がした。
「誰だったのですか?」
「さあね、知らない誰かさ」
 痛みを堪えて立ち上がりドアに近づく。夜の闇に流れ出した小屋の明かりの中、二本の棒が転がっているのが見えた。人間の足だ。古ぼけた靴を履いた男の足。荒野を無茶苦茶にかけ抜けてきたようなズタズタの足。見たことのある足だった。
「見覚えでも?」
 女性がたずねてくる。少し考えて首を振る。知り合いというほど知っている相手でもない。
「少しだけ見たことがある人に似ていただけです」
「へえ、そうかい、そりゃ悪かったね」
「いいえ、本当にほとんど知らない人ですから」
「そうかい、まあ、どうしたもんかね」
 女性が外に向き直る。
「え」
 女性が驚きの声を上げる。女性の肩越しに僕も外を覗く。僕も声を上げそうになる。さっきまであったはずの二本の脚がなくなっていた。
 考える。
 もしも今の男がさっきの男だったとしたら、そして男が車掌さんの力の一部を得ていたとしたら。
 どさり、と屋根から何かが降ってきた。

◆◆◆

 何かは重量をもって女性に覆いかぶさった。ゆっくりと致命的な重さで地面に押しつぶしていく。夜の闇の中、闇よりもなお暗く二つの目がぎらりと光った。
 刹那に、思い出す。車掌さんのことを。車掌さんが引きずっていた袋のことを。黒い袋。人ほどの大きさの袋。
 手足のように自在に操り、敵を打倒すのに使っていたあの袋。けれども、あの袋はただの武器ではない。責務を果たすための道具でもある。鉄道の車掌は危険な業務だ。命など簡単に落としてしまう。
 あの袋の中に入っているのはその時のための身体だ。業務を続行する予備としての身体。おおかた運賃の足りない乗客から運賃代わりに取り立てたのだろう。
 もしも、あの男が車掌さんの意識と混ざり合っているならば、同じように予備の身体を用意していても不思議なことではない。予備の身体を用意するのは車掌さんの意識の本能のようなものなのだろうから。
 けれども、あの男の近くに乗客などいなかった。無賃乗車の乗客ももちろんいない。予備の身体は用意できなかったはず。ではあの襲撃者は何者だ?
 さっきの男ではないだろう。
 女性の一撃は確かな致命傷を与えたように見えた。あの一撃を受けたあとに、有効な反撃を繰り出すのは不可能だ。
 しかし、現に女性は反撃を受け、致命的な状況に追い込まれている。もがき、隙を窺ってクナイで切りつけようとするけれども、襲撃者の極めは煙のようにとらえどころがなく、抜け出すきっかけすら作れずにいる。
 助けようと立ち上がろうとする。足の痛みに座り込む。手当てを受けてマシになったとはいえ、痛みはまだ残っている。
 闇に目を凝らす。形勢はいよいよ不利で、女性の抵抗は徐々に弱いものになっていく。ちりちりと頭の奥が焦げるように痛む。殴られた傷ではない。昔のなにかが意識の奥底で燻ぶっている。立ち上がる。足が痛む。無視する。
 やりなおしたいと思う。いつかできなかったことを。何を?

◆◆◆

 余計な考えを振り捨てて、足の痛みを投げ捨てて扉へと走る。空気が粘りを帯びたように重たい。あの時と同じ。あの時は何もできなかった。どの時だ? ただ後悔の燃え殻だけが僕の胸を焦がす。
 扉が迫る。暖炉から遠のき、夜に近づく。
 気が付くと、僕は跳んでいた。空中でゆっくりとした時間が流れる。どくどくと脈打つ視界が襲撃者を捉える。闇の中に闇よりもなお暗い二つの目が見えた。獰猛な表情をした瘦せこけた男。死人のような顔色。見たことのある顔だ。以前焚火にあたっていた男。焚火に手を伸ばして死んでいた男。生きているように目が暗く輝く。今の予備はこの身体らしい。体の元の持ち主はなにか負い目でもあったのだろうか。無賃乗車のような負い目が。あの身体に入っていた煙はどうしているのだろう。今も入っているのだろうか。
 鈍化した時間の中を雑多な思考が通り抜けていく。思考の間に女性と男が間近に迫る。僕は足を振り上げた。
 どすりと鈍い音がした。男の横腹に爪先が食い込む。濡れた布団を蹴飛ばしたような重い感覚。衝撃が痛みになって全身を駆け回る。効いている感覚はない。少しでも意識を反らせれば良い。歯を食いしばり、足を引き、もう一度振り上げる。今度はわき腹の柔らかいところにつま先が刺さる。男は声の一つも上げない。男の両目が僕の方を向いた。体勢は変わらない、けれども意識がわずかに僕の方にむく。
 女性はだけその隙を見逃さない。ロックされていた右腕を跳ね上げる。抜けはしない。ただ小さな隙間ができる。その隙間で手首をひねり、クナイを掴み、僕の方に滑らせる。
 そのクナイを拾い上げる。振り上げて、振り下ろす。女性を抑え込む男の首筋めがけて。
 あっけないほどに滑らかに、クナイは男の背中に吸い込まれていく。
 静寂。
 声も上げず、男の体は力を失い、ゆっくりと崩れ落ちて行った。
「おい、悪いけどよ」
 しばらくして男の体の下から声が聞こえた。

◆◆◆

「ちょっとこいつどけるの手伝ってくんない?」
 死体の下でもぞもぞともがきながら、女性が呻くように言った。
「ああ、はい」
 気が抜けて、返した返事は間抜けなものになってしまった。男の身体に手をかける。
 力の抜けた身体は重たい。女性と息を合わせて力を込める。
 ごろり、と男の身体が転がる。見開かれたままの暗い両目が力なく天を仰ぐ。
 落ち着いて見つめる。やはり、さっきの男のように見えた。ぼっちゃんと間違えられた男。よく見ると腹部や顔に蹴られた跡が残っている。僕がつけたのよりも古い傷だ。
「知り合いか?」
 表情に出ていたのだろうか? 女性が尋ねる。僕は首を振る。
「知り合いというほど、知っているわけではないのです。ただ少しだけ行き合った、それだけです」
「へえ」
 女性は短く答えた。手足を回したり、撫でたりして具合を確かめている。ちらりと視線を僕に送ってよこす。鋭い目。
「それじゃあ、なんでこいつらはこんなとこに来たんだろうね」
「さあ」
 首を傾げて見せる。女性はそれ以上の深追いはせず、そうかい、と引き下がった。表情の読めない顔で、地面に転がる男を見つめる。つんつんと足先で男の体を突く。ふと、何かに気がついたように眉を潜める。
「こいつ、こんな顔だったか?」
 女性はまじまじと男の顔を見つめた。
「それに、あたしがつけた傷もなくなってる」
 言われて僕も気がつく。そういえばもう一つの身体、最初に襲ってきた男の身体はどこに行ったのだろう。あたりを見渡す。女性が切り倒したはずの身体はどこにも見当たらない。それほど遠くで戦闘が行われたわけではないのに。
 ちっ、と舌打ちが聞こえた。女性の漏らしたものだった。
「もう一人いやがったか?」
「そうかも、しれません」
「まあ、いいや、いったん入んな」
 女性はイライラとした表情で小屋の中を指さした。
「良いのですか?」
「仕方ねぇだろ、追い出してくたばられちゃあ夢見が悪い。それに」
 もう一度暗闇を睨みつけて続ける。
「こいつが最後とは限らない」

◆◆◆

 僕が小屋に入ると、女性は扉を閉めた。慎重に閂をかける。ため息をつくと椅子に腰を下ろした。
「まあ、座んなよ」
 空いた椅子を勧めてくる。僕は小さくお礼を言って椅子に座った。
「ありがとうございます。なにからなにまで」
「こっちこそありがとよ」
 女性は暖炉を見つめながら言う。なんのことだろう。首を傾げる。
「さっきのやつ、あんたがいなけりゃ危なかったからさ」
「いえ」
 そもそもは僕が連れてきたものかもしれない。浮かんだ言葉は続けず飲み込む。
「なんだったんだろうな、さっきの」
「さあ」
 首を振って見せる。
「知ってるって言ってなかったか?」
「ですから、顔を見たことがある、くらいですよ」
「じゃあ、それでもいいよ。どんなやつだったんだ? あいつは」
 言いながら女性は扉に目を向ける。見ているのはきっとその向こう。まだ横たわったままでいるはずの男。今はどんな色の目をしているんだろう。
「わかりません。僕が見たときには……その、意識がなかったみたいだったので」
「そうかい」
 追求はなかった。女性はそれきり興味をなくしたように黙り込み、暖炉の火を見つめる。暖かな赤い炎。あのぞっとするような黄色とは全然違う。
「火にあたっていたのです」
 だからだろうか。口を開いてしまう。言わなくていい余計なことと思いながら。女性がちらりと横目を向けてくる。
「あんたがかい?」
「いえ、最初にいたのはさっきの男でした。夜の闇の中、見えた光に寄っていくとさっきの男たちが火を焚いていたのです」
「たち?」
 女性が片眉を上げた。
「ええ、今倒れている男と、最初に来た方の男の二人が」
「やっぱり二人いたのか」
「そうですね。でも、あっちの男の方は」
 扉を指さして続ける。
「生きては、いないようだったのです」 
 ふうん、と女性が鼻を鳴らした。
「その割にはぴんぴんとしているようだったけれどもね」
「ええ、もしかしたらよく似た別の人だったのかもしれません」

◆◆◆

「ああ、じゃあきっとそうなんだろうさ」
 女性はそう言ってまた黙り込む。眉間には深い皺が寄っていて、暖炉の光の中で暗い影を落としている。
「言っとくけどよ」
 頭を掻きながら女性が口を開く。きまり悪そうに藪にらみで暖炉を睨んだまま。何がそんなに言いにくいことなのだろう。不思議に思いながら耳を傾ける。
「お前のせいじゃないからな」
 発せられた言葉はよくわからない言葉だった。首を傾げて問い返す。
「なんのことですか?」
「だからさ」
 少し苛々した調子で女性は続ける。
「さっきのあいつ、殺すことになったのは、別に、お前は全然悪くないってこと」
「別に、気にしてはいないですよ」
 本心からの言葉。けれども女性はそうとは思わなかったようだった。とうとうと言葉を続ける。
「いいんだよ。強がらなくて。知り合いだったんだろ? そんな命を自分の手で奪うことになんかなってしまって」
 女性は深いため息をついた。目をつむり、瞼をこする。立ち上がり、僕の傍らにゆっくりと歩いてくる。
「つらいよな」
 ぽんと、肩に手が置かれた。重たくて暖かな感触が肩にのしかかる。
「それがやらないといけないといけないことだったとしてもな」
 わかるよ、と語り掛ける言葉はとてもやさしい口調。言っている言葉の意味は全く分からないけれども。
「あなたも、やったことがあるんですか?」
 だから、ただわかることを聞いてみる。この女性が聞いてほしいと思っているだろうことを。見上げるようにして振り返り、女性の顔を下からのぞき込む。
 女性は目を見開いてから、逸らした。その目にちらりと見えたのは後悔の色のようだった。
「ああ、だから、わかるんだよ」
 逸らした目線の先を辿る。そこにあったのは古ぼけた救急箱だった。
 女性は棚に寄って、救急箱をそっと取り上げる。持ち上げた箱の後ろに大きな傷が見えた。深くて大きな傷。
 女性の厚くて傷だらけの手が箱の傷をいとおしむように撫でた。

◆◆◆

 例えば、と考える。
 女性がさっきからしばしば扉の外に呼びかける声のことを。「お姉さま」とそう言っていたような気がする。その声はとても嬉しそうな、弾むような声だった。ずっと待っていた相手の足音を聞いた時のような、そんな声。
 「お姉さん」は女性にとってとても大切な人なのだろうと思う。
 救急箱を撫でる女性の目はなにか大切な思い出を愛おしむような目だった。例えば
「お姉さん、と関係があるのですか? その話は」
 女性の動きが止まった。救急箱を見つめたまま動かない。
「別に、そういうわけじゃないさ」
 ぼんやりとゆっくりと女性は呟く。そのまましばらく黙りこむ。救急箱を見つめたままで、けれどもその向こう、ずっと遠くを眺めながら。 
「待ってるんですよね、お姉さんを」
「ああ」
 僕の問に短く答える。続きを待つ。女性はなにも言わない。また沈黙が訪れる。
 僕はなんとはなしに暖炉を見つめる。赤い炎がぱちぱちと音を立てる。暖かな光にまぶたが重たくなってくる。考えてみると随分長い夜を過ごした気がする。記憶は灰に埋もれて遠くなってしまった。僕の灰まみれの記憶の向こうには、女性にとっての「お姉さん」のような存在がいるのだろうか。遠くに誰か大切な存在がいたかすかな感覚だけがある。その大切がなくなったぽっかりとした喪失感も。
「お前も誰かを待っているのか?」
 女性が突然口を開いた。顔に出ていたのだろうか。
「違うか、探しているんだな。こんな夜を」
「そう、かもしれません」
 自分への追求を避けるような、僕への質問。女性の思惑はわかっていて、それでも合わせて答える。
「見つかるといいな」
「ありがとうございます」
 また、沈黙。少し待って切り出してみる。女性の問いかけの後なら、聞いてもよい気がしたから。
「お姉さんはどこに行ったのですか?」
 女性は遠い目をしたまま答えた。
「さあね。いつも通り出て行って、そのまま帰ってこなかったんだ」

◆◆◆

「それで、どうなったんですか?」
「どうにも」
 女性は重たい息を吐きながら首を降った。
「そのまま、もう帰ってこなかったよ」
「本当ですか?」
「本当さ」
 女性は動かない。ただ声だけをこちらに返してくる。酷く平坦な声。自分自身の言葉をちっとも信用していないようなやつが出す声だった。
「どこに行ったのですか? お姉さんは」
 なにも答えない女性を見て、問いをつけ加える。
「どこへ行くと言っていたのですか?」
「お姉さんは」
 少し考えて女性は言葉を続ける。
「やつらを倒しに行ったんだ」
「やつら?」
「ああ、やつらだよ。悪い奴ら。黄色い目をした悪漢たち。この世の全部の悪いの元凶。お姉さんは」
 女性は閉ざされた扉を見つめながら語る。流れるように。かつて結んだ決意を一つ一つ手探りで確かめるように。
「そういうやつを倒しに行ったんだよ。それがお姉さんのやるべきことだったから。あたしが止めることでもないし、止められることでもなかったんだよ。でも」
 女性はぎゅっと目をつむり、歯を食いしばる。過ぎ去った痛みをこらえるように。
「でも、止めればよかったんだ。そうでなくても、あたしが一緒に行くって言えば」
「なにがあったんですか?」
「わからない。何もなかった。何もない日。他の日と何も変わらないおんなじ日。ただ、お姉さんが帰ってこなかった。帰ってこなくなった。その日からずっと」
 女性に握りしめられて救急箱がぎゅっと軋んだ。
「その日からずっと待ってる。この小屋で。時々ノックの音がする。その度に胸が高鳴る。その度にがっかりする。お姉さんがだったことはないから」
「誰が来るのですか?」
 少し意外な気がして、言葉を挟む。このような小屋に誰かが来るのは随分不思議な気がした。女性は頷いて答える。
「ああ、結構いろんな奴が来たよ。お前みたいな、傷ついて疲れた奴や、ただふらりと立ち寄ったやつ。それに」
 言葉が途切れる。女性の目がギラリと光る。

◆◆◆

「それに?」
 途切れた言葉の先を促す。
「黄色い目の奴らも、来た」
「そうですか」
「ときどきだったけど、何度か」
「どうしたんですか? そういう人たちは」
 女性はふんと鼻を鳴らして首を振る。
「もちろんその度に丁寧に叩きのめしてやったよ」
 少し後ろめたそうにつけ加える。
「最初に手を出してくるのは向こうだぜ。何も言わないで、いや、何かを言っていたとしてもよくわかんないことを喚くだけだった。あたしはそれを弾き返しただけ」
「別に責めてはないですけど」
「責められるようなこととも思ってないさ。だからさ」
 女性が顔を上げる。僕の目をじっと見つめる。
「お前がさっきのやつをやっちまったことも、責められるようなことじゃないってことさ」
 話はぐるりと回って、元の場所に戻ってきたようだった。女性のまっすぐなまなざしから目をそらせない。
「別に、責められるようなことしたとは、思っていませんよ」
「それならいいんだけどさ」
「ありがとうございます」
 僕はお礼の言葉を口にした。女性はその言葉を欲しているように思えたから。
 実際、僕の言葉を聞いて、女性は気がすんだのか、ふんと鼻を一つ鳴らして椅子に戻り、腰を下ろした。それから、また黙り込み暖炉にいくつか薪を放り込んだ。火は一瞬少し暗くなったけれど、少しずつ薪の表面を舐めて、明るさを取り戻していった。
 ふと、気が付く。その暖炉を見つめるまなざしの中に何か暗い輝きが潜んでいるように見えることに。言葉にされた思いがいつでも本当だとは限らない。本当を隠すために口に出されることはあの町ではしばしばあることだった
 けれども、その疑問を切り出すのはどこかはばかられた。言いたいことを聞くのはさておき、言いたくもないことをわざわざ聞き出すのは気が進まない。それどころか、身の危険をもたらすことも珍しいことではない。だから僕は何も言わないことにした。
 こんこんと、またノックの音が聞こえた。

◆◆◆

 ノックの音は小屋の中に重く響き渡った。
 女性の方に目をやる。深く疲れきった顔が見えた。ため息をついてから、よろよろと立ち上がった。
「客の多い夜だな」
 力ない独り言をこぼして、女性はおぼつかない足取りで扉へと向かう。僕はその背に向かって声をかける。
「開けるのですか?」
「あたりまえだろう」
 やけに小さく見える背中から、意外なほどにきっぱりとした声が返ってきた。
「ここはあたしたちの小屋なんだから。来た人は迎えるさ」
「さっきのやつかもしれませんよ」
 襲撃者がさほど間をおかず、同じ手口でやってくる可能性は高くはないけれども、全くないというわけではない。少なくとも死体がなかったのは事実なのだ。警戒なしに扉を開けるのはあまりにも考えなしに思えた。
「それならまたぶちのめすまでさ」
 女性はどこからともなくクナイを取り出すと、くるりと手の内で回した。小さく鼻をふんと鳴らす。「それに」と小さく呟く。
「今度こそお姉さんかもしれない」
 その言葉は僕にというよりも、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。本当は思ってもいないことを思っていると思おうとするような、そんな言葉。
 それは何処かで聞いたことがある気がする調子だった。いつか自分自身の口から出て、自分自身の耳が聞いた声、それがちょうどこのような調子だったのを思い出す。
「本当に?」
「何がだよ」
 思わずこぼれた疑問に女性は不満げに答えた。
「本当にお姉さんだと思っているのですか?」
「……当たり前だろ」
 答えには少し間があった。一度躊躇ってから、それを打ち消すような間だった。
「本当にお姉さんが帰ってくると思っているんですか?」
「思ってるよ」
 女性は振り返り僕をじろりと睨んだ。
「なんだよ。なにを知ってるっていうんだよ」
「知りませんよ。ただ」
 躊躇って、それでも口を開く。いたましい義務感にかられながら。
「本当は帰ってくるなんて思ってないんじゃないですか?」

◆◆◆

 女性は何かを言い返そうと口を開いて、そのまま止まった。小さな沈黙。
「思ってるよ」
 少しして女性が強い口調で言い返した。僕を睨みつけている。けれどもその目線は小さく頼りなく揺れている。
「帰ってくるんだよ。お姉さんは」
 低い声で静かに続ける。
「待ってるんだから」
 声に答えるように、もう一度ノックの音がした。女性が扉を睨む。一歩進もうとして、やめる。床に目を落として口を開く。
「一度、お姉さんが帰ってきたことがある」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
「一度?」
「ああ」
「それからまたどこかへ行ったのですか?」
 沈黙。床を睨んでいる。目を見開き、荒い息をしながら。
「お姉さんじゃなかったのかもしれない」
「どういうことですか?」
 不可解な言葉、問いかける。
「お姉さんだと思った。姿はお姉さんだった」
「それならお姉さんだったのではないのですか」
「でも」
 女性は口ごもる。少しの間。
「それは何も言わなかった。少なくとも意味のあることは、それに」
「それに?」
「目が真っ黄色に輝いていたんだ。燃えるような黄色に。お姉さんの目じゃあなかったんだ」
 絞り出すような声。僕は女性の横顔を見つめながらたずねる。
「それで、どうしたんです? その人を」
「切り倒した」
 間を入れず、女性は答える。クナイをぎゅっと握っている。よく見るとところどころに赤黒い錆が浮かんでいる。染み付き、拭いきれない汚れ。
「喚きながら襲い掛かってきたんだ。まっすぐに掴みかかってきて、簡単な動きだった。他愛もなく躱して、切りつけて、そのまま動かなくなって。そう、だからあれはお姉さんじゃないよ。お姉さんのわけがないよ。お姉さんが、あんなに簡単に倒れるわけがないんだから」
 言葉は次第に激しくなり、最後は叫ぶような、悲鳴のような声になった。ノックの音。肩で息をしながら、女性は改めて扉の方を向いた。
「開けるんですか」
「ああ、今度こそお姉さんだ」

◆◆◆

「お姉さん?」
 女性が扉の外に問いかける。さっきと同じ弾むような声。疲れとあきらめが滲むのを隠す、作られた弾み声。
 ノックの音が返ってくる。
 帰ってきたのはノックの音だけ。返事はない。
 女性はクナイを取り出して体の後ろに隠した。それから、躊躇うように扉に手をかけて静止して、目をつむり、深呼吸をして、目を開く。まだ動かない。
 もう一度ノックの音。さっきよりも少し強い。
「お姉さん、なの?」
 恐る恐る、女性はもう一度声をかける。答えはない。またノックの音。
 今度は女性の声を待たずに、もう一度ノックの音。さっきよりも強い。気がつくと音は段々大きくなってきていた。
「お姉さん?」
 女性がさらに、もう一度問いかける。今度の声には戸惑いが大きく含まれれていた。
 ノックの音はもはや荒々しいと言えるほどに大きくなっている。女性が顔を引き締める。とたんに警戒の気配を身にまといクナイを構える。
「お姉さん、じゃない!」
 女性が叫ぶ。
 ノックの音は女性の声をかき消すように小屋の中に響き渡っていた。音はどんどん大きくなる。この音は一つの手が、拳が叩いて出る音ではない。たくさんの手が、自分の拳が痛むのを気にせず、一心に扉を殴りつけている、そんな音だった。叩いているのは扉だけではない。四方の壁から、天井から無数の手が殴りつけてくるような音が聞こえてくる。小屋がノックの音で埋め尽くされる。
 どん、とひと際大きな音が響いた。
 扉が外からの力で打ち破られた。夜が流れ込む。
 一瞬の静寂。
「ラダウィヴァ」
 不可思議な調子の声が聞こえた。罅割れた祝詞のような調子の声。
 女性の手に握られたクナイが見えない速さで閃く。
「え」
 女性の口から声が漏れる。見るとクナイは中途半端な位置で止まっていた。のぞき込み、扉の外を見る。
 そこには一人の女の人が立っていた。すらりと背の高い女の人。
「お姉さん」
 女性がぽつりと小さくつぶやいた。

◆◆◆

「お姉さん!」
 今度は叫ぶように女性は言った。扉の外に立つ来訪者、お姉さんはなにも言わない。ぼんやりと真っ暗な目で、微笑みを浮かべて小屋の中を眺めている。
「ラダウィヴァ」
 突然にお姉さんが呟く。ぞっとするような、それでいてどこか祝詞を思い出すような声。どんな意味なのだろう。意味があるようには聞こえないけれど。
 女性はじっとお姉さんを見つめたまま、固まったように動かない。
「おかえり」
 一言、女性の口から言葉が漏れる。状況にまったくそぐわない、とても優しい声。
「ラダウィヴァ」
 お姉さんが祝詞を繰り返す。虚ろなその顔に微笑みが浮かんでいるように見えた。
 女性が一歩足を踏み出す。いつの間にかクナイをしまい、空になった手のひらをお姉さんに伸ばす。
「ねえ、一つ聞きたいのですけれども」
 女性が扉を超える前に、僕は口を挟んだ。ぴたりと女性は動きを止める。
「なんだよ」
 不機嫌な声が返ってくる。感動の再開に水を差すのは気が引けるけれど、どうしても気になることがあった。
「今までに来たお客さんに黄色い目をした方はいたんですよね」
「ああ」
 女性は扉の外から目を離さずに答える。お姉さんは黙ったまま。僕の言葉には反応も示さない。
「それを切り倒した、と言っていましたけれども」
 僕も女性と扉の外から意識を外さないようにしながら、言葉を続ける。少しでも隙を見せれば、たちまち均衡は失われる。緊張感がみしみしと全身に降り注いでいる。言葉を間違えても、言葉が足りなくても致命的な結末を迎えるだろう。慎重に、口を開く。
「その人たちを、その後どうしたのですか?」
「そんなことか」
 女性は鼻を鳴らして答える。
「裏庭に穴を掘って埋めたよ。もう出てこれないように深く」
「そうですか」
 言葉を聞いて、じっとお姉さんの手を見る。だらりと体の脇に下げられた両手。
 その指先の爪が剥がれ、土と血に汚れている。
 地の底から這い出てきたように。

◆◆◆

「それ、その指先の汚れは?」
 僕はお姉さんの指先を指さした。
 指先を見た女性の両眼が見開かれる。目をつむり頭を振る。
「お姉さん、なんでしょう?」
 懇願するような呼びかけ。お姉さんは何も答えない。ただ空虚な顔に笑顔のような表情を浮かべて、立ち尽くしている。
 車掌さんの業務のための習性、予備の身体を作る習性、その際に利用される原料には運賃の持ち合わせが足りない乗客が使われていた。しかし、それらが容易に手に入るのは電車の中だけの話だ。もしも電車の外で予備が必要になったらどうだろう。車掌さんの業務を考えれば、そのような事態は考えづらいかもしれない。しかし、理屈の上で考えれば、何かしらの手段で身体を用意しさえすれば、電車の外でも予備を作ることは可能なはずだ。車掌さんでない者が予備を作るのであれば、無賃乗車の乗客にこだわる必要はない。
 そして、ここに車掌さんの習性を持つ存在がいて、予備の身体の材料も豊富にある。そこまで気が付けば何が起きているのか想像するのは難しくない。
 今、戸口に立つお姉さんの正体もわかった気がした。
「違いますよ。多分」
 沈黙。女性は目を見開く。お姉さんをじっと見る。目を逸らす。ふん、と弱々しく鼻を鳴らす。
「そうか」
「ラダウィヴァ」
 歪んだ祝詞。結局意味はわからない。虚ろな笑み。どこか悲しそうにも見える。きっと見えるだけ。女性が目をつむり頭を振る。
「おかえり。でも」
 ため息。目を上げてまたお姉さんを見る。言葉を続ける。
「違うんだね」 
 ぎらりとクナイが輝く。いつの間にか女性の手に握られている。
「でぃばぎゃだゃい」
 祝詞。
 続いて、ばん、と天井を叩く音。ノックの音だと気がつく。気がついた時には音は連続する音になる。天井から、壁から、扉から、荒々しい音が降り注ぎ、小屋の中を満たす。
 轟音の中、女性が忌々しそうに顔を顰める。お姉さんの肩越しに、痩せた男がにやりと笑った。

◆◆◆

「お前」
 と声を出すより早く、轟音が小屋をたたき割った。天井に、壁に、窓に、裂け目ができて、夜の闇が漏れ入ってくる。夜闇より深い数多の目が割れ目から覗く。その目と同じ数の青白い手が割れ目を押し広げ、叩き広げ、小屋の中に入り込もうとする。
「なんなんだ、貴様らは!」
 女性が叫ぶ。手近な裂け目から延びる手を切りつける。切り付けられた手は一瞬ひるんだだけで、すぐにまた手を伸ばしてくる。
「お姉さん!」
 気が付くと戸口からお姉さんはいなくなっていた。あの痩せた男も。虚ろな顔の人型がわらわらと群れている。
「お姉さんはどこだ!」
「だめです」
 女性は小屋の外に出ようとする。僕は立ち上がり、肩を掴んで止める。いかに女性が腕に覚えがあろうとも、この数を相手にするのは分が悪い。ましてや先ほどの戦闘でそれなりに消耗もしているはず。恩人をみすみす見殺しにするのは心地が良くない。とくに次に犠牲になるのが自分の可能性が高い時には。
「でもお姉さんが!」
 女性は僕を振りほどこうともがく。僕の体中の傷が勢いで痛みだす。
「あれはお姉さんじゃないでしょう?」
「お姉さんかもしれないだろう」
 駄々を捏ねるような悲鳴。ふっふ、と鼻を鳴らしながら首を振る。
「待っているんだから。待っていたんだから」
「待ッテイるヤツモウコなイ」
 歪んだ祝詞が聞こえた。小屋を揺らす大音量の中、割れ直した禍々しい声は、奇妙に意味の通った言葉に聞こえた。驚き、声の方向を見る。暗い目の群れの奥、痩せた男が見えた気がした。
「そんなことはない! 私がここで待っている限り、いつかお姉さんは帰ってくるんだもの!」
 女性が叫び返す。僕にだけ聞こえているわけではないらしい。
「ソウやッテまッテイテ結局俺のおレ達ノとこロニハ帰ッテコなかっタおまエモオなじだオナじにシテヤる」
 怨みの声。ミシミシと小屋中が嫌な音を立てる。女性が身構える。
 天地の割れるような音が響いた。

◆◆◆

 バリバリと音を立てて、小屋が裂けていく。暖炉の光の暖かさに、夜が急速に入り込む。瓦礫は落ちてこない。不思議に思って見上げる。貪欲な腕たちは掴んだ小屋の欠片を離さない。掴んだままに次の部分をもぎ取ろうとする。
 それでも数え切れないほどの腕たちは止むことなく恐ろしい速さで小屋を引き裂き続ける。どんどん小屋が分解されて消え去っていく。
「やめろ! やめろ!」
 女性が叫ぶ。僕の手を振り払う。クナイを振りかざしてあたりの腕を斬りつける。僕も女性の背後にできる空白に潜り込み、座っていた椅子を振り回して亡者たちを牽制する。
「ここがなくなってしまったら、ここがなくなってしまったら」
 鳴き声のような悲鳴で繰り返す。斬撃は目にも止まらぬ速さで、一太刀ごとにバラバラと床に転がる。
「お姉さんが帰ってこれないじゃないか!」
 腕たちは他の腕が斬り付けられても気にすることなく小屋を分解し続ける。その勢いは止まらない。もう壁も天井もほとんどなくなってしまった。腕たちの群れが調度類に手を伸ばす。たちまちに椅子が、机が連結と意味を失い木っ端になっていく。
「それは駄目!」
 ひときわ大きな声で女性が叫んだ。見ると一塊の腕たちが壁際に立てられていた棚に群がっていた。女性は亡者たちを斬り伏せながら棚の方に駆け寄る。
 けれども暗い目の腕たちは獰猛な速さで思い思いに棚を掴み取り木材に分解していく。棚の中にあった物たちも、千切られ、引き裂かれ、無意味に還元される。
「あ」
 女性が声を上げる。一対の腕が革の箱を掴んでいる。大きな傷。救急箱だ。
「なにしよんなら!」
 裂帛の気合。クナイの一閃。箱を掴んでいた手が床に転がる。箱とともに。空の手たちが箱に殺到する。思わず僕も手を伸ばしていた。
 指先に皮の感触。掴み、丸くなって腹の中に抱え込む。怒りに満ちた気配。群がっていた腕たちが僕の背中を殴打する。略奪品を横取りするなと叫ぶように。

◆◆◆

 背中を、髪を腕を、掴まれてつままれて引っ張られる。肉が引き裂かれそうになる。うずくまり腹の下に救急箱を抱き込んで離さない。離しちゃいけない。そう思う。なぜ? それはこの痛みと釣り合うだろうか?
 離そうと思う。投げ出してしまおうと。でも胸の中の燻ぶりがどうしても箱を引き付けて離させてくれない。痛い。痛い。でも同じくらいに胸の中が熱い。失われた空っぽ。箱を離さなければ埋められるのだろうか。胸の中の熾火がちろちろと燃える。熱い。
 熱いのが胸の中だけでないことに気がつく。少しだけ顔を上げる。視界が赤い。燃えている。小屋の中が赤く燃えている。あの赤い炎は暖炉の火。暖炉の火が燃え広がったのだ。
「ああ、ああ」
 女性が呆然とその光景を眺めている。もう抵抗を諦めたように座り込んでいる。その手にはクナイが握られているけれども、戦う気力はもう見えない。
「この小屋がなければ、この小屋がなければ」
 小さく、つぶやく声が聞こえる。
「お姉さんが帰ってこれないではないか」
 誰も女性の言葉なんて聞きはしない。
 死者たちは自分が燃えているのを気にせずに略奪を続けている。お姉さんも痩せた男も死者たちの群れのどこかに紛れて消えてしまった。赤い明りの中に無個性の略奪者たちが照らし出される。手当たり次第に手の届くものをもぎ取り、奪って行く。
 その腕の中の一本に目が惹きつけられた。その腕の手首には赤い布が巻き付けられていた。燃える炎よりももっと赤い布。あの布には見覚えがある。
あの布は
「13」
 ただ数字がぼんやりと頭に浮かんだ。灰に埋もれた頭の中、赤く揺れる数字。その腕の主は若い男。生前は馬賊だったような面構え。
「こんもね」
 知らぬ間に口から言葉が漏れ出ていた。祝詞よりもわからない言葉。
 男の目が見開かれる。他と同じ真っ暗な目。けれどもその奥に仄かに赤が見えた。燃える炎の赤。
「こんもね」
 男の虚ろな口が開いた。
 
◆◆◆

 気がつくと僕は観客席にいた。目の前には大きな舞台。たくさんの黒い灯体とミラーボールがぶら下がったトラスの骨組み。反らした背骨のようにそびえ立つ巨大なスピーカー。地平線を覆い尽くすような巨大なホリゾント幕。
 そこには誰もいない。灯り一つついていない。ただ灰色にくすんだ光の中、設備は静かに何かを待ち続けている。
 振り返る。観客席。
 こちらも誰もいない。視界の果てまで空の座席が並んでいる。
「こんもね」
 静寂の中に声が聞こえた。疲れ切って嗄れ、それでもよく通るたくましい声だった。
 声の方に向き直る。
 客席の最前列、中央に寄った辺りのに一人の男が立っていた。若い男。手首に赤い布飾りを巻いているのが見えた。燃える炎のような赤。
 その意味を僕は思い出せなくなってしまったけれども、胸に強い憧れが湧いて来る。そして男と話していることを誇らしく思う。
「やめろよ」
 僕の目線を受けて、若い男は地面に目を落とした。
「俺はもう憧れられるような存在じゃない」
 忌々しそうな声。
「ここにいるの俺ってのはな、ただの擦り切れて押しつぶされた残滓なんだよ」
「そんな」
「あの子を応援してた俺は、あの時のきらきらはもうとっくに失くしてしまったんだ」
 声に滲んでいるのは、後悔と郷愁。
「でも、お前もそうなんだろ?」
 突然投げかけられた質問に、戸惑う。
「じゃなきゃ、こんなところに来やしないさ。お前もあの子を失ってしまったんだろう?」
「あの子?」
「ああ、そうかい」
 男の目が少し大きく開く。憐憫の優しい光が宿る。
「それも、忘れてしまったんだね」
 男は立ち上がる。框に手を置いて舞台装置を見上げる。
 舞台の上には相変わらず誰もいない。垂れ幕も空白で、誰がここに来るのかわからない。誰か来るのだろうか。こんながらんどうのステージに。
「おいで」
 男が手招きをする。全席指定となっています席のご移動はご遠慮ください。聞き知らぬ声が頭に響く。

◆◆◆

「いいよ。どうせまだ始まらないさ」
 男が言う。静かな声は無人の会場に反響せずに染み込むように消えていく。
 僕はおずおずと立ち上がり、男の隣に立つ。
「ここが誰のステージかわかるかい」
 わからない。首を横に振る。そうか、と男は呟いて、すっと目を細める。遠い目。後悔、憐憫、憧景の混ざりあった表情。
「でも、君はまだ大丈夫さ」
 男の目が僕の目をじっと見る。僕の目はどんな色をしているのだろう。
「まだ失くしたことを覚えている。探し続ける意思がある。せめてそれだけでも持っていればいい。そうすれば」
 男はそう言うと、どかり、と椅子に腰かける。立ったままの僕を見上げて言葉を続ける。
「そうすれば見つからないともわからない」
 その声にはむしろ男自身の願望が込められているような気がした。
「あなたは見つからなかったのですか?」
 だから、僕は問い返す。男はどんよりとした目で頷く。
「ああ、失くして、それっきり。いつの間にか失くしたことも忘れて、ただ何かが足りないと思い続けて、気がつけばあんな有様さ」
 ため息。男は舞台袖に視線を送る。誰かの登場を待つように。
「あの子はね。いつだってそこにいる。でも、それは突然どこかに行ってしまってもおかしくないってことなんだよ」
 空白。
 もうとっくに開演時間を過ぎて、それなのに暗転もしなければオープニングのあの曲も流れないような。けれども立ち去りがたくて客席に座り続けるような。そんな空白を見つめながら男は言葉を吐き出す。
「一緒に探していた奴らもみんなどっかに行っちまった。一人一人、いつのまにか」
 乾ききった手が手首に巻かれた赤い布飾りを撫でる。それをゆっくりと腕から外した。それからぎゅっと手の平の中に握りしめる。
 しばらくそうしてから、その拳を僕に差し出した。
「これ、やる」
「え?」
 開いた手の平の上には燃えるような赤。酷く汚れにまみれて、それでも輝きを失わない鮮やかな赤。

◆◆◆

 男の手の中、赤い布飾りを見つめる。その本当の意味は忘れてしまって、それでもやけに心惹かれる赤色。思わず手を伸ばしそうになる。手は中空で止まる。その布を手にする資格が自分にあるとは思えなかった。
 僕は男の顔を見て、首を振る。
「だめですよ。それは僕のものじゃない」
「ああ、だから俺がお前にやるのさ」
 男は出した手を引っ込めない。
「俺はもうこれを持っていても仕方がなくなってしまった。行き詰まりのどんづまり、これを持っていてもなんの意味もなくなってしまって」
 ため息。男の視線が赤い布に落ちる。懐かしみと惜しさのにじむ眼差し。
「だからお前にやるよ」
「でも」
「お前にやる」
 男は立ち上がり、僕の胸に拳を押し当てる。布飾りの垂れ下がる拳を。
「それで、それでもやっぱり意味なんてないかもしれない。お前も擦り切れてしまって俺と同じになるかもしれない。でも、もしかしたらよ、あの子にまた逢えるかもしれないだろ。お前は」
 ふと影がさした。振り返るとゆっくりと灯体を吊ったバトンが降りてきているのが見えた。
「お前はまだどこにだって行ける。忘れなければ、あの子に会える。その時にこいつを、こいつを見ればあの子はきっと喜んでくれる。あの子の最初の日がまだ今日に続いているのをきっとわかってくれる。なあ、だから頼むよ」
 ぎゅっと手を握られる。男が縋るように僕の手を掴む。ゴワゴワとした布の感触を手の甲に感じる。
「こいつを持って行っておくれ」
 懇願するような声。音もなく客席が畳まれていく。ホリゾント幕も、スピーカーも分解されて小さくなっていく。
 僕は空いている方の手で布飾りの端を摑んだ。
「ありがとう」
 男が微笑む。
「でも、気にするんじゃない。お前はお前の行く所に行くんだ。いつか会えたらそれだけでいい」
「わかりました。確かに預かりました」
 僕も頷く。
 ステージは分解され、がらんとしていた会場はさらなる虚無にかえっていく。

◆◆◆

 背中がじくじくと痛む。燃えるように、引き裂かれれるように、少しずつ千切られるように。目を開ける。
 静寂のステージは消え去り、僕は狂乱の中にいた。時間など経っていないかのように略奪は続いていた。もう小屋はほとんど残っていない。夜の闇の中に略奪者たちが蠢いている。
 死者たちに顔はない。もう区別はつかない。最初の痩せた男も、お姉さんも、さっきの若い男も、みんな群れの中に混ざってしまっている。無数の目が黒く輝いて少しでも価値の有りそうなものを奪おうと貪欲に探しまわっている。
 瓦礫の中を見回す。女性の姿を探す。小屋の隅で小さくうずくまっている。手にクナイを握っているがもう抵抗する意思は見られない。ただ呆然と略奪を眺めている。
 腕の中に箱があることに気がつく。向こうに行っている間も離さずにいられたらしい。
 僕は音を立てないように這いながら、女性の方へ向かう。
 僕が隣に行っても女性は微動だにしない。小さな声で話しかける。
「ねえ、逃げましょう」
 目だけがぎろりと動く。それからゆっくりと首が横に動く。
「だめだよ」
「もうここには何もありません。このままではあなたも」
「ここに何もないなら、あたしもなんでもないさ」
「そんなことは」
「あるんだよ」
 強い口調で女性が言う。慌ててあたりを見渡す。さいわい略奪者たちの注意を引きはしなかったようだ。しっ、と唇の前に指を立てる。
 囁き声で語りかける。
「でも、あなたはいるじゃないですか」
「こんなとこじゃお姉さんが帰ってこれない」
「それは、だから……」
 断絶の言葉。僕は話を続けようとする。霞の向こう、朧げなステージと客席を思い出しながら。
「だから、なら、探しに行くのですよ。ここにいないならどこかにいるのですから」
「本当にそう思うのか?」
 女性が暗く問いかける。僕は頷く。自信のあるふりをして。
「ええ、だってこれはあるのですから」
 そう言って手の中の箱を差出した。

◆◆◆

「そんなもの、放り投げてくれば良かったのに」
 驚いた顔で女性は言う。
「大切なものなんでしょう」
「だからだよ」
 言葉とは裏腹に女性の目は箱に釘付けになって動かない。僕は箱を女性の手に押し付ける。
「この小屋がなくてもこれがあればお姉さんも気がつくはずです。そうでしょう?」
「そうかな」
「そうですよ」
 揺れる目を見つめて言い切る。なんの根拠もない。それでも自信のあるふりをする。
「いつかお姉さんに出会ったら、それで手当てをしてあげればよいのです。そうすればきっとあなたを思い出すはずですよ」
「ああ」
 女性は恐る恐る箱を手に取った。クナイを地面に置き、側面の傷を撫でる。
「いこう」
 女性は屈んだ姿勢に立ち上がった。その顔にさっきまでの怯えた感情は見えない。辺りをうかがう。
 ばきりと音がする。振り返る。扉の残骸が砕かれた音だった。亡者たちは音の方に群がっていく。
「今だ」
 僕と女性は頷きあって動き出す。略奪の速度より遅く、けれども確実に少しずつ。かつて壁があったあたりまで。もう何もない。欠片の一つも残さず奪い去られている。僅かな境界が残るだけの一角にもう一人も興味を示さない。
 息を詰めて夜の闇の中に身を隠す。女性が小声でたずねる。
「あいつら、夜目は効くのかな」
「どうでしょう」
 わからない。あの暗い目が光を必要とするのかどうかさえわからない。昼間と変わらず見えても不思議ではない。闇の中の方がよく見えたとしても。
「あちらに行こう」
 女性が生い茂った木立を指さした。逃げるには良さそうではあった。黙って頷く。音を立てないように這い進む。
 女性が少しだけ後ろを振り向いた。
「もう、あの小屋には戻れないんだな」
「ええ、きっとしばらくは」
「いや、もう戻らないさ」
 女性はそう言って小屋に背を向けた。箱をお腹のところに抱える。
 がさり、と音がした。
「ヴぃてぎまぐぉあ」
 罅割れた声。暗い目が僕たちを見下ろしている。

◆◆◆

 痩せた男が僕らを睨みつける。怒りに暗い目が輝く。
「ヴィガツェヴァギナギ」
 再び男の声はひび割れてしわがれて、意味を失ってしまっている。なんと言っているのかはわからない。ただ、怒りの感情が向けられているのだけがわかる。
 女性はその言葉を正面から受け止める。僕が止める間もなく立ち上がる。その手にはもうクナイはない。さっき置いて来てしまったから。
「お前は何がしたいんだい?」
 女性は男をしっかりと見つめながらたずねた。男は驚いたように動きを止めた。男の目に戸惑いが浮かぶ。女性を見つめる。
「ごばぎぇたぴがだききりえるおおくぱう」
「なにを言ってるのかわからないよ」
 女性は首を振る。男が口を閉ざし、沈黙する。この男が聞く耳を持っていたことに驚く。男は余計な考えを振り払うように首を強く振った。
「ぐわんげなぎごばぎぇたぴおるやにくつおおおげがばくしゅらぼぼげたばじいぐばつれげらじてがる」
 ぞわりと木立の影が動く。人型に形を作る。
「知らねえよ」
 ぶっきらぼうに女性は言い返す。
「てめえの怒りにこっちを巻き込むんじゃねえよ」
 男が首を傾げる。向こうには言葉は通じている。その上で不可解な言葉にに困惑しているように見えた。
「てめえがむかつくなら、むかついた相手を殴れよ。それはあたしたちじゃねえだろうが」
「そびじゅかぼれろふぉげびしががるがだぞびじゅだぎなきひでらく」
 男が僕を指さす。言葉はわからない。けれども、女性は続ける。
「別にこいつがむかついたんじゃないんだろ? いや、こいつにもむかついたのかもしれないけど、それは本当にお前が怒ってることじゃないんだろう? 違うかい?」
 臆せず、女性は問い続ける。クナイはもうない。ぎりぎりと言葉で切りつけるように言葉を投げつけ続ける。男はその言葉を一つずつ受け止める。クナイで切りつけたときよりもずっと大きな衝撃を受けているようだった。体の外より内面に響くように。

◆◆◆

「ばざごうぐるるじいいぇんなごばぎぇばごがにぢもぱちげげらぢげらるごふじゅりゃやろげほぶらぐぎろじゅどいらられうほぎゃれがびおがりじたれやじょごとささぎ」
 激しい口調で男は叫ぶ。女性はそれを聞いてため息をつき、首を振る。
「どいてくれ」
 一歩前に進む。顔を上げ、怯えることも、追い払おうともしようとしない。もう、男などなんの障害でもないように、視線を送りさえしない。
「あんたがあの小屋を壊したいなら、勝手に壊せばいい、もうあたしには必要ないんだ。あたしの探しものはあたしがいれば見つけられるんだから」
「ごぷとぎふぉうろろけにつもた?」
 男が顔を上げる。反撃の糸口を見つけたように、にやりと意地悪そうに笑う。男の背後から人影が現れる。すらりとした女の人。観たことのある顔。さっき小屋にやってきた女の人。お姉さん。
 隣に立つ女性の顔を見上げる。少し驚く。その顔は平坦でなんの動揺も見られなかった。
「悪いけどお前の人形遊びにつきあってる暇はないんだ」
 女性は冷たく言い捨てて歩き出す。男の方に向かってまっすぐに。僕もその後ろについていく。
 そのまま男たちの前を通り過ぎる。
 男とお姉さんは僕らを睨みつけて、動かない。
「それじゃ」
 女性は冷めた目を男たちに向けて、短く別れの言葉を口にした。
「がれ」
 男が通り過ぎる女性の肩を掴んだ。
「なんだよ」
「ふぉてよろぎいぇへ」
 女性の手の中の箱を指さす。意味は分からないけれど意図は明白だ。女性はため息をつく。
「いやって言ったら?」
 男は今度は答えない。ただ突然木立の影からがさりと音がした。影から危険な殺気が発せられるのを感じる。女性が横目で木立を見る。手の中の箱に目を落とし、最後に僕を見る。ため息。
「いいよ、やる」
 なんの感慨もなく、放り投げるように女性は救急箱を男に放り投げた。
「え」
 男が驚きの声を上げた
「あたしにゃもういらないもんだ」
 女性は軽くそう言った。

◆◆◆

「え」
 男は間抜けな声を出した。手の中に飛び込んできた箱を所在無げに見つめる。
「ほしいんだろ、やるよ」
「みざ」
 曖昧な相槌。振り上げた拳の降ろしどころをなくした様子。居心地悪そうに箱を捻り回す。
「それで満足したらよ、もう悪いことはすんなよ」
 女性はそう言って再び歩き出す。男たちは追ってこない。追ってくる理由をなくしてしまったから。
「あ」
 男の声が聞こえた。僕はちらりと声の方を見た。略奪の火に照らされて男の暗い目が手の中の箱と女性の背中を交互に見つめているのが見えた。
「こむさ……ごむざ」
 小さく揺れる言葉を呟く。女性は気にせず足を進める。
「おじょうさん」
 叫び声が聞こえた。澄んだ声。懇願する声。
「知り合いですか?」
 追いかけて問いかける。女性は首を振る。
「さあね、何を言っているのかわからないよ」
「ごおぬばん」
 男の声がなおも聞こえる。声は再び濁って意味を失ってしまっていた。悲痛な叫びが僕たちの背に投げられる。投げられ続ける。けれども女性はもう振り向かない。ただまっすぐに進んでいく。
「いいんですか?」
「何がだ?」
 女性は前を見たまま答える。
「なにか知っているような様子でしたけど」
「もうなにも言えないさ、あいつは。何を言っているのかもわからないのだもの」
「そうですね」
 かすかに女性の瞳が揺れる。後ろを振り向こうとするように。けれども搖れたのは瞳だけ。顔は前を向いたまま、足を止めることもなく、暗闇の中を歩いていく。
 僕は黙って女性の後ろをついていく。
「お前はどうするんだ?」
 女性が背を向けたまま問いかけてきた。言葉に詰まる。
「僕も行きます。探しに」
「そうか」
 短い返事。少し間があく。
「誰を探すんだ?」
「わかりません」
「そうか」
 女性が頷く。
 しばらく黙って並んで歩く。
「ああ、そうだ」
 突然、思い出したように女性が立ち止まった。
「これ返しておくよ」
 差し出されたのは赤い布飾りだった。

◆◆◆

「さっきの箱にくっついていたぜ」
「ありがとう、ございます」
 礼を言って布を受け取る。血と埃のゴワゴワとした手触り。受け取ったのは夢だとばかり思っていた。
「それは渡さないでおいたよ」
「なくしたと思っていました」
 手の中で布を撫でる。空の客席、ステージ。若い男。託されたもの。
「大切なものなんだろ」
「ええ、救急箱みたいなものです」
「そうか」
 目を細めて女性が布飾りを見つめる。遠くの火に揺らめく顔はとても羨ましそうな表情に見えた。探しもののよすがをなくした悲しさ。手の上の赤を見る。寄る辺なき夜に灯る赤。
 たずねてみる。
「着けてみますか?」
「は?」
 あっけにとられた声が返ってくる。
「もし気になるのなら」
「別に、そういうわけじゃない」
 言いながらも、女性は赤い布から目を離さない。結び付けられたようにじっと見つめている。ごくりとつばを呑む音が聞こえた。
「どうぞ」
 もう一度声をかける。女性の手が伸びる。止まる。
「いや、あたしには似合わねえよ」
「いいじゃないですか。別に誰が見るというわけでもないんです」
 布を差し出す。おずおずと女性が布に手をかける。躊躇いがちに握りしめ、両手でそっと広げる。暗闇に赤が広がる。揺らめく炎、暖炉の火のように。
「どうするんだよ、これ」
「どうにでも」
「どうにでもって言ったって」
 女性の眉間に皺が寄っている。少し考えてつけ加える。
「前に持っていた人は腕に巻いていましたよ」
「腕かあ」
 女性は布を軽く腕に巻いて首を傾げる。
「あとは……」
 記憶を探る。燃え尽きた記憶を。赤い布。揺れる赤。炎のように揺れる。ちかちかと記憶が揺れる。赤が揺れる。誰かの頭の上で。
「頭に飾ったりだとか」
 リボンかそれともカチューシャか。曖昧な形。
「ああ、そう言えばお姉さんもそんなのをしていたっけ」
 思い出しながら手探りで女性は髪に布を巻いて結ぶ。
「どうかな」
 女性の頭の上で燃える赤がふわりと揺れた。

◆◆◆

 揺れる布の炎が、ちかちかと記憶に火を点ける。灰の中の記憶。埋もれたキラキラが光を放つ。温かなそれを手に取る。そうだ。
「赤い髪飾りの女の子」
「どうした?」
 女性が怪訝そうな目を向ける。その頭で揺れる髪飾りから目を離せない。記憶は灰の中を漂い続ける。きらきらは少しづつ強くなる。
「モネ」
 口から言葉が漏れる。わからない言葉。不思議と落ち着く懐かしい言葉。ああ、そうだ。こんなところにいたんだ。
「誰だい? それは」
 女性は不思議そうにたずねる。なぜ不思議そうなんだろう? 自分の名を呼ばれたはずなのに。
「モネなんでしょう。あなたは」
「違うよ」
 きっぱりとした言葉。でもそんなはずはない。あの娘は確かにこの髪飾りをしていたはずなんだから。その記憶は確かで、それなら髪飾りをしているこの娘はあの娘で間違いないはずだ。 
「意地悪をしないでよ。ずっと探していたんだよ」
「違うよ。そんな子は知らない」
 女性は僕の目線をしっかり受け止めて答える。
「僕は」
 それでも引くわけにはいかない。せっかく見つけたんだ。ずっと追いかけてきて、ここまで。もう離したくはない。だから口を開く。言葉を紡ぐ。紡ぎ続ける。
「君がいないと駄目なんだよ。なにもできない。できるとも思わない。でも、君がいれば、君がいてくれるためだったら、何だってできるんだ。何だってしてきたよ。傷ついても痛くても君の為なら平気だった」
 言葉はとめどなく流れ出る。
「ねえ、だから、嘘はやめてくれよ。ずっと追いかけて、こんなところまで来たんだ。やっと追いつけた、もうなくさない」
 女性は黙って僕の言葉を聞いている。僕の目をしっかりと覗き込みながら。
 ため息。女性の口から深い深いため息が漏れる。
「良いのかい? 本当にあたしで」
 はっきりとした口調で女性がたずねる。
 僕は頷く。
「当たり前じゃないですか。君は君なんだから」 
 女性が微笑んで頷く。 汽笛が耳を劈いた。

◆◆◆

 眩いヘッドライトに目が眩む。光の中に赤いリボンが照らされる。
 身体が動いていた。酷く緩慢な時間の流れ。女性を突き飛ばす。赤い布が、女性の体が闇に消える。光が大きくなる。闇を切り裂いて。輝く眼光。大きな汽笛。耳が痛い。耳を塞ぐよりも速く、光は眼前に迫る。
 世界の割れるような音がした。
 それから、静寂がやって来た。耳の痛くなるような静寂だった。鼓膜が破れたのかと思う。
 ドクドクと自分の鼓動が聞こえる。
 尻もちをついた尻に、地面の手触りを感じる。全身の筋肉が強張っている。強張る筋肉は粉々にならずにまだ体を構成している。挽肉にはなっていない。
 息を吐く。息を吐ける。まだ生きている。
 ゆっくりと立ち上がる。膝が指が細かく震えている。
「きぇんのぉしらっつぇるいんごぅおずすんしたあめかんねむかうしんぉごこなっつぇます」
 静寂の中に祝詞が聞こえた。罅割れていない平坦な声。音もなく光の中に小柄な影が現れる。
「電車の前にいるのは危険ですよ」
 静かな声だった。ヘッドライトの逆光の中で暗い目がゆらりと輝いた。
「車掌さん?」
 震える肺が声を絞り出す。
 ようやく目が慣れてくる。制服のシルエットには見覚えがあった。その後ろにずるずると引き摺られているたくさんの袋にも。
「ああ、お客さんですか」
「どうしてここに?」
「乗りますか?」
「乗れるのですか?」
 暗い目がじっと僕の目をのぞき込む。
「乗りたいのであれば。あなたも」
 ぐるりと車掌さんは振り向いた。ヘッドライトの光の外、暗闇の方へ。目を凝らす。女性がしゃがみこんでいる。
「あたしは……」
 女性は戸惑い口ごもる。頭にはまだ赤い布が揺れているのが見えた。
「どこに行くのかはわかりませんけれど、きっとどこかには着きますよ」
「お姉さんのところにでも?」
「僕はいろんな人に会いました。この電車に乗っていれば、いつかお姉さんにも会えるかもしれませんよ」
 僕は手を差し出した。

◆◆◆

 がたんごとん。
 電車の揺れに目を開く。窓の外を素早く暗闇が通り過ぎていく。疲れた体を草臥れた座席にもたれかけさせる。へたり切った布地が柔らかく体を受け止める。
 目線を座席の正面に向ける。
 同じように女性が座席にかろうじて引っかかるようにもたれかかって目を瞑っている。その頭の上で揺れる燃える赤の髪飾り。
 僕の視線を感じたのか、女性は物憂げに目を開いた。 
「なんだよ」
「いえ、なんでもありません」
 気恥ずかしくなって目を逸らす。深いため息が聞こえる。
「あー、その」
 もごもごと女性は口を開いた。所在無げに片手で髪飾りをいじっている。
「どんな娘だったんだよ、この髪飾りしてたのは」
 今晩何度も聞かれた質問。でも女性の口から発せられるのは奇妙なことのように思えた。
「モネって名前なんだっけ? どんな娘だったんだよ」
 モネ、という響きに記憶が薄く疼きはじめる。
「モネは、モネですよ」
「だから、それがどんな娘だったんだよってきいてんの」
 ふん、と鼻を鳴らして女性が尋ねる。薄い記憶の向こうはまだはっきりとは見えない。けれども探り出した言葉を少しずつ繋いでいく。
「どんなってのは意味がないんです。結局のところ、モネらしいことってのはモネのすることがモネらしいことなんですから」
「へえ」
「だから、君は君のすることをすればいいんです。それがモネのモネとしての振る舞いなんですから」
「あたしのすることか」
 片方の眉を上げながら口をへの字に曲げ、女性は呟く。少し首を傾げて考えてから、躊躇い顔で口を開いた。
「それがどんなにモネらしくなくてもか?」
「ええ、だって君はモネだろう」
「違うよ。あたしはモネなんかじゃない」
 きっぱりとした強い口調。僕の目をじっと見つめながら。ふわふわと揺れる瞳。モネは確かにこんなふうな不定形の言葉を使っていたように思える。
「モネはあたしじゃない」
 女性は髪飾りに手をかけるとふわりと解いた。

◆◆◆

 するり、と音もなく。布飾りが解かれる。
 眼前からモネが消える。
「なんで?」
 口から問いが漏れて出る。女性は静かに首を振る。
「ちがうよ。それは」
「なにがですか?」
 苛立ちと焦りが胸に立ち込める。せっかく見つけたのに。どうしてまた失わないといけないのだろう。僕の大切。
「あたしはモネじゃない」
 女性は立ち上がる。電車の揺れに揺れながら、僕の方に手を伸ばす。きしりと柔らかな音を立てて、僕の顔の横のクッションがへこむ。
「それでもいいと思ったよ。お前が本当にそれを望んで、あたしで良いと言ってくれるなら。あたしは別にモネになってやっても良かったんだ」
「でも、君はモネでしょう」
 わからない女性の言葉に、僕は言葉を繰り返す。女性はもう一度首を振った。
「違うよ。私はモネじゃない」
 繰り返してから、女性は言葉を続ける。
「それじゃあだめなんだよ。そうだろ?」
 女性の声は聞こえる。けれどもその意味はわからない。祝詞よりも呪いよりももっとわからない言葉。僕は首を振る。
「お前はお前が本当に求めるものを見つけないと嘘なんだよ。それは出来合いのものなんかじゃないんだろ。お前が求めていた大切はそんなもんじゃないんだろ。それでいいなんて言うなよ。もしもそんなことを言うなら……」
 女性は言葉を切って僕の目をじっと覗き込んだ。
「そんなことを言うなら、あいつらと同じだぜ」
「あいつら?」
「ああ、あのぎらぎらと黄色に輝く目のあいつら。見たいものだけを見て聞きたいものだけを聞く、あいつら。お前はそうじゃないだろう?」
 女性の目に映る僕の目は黄色くない。
 少なくとも今は。
「でも」
「それでもお前がモネでいてほしいって言うなら、それは」
 女性が手をかざす。両手に渡した赤い布で僕の目を覆う。
 視界が赤く染まる。血と埃のごわごわした黒ずみ。
 赤い視界の中で女性の声が聞こえる。
「それは良くないよ」
 きゅっ、と頭の後ろで布が結ばれた。

◆◆◆

 赤い世界。閉じたまぶたを透かして赤が染み込んでくる。揺れる赤。燃える赤。燃える炎の赤。
 赤い炎が世界を燃やす。灰に覆われた僕の記憶を赤い炎が燃やし尽くす。積もった灰さえ燃え上がる。今度は灰も残さず、熱く、熱く。
「お前は本当に探したいものを探さないといけないんだよ」
 燃える世界に女性の声が聞こえる。けれども、と考える。
 探したとして、見つけられるのだろうか。僕の中身はもう全部燃えて、燃え尽きてしまったんじゃないだろうか。きらきらとしたあの娘も、擦り切れて燃え尽きてもうどこにもいないんじゃないだろうか。そう思う。思ってしまう。
 それは本当に恐ろしいことじゃないか。探しているものがもうないだなんて、それじゃあまるで亡霊みたいじゃないか。
 熱の中で身体がぶるりと震える。恐ろしい想像。もしもそれが想像でなくなってしまったら。想像でなくなってしまうくらいなら。
「偽物だっていいんだ。見つけられるのなら」
「だめだよ」
 そっと、目の上を撫でらえるのを感じた。身を焦がす熱い炎よりもあたたかな分厚い掌。
「見つけられるまで探さないといけないんだ。見つけると決めたのならね。どこにもいないと決めるのはいない全部の場所を探してからだよ。お前はまだ全部を探しつくしてはいないんだろ」
 それに、と指先が額を撫でる。頭の内側を探るような手つき。頭の内側にあるものを探るような。
 その指先が指し示すのは頭の炎に燃えないでまだ残っているもの。網のような黒い影。
 するりと指先が灰の世界に入ってくる。
 ゆっくりと繊細な手つきが網目を一つ一つなぞっていく。
「お前はちゃんと見るべきものを見れる。聞くべきことを聞ける。傷ついて擦り切れてもきらきらを探し続けられる」
 ほつれて、詰まっていた網目が繕われ、はらわれる。失われていたつながりが結び付けられていく。網目は頭の中で、はるか遠くからの波を拾う。
 波はやがて一つの像を結んだ。

◆◆◆

 あの街の飲み水にはひどく小さな機械が沢山含まれていて、それらは飲んだ人たちの体の中で連結して(体内の塩分で動くのだ、と誰かが言った)、山奥に建つ二本の幽霊電波塔から発せられた電波を受信し、街の人々の頭の中に非実在のアイドルの像を結ぶのだ。
 アイドルの名前はセロリモネ。
 僕のなくしたアイドル。
 僕の頭の中の機械たちが再び連結される。遠く幽かな電波がモネを形作る。
 電波のモネがこちらに笑いかける。
 質量のない笑顔。均一に輝く肌。汚れ一つない白のワンピース。頭には燃えるような髪飾りが揺れる。真っ赤で柔らかな唇が動く。
「やあ、ひさしぶり」
 声は耳もとで聞こえた。脳を痺れさせる甘く透き通った声。
「ずっと探してくれてたんだ」
 ありがとう、とモネが笑う。
「こんなところにいたんだ」
 ひきつったように固まった喉から声を絞り出す。それを聞いてモネは笑みをこぼす。
「うん、いたよ。ここにずっといた。なのに見つけてくれないんだもの」
 モネは口を尖らせる。
 モネの言葉を聞いて、笑顔を見ていると、心がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。燃えさかり降りかかっていた灰は消え去り、何もない世界で、ただモネの笑顔だけが世界にあった。
 再起動され、再結成されたモネ。
 けれども、と疑問が頭に浮かぶ。
 今僕に微笑むこのモネと、以前僕の頭の中にいたモネは同じなのだろうか。
 そう尋ねてみる。勿論、モネはこう答えた。
「違ったら駄目?」 
 それで、僕はどうでもいいと思う。どうであってもモネは僕に微笑んでくれている。それだけでいい。
 本当に? 本当だとも。
 僕は手を伸ばす。モネに向かって。手はもうすぐ届きそうで、でもわずかに届かない。
 顔を上げる。
 モネはいたずらっぽく笑って振り返る。そのまま重力を感じせない足取りで駆けだした。少し先まで走って振り返る。
「こないの?」
 僕は走り出す。
 どこか遠くで声が聞こえた。
「走れ、少年」

◆◆◆

 走り出し、すぐに踏み出した足が止まる。
 見失ったわけではない。失うわけがない。
 少し離れたところで不思議そうな顔で振り向く。
「どうしたの?」
 首を振る。
「ごめんなさい」
「なにさ」
 モネは近づいてきて、僕の顔を下から覗き込む。慎み深く手の届かない距離。屈託のない笑顔が首を傾げる。
「君じゃなかったみたいなんだ」
「ああ」
 モネは頷く。いつも見ていたのと同じ笑顔のまま。
「君はそう思うんだね」
「ごめん」
「謝んないでよ」
 変わらない自然な笑顔。見るだけで勇気が湧いてくる。
 失いたくないと思う。それでも。
「さよなら」
「うん、さよなら」
 そう言ったときにはモネは向こうに。手の届かないところ。笑顔で、たしかに悲しそうに見える。僕は笑顔を作って手を振った。

 電車の揺れに目を開ける。 目を覆う赤い布を手探りに解く。色のついた世界が戻ってくる。
「よかったのかい?」
 女性が片眉を上げてたずねてくる。
 見つめられて、首を振る。
「違ったみたいです。いや、違うな。見つけたのですけれど、変わっていて」
 もう一度首を振る。できるだけ本当の言葉を探す。
「モネが?」
「変わったのはモネじゃなくて、僕の方かもしれないのですけれど」
「じゃあ、そのままいればよかったのに」
 羨ましそうな声。
「あれは僕の探していたモネじゃなかったように思えるのです」
「そうかい、じゃあ仕方ないね」 
 女性はふん、と鼻を鳴らして、肩をすくめた。
「もう」
 窓の外から声が聞こえた。聞いたことのある声。窓の外に目を凝らす。
 見えたのは紫。丸々と太った紫色の馬が電車に並んで走っている。
「あ」
 馬の上に誰か乗っている。赤い布、透き通る笑顔。僕はその姿を知っている。
「モネ」
 窓から手を伸ばす。届かない。
 モネは笑って馬の首を叩く。馬は足を早める。電車を追い越して駈けて行った。
 薄紫の曙光の中へ。
 僕らを載せた電車も馬の後を追ってどこまでも走っていく。 

【終り】
 
 

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