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町の匂い

  この時季になると水の入った田んぼから泥の匂いがぷんと香る。少し胸の詰まる匂いは、嗅いでいると少しだけ安心する。そう言うと妻は決まって
「嫌だよ、こんな田舎臭い匂い」
 と言って笑う。妻の両親に挨拶をしに行った町のことを思い出す。見渡す限りに広がる水田。青々とした稲の葉を通り過ぎる風が撫でていた。あの町で育った妻からすれば、この匂いは嗅ぎなれたありふれた匂いなのかもしれない。海辺の町で育った私には新鮮な匂いなのだけれども。
「でも、この匂いを嗅ぐと夏が来るな、と思うかな」
 窓の外、家々の間に広がる田を眺めて妻はぽつりと言う。その手は大きく膨らんだお腹を愛おしそうに撫でている。思わず後ろから抱きしめる。
「なに?、急に」
 妻は驚いた声を上げてから、私の手にそっと手を重ねた。汗の滲んだ柔らかな感触。
「暑い」
 ぽんぽんと妻が私の手の甲を叩く。ごめんごめんと謝って、立ち上がる。自分の行いが少し恥ずかしくなって、顔をそらす。
「そろそろ、ご飯用意するよ」
「ああ、ありがとう」
 そういえば、と醤油が切れていたのを思い出す。
「醤油、買ってくるね」
「うん」
 妻の髪をそっと撫でて家を出る。

 初夏のさわやかな風が頬を撫でた。都会から少し離れた新興住宅地では完成しかかったジグソーパズルのように、古い田んぼが埋め立てられている。そうしてできた空き地には真新しい家が全く同じ面構えで並んでいる。私たちが買ったのもそうした家の一つだ。
 子宝を授かったとわかってしばらくしてから、三人で暮らすには少し広い家が欲しいと、妻は言った。その言葉には私も異論はなかった。
「これから増えるかもしれないしな」
 そう言うと妻は頬を染めてそっぽを向いて怒ったふりをしたのをよく覚えている。
 早まった買い物だっただろうか。少しだけ背伸びをしてしまったような気もする。その分一生懸命に働くしかないのだけれども。
 ぷんと、なにかのにおいが鼻に香った。
 何のにおいだろう。田んぼの匂い? 違う。もっと濁った……猥雑なにおいだ。嗅ぐだけで胸がむかむかするような嫌なにおい。
 あたりを見回す。田んぼ、田んぼを埋め立てた空き地、真新しい家。道のわきのコンクリートの用水路には清潔そうな水が流れている。
 気のせいだったのだろうか。それにしてはいやになじみのあるにおい。ぞわりと、胸が騒ぐ。なじみ? こんなにおいは知らない。知っているはずがない。それなのににおいは私の知らない私の記憶を掘り起こす。
 悪意と混沌、狂気と無秩序に満ちた町並み。正気という正気を削り落とすような醜い姿の住人たち。知らない。私はそんなものを知らない。
 しゃがみ込み、うずくまる。
 頭が痛む。吐き気がこみ上げる。目をつむり、ゆっくりと息を吸う。新鮮な空気が肺を満たす。においは薄れ、消え去っていた。清潔な泥と建物の匂いが漂っている。
「なんだ?」
 首をかしげて、歩き始める。頭を振って臭いの記憶を振り払う。けれども、鼻の奥にそのにおいがこびりついているような気がした。

「匂いって、一番最後まで残る記憶なんだって」
 私が今日嗅いだ不思議な匂いについて話すと、妻は少し考えてからそう言った。食卓の向かいに座った妻の前には、空の皿が並んでいる。妻は皿に残ったソースを薬指で掬うと、鼻に近づけて匂いを嗅ぎ、それからぺろりとなめとった。
「なんだっけな、えーっと、聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順番だったかな」
「なんの順番?」
「忘れていく順番。人のことを忘れるとき、最初に忘れるのは声で、匂いが一番最後まで残るんだよ」
「へえ」
 だから、と妻は私を見つめて続ける。
「あなたの覚えてない記憶なのかもね」
「でも、俺の子供のころにも嗅いだことない匂いだったんだよ」
「じゃあ、前世とか」
「え?」
 思いもよらない言葉に妻の顔を見返す。妻も私をじっと見つめ返してくる。ひどく真剣な顔に、何も言えなくなってしまう。しばらく見つめあって、妻は表情を崩して吹き出した。
「なんだよ」
「ごめんごめん、あんまり真面目な顔してるから」
 笑う妻につられて私もつい笑ってしまう。妻の笑顔を見ていると、ただ漂ってきたにおいのことなんかで悩んでいたのが馬鹿らしく思えてくる。
「ありがとう」
 小さくつぶやく。立ち上がり、後ろに回り、そっと抱きしめる。なあに、と笑って妻は私の手に手を重ねる。髪の匂いが肺を満たす。この匂いは忘れないでいたいと思った。

 けれども、それからあの臭いはしばしばあらわれた。遠くから漂ってくるにおい。不快に濁ったにおい。嗅ぐだけで胸が悪くなるようなにおい。
 どこにいってもこの匂いはつきまとってくる。どこからともなく漂い、においのもとは見当たらない。姿の見えない不快感に焦燥が募っていく。
 不思議なことに他の人にはこのにおいは感じられれないようだった。現に今もこんなにぷんぷんと悪臭が漂っているというのに、妻は私の隣で静かに寝息を立てている。
 髪を撫でようとした手を止める。この匂いが妻に移ってしまいはしないだろうか。
 妻を起こさないようにそっと布団から出る。洗面所に行き蛇口をひねる。流れ出た冷たい水に手をかざす。
 においを洗い流そうと、ごしごし、ごしごしと手をこすり合わせる。痛くなるほどに洗ってもにおいは消えない。うがいをする。何度も何度も。においは消えない。鼻で水を吸う。むせる。頭が痛くなる。それでも、においは消えない。むしろ強くなっているような気さえする。
 家ににおいが染み付いてしまうような気がする。せっかくの幸福の家に。思い至り、慌てて玄関から外へ転がり出る。夏の夜の重苦しい湿気が私の体にまとわりつく。
 その湿気にあのにおいが絡まりつく。息が詰まる。空気をくれ、新鮮な空気を。空気を求めてしゃがみ込む。用水路を覗き込む。暗い水面にひどい顔をした男が映り込む。これは誰だ?
 後ろを振り返る。誰もいない。水面に向き直る。そこには男がいる。このにおいを固めて人間の形を作ったようなおぞましい男。これは、私自身だ。
 男はにたにたと笑いながらこちらを見つめている。その眼差しと漂うにおいに私は思い出す。私は、おれはいつか見たあのドブみたいな町、ドブヶ丘から逃げ出したかったのだ。でも、どこにも行けなかった。行けやしない。あんなどん詰まりからどこへ行けるというのだ。だから、おれは頸霧川に身を投げたんだ。死んでしまえば、あの町でないどこかに行けるのだからと。
 薄れゆく意識の中で、誰かの声を聴いた気がする。「何を望む?」と語りかける声。あれがドブヶ丘の女神? その声におれは「ここではないどこかに行きたい」と、そう願ったのを覚えている。
 そうして、おれはここにいた。妻、家、家族。あの町で手に入れられなかった幸福。この幸福が永遠に続けばよいのに!
 けれども、おれは思い出した。あの町はおれに追いついた。結局の所、おれはあの町の住人なのだ。その証拠がこのにおいだ。あの町でどこに行っても漂っていたこのにおい。黒いドブのにおい。このにおいは他でもないおれ自身の発するにおいなのだ。おれの皮膚から、歯から、内臓から漂いでるにおい。死んだぐらいでは逃れられないあの町の呪い。

 あの町に帰らなければ。

 水面の向こうにおれが笑っている。誘うように手を伸ばす。向こうに行けばにおいは気にならなくなるだろうか。
 頭を、ゆっくりと、水面に近づける。頭が水に浸かる。首が、肩が、胸が、腕が、順繰りに水の中に入る。不思議と恐怖はない。それはそうだ。もう二回目なのだから。
 ぐるりと体が回る。仰向けになる。水面が揺れているのが見える。
 懐かしい感覚。もうすぐあの町に

「なにをやってるの? あなた」
 突然に手を引かれた。そのまま水面まで引っ張り上げられる。思わず吸った空気に水が混じり、ごほごほとむせこんでしまう。
 目を見開く。寝間着を着たままの妻が、呆れた表情で私の背中をさすっていた。
「これは……あの……」
 むせこみながら、言葉を探す。妻は何も言わない。ただ私を見つめている。突然妻は立ち上がり、私の後ろに周った。柔らかく温かな感触が私を包み込んだ。妻が私を抱きしめているのだ。
「なにを、しているんですか、あなた」
 どきどきと弾む鼓動を感じる。前に回された手にそっと手を重ねる。じわりと汗の滲んだ温かな手。
「ごめん」
 ただ一言、そうつぶやく。他に言うべき言葉は見つからなかった。妻は何も言わずに、ぎゅっと私を抱きしめた。
 しばらく、そうしていたと思う。やがて、妻は「ふふ」と笑って立ち上がった。
 振り向くと、妻は私に手を差し伸べていた。
「ほら、寝るなら家で寝て」
「ああ、ああ」
 手を取り立ち上がる。妻は私の顔をしばらく見つめ、くんくんと鼻を動かしてから言った。
「あなた、ひどい匂いよ」
「におい?」
 どきりとして聞き返す。
「ええ、汗と用水路の匂い。寝る前におふろにはいってくださいね」
「ああ、もちろん」
 夜の風が吹く。夏の湿気を振り払い、妻の髪と汗の匂いが香った。

【おわり】

去年の今頃ドブヶ丘が波及したということなので、ドブヶ丘関連の小説を書いてみました。というか、初めてかいたやつのリライトというやつじゃ。なんだかんだドブヶ丘は便利なので使っていきたいものだなあ。


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