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出口兄妹の冒険 vol.3

【前】

下水道

 ドブヶ丘にかつて文明があった証として下水道の存在があげられる。いつ誰が掘ったのかも、どこに続いているのかも皆目わからない下水道には、町の淀みという淀み、濁りと言う濁りが流れ込み、悪臭と混沌が濃縮され続けている。その全貌を把握する者はいない。
 この町で地図を作ろうとする変わり者は少ないし、数少ない変わり者はたいてい短い生涯を終える。好奇心が猫をも殺すのはドブヶ丘においても同様なのだ。 
 探索者の命を奪うのは有害な排水やそこから発生する異常生物だけではない。下水道の随所にはドブヶ丘でさえ地上に住めなくなった、わけありの者たちが隠れ住んでいるのだ。ご存じの通り、ドブヶ丘に治安の概念はない。そこを追われ、この下水道に住み着く者の危険性は語るまでもないだろう。

 住人たちの不文律はただ一つ、「相互不干渉」だ。他人のやることに興味を示せば、どちらか(もしくは両方)が命を落とすことになる。
 だから、今日一人の住人が何か大きなものを引き摺りながら帰ってきても、他の住人たちは無関心を貫いた。物陰に潜む種族不明の住人がちらりと引き摺っているものを見て、「人間のようなトカゲだな」と思ったが、下水道の掟に従い無視して二度寝を始めた。
 引きずられているものはどちらかと言うとトカゲのような人間だった。人間にしてもかなり大柄な体格。体の表面は緑がかった鱗のような装甲に覆われている。絶命してるのは明らかだった。薄い瞼は恐怖に見開かれて固まり、大きく裂けた口からは力なく開き、長い舌がだらしなく垂れている。
 引き摺っているのはひょろりとした長身の男だった。よたよたと、不格好に歩いている。身にまとった半透明のレインコートの裾から、ぽたり、ぽたりと血の雫がぬめぬめとした下水道の床に落ち続けている。
「ぐうぅ」
 男がうめき声を漏らした。奇妙なことにその声は男の顔からではなく、左手から聞こえた。男は一度立ち止まり、引き摺っていたトカゲ人間を持ち直すと再び歩き出した。
 男はよたよたと時間をかけて下水道を歩き、やがて袋小路の一つで足を止めた。少しだけ高くなっていて、少しだけ乾いた行き止まり。男は目隠し代わりに申し訳程度に垂らされた襤褸切れをくぐった。ガス灯に火をともすと、そこにいる住人に微笑みかける。
「ただいま、サアヤ」
 サアヤと呼ばれた住人は何も答えない。ただ、像を結ばない唸り声とも軋み声とも音を発した。そこに返答の意思があるのかはわからない。そもそも意識があるのかさえ分からない。
 そこにいる……あるのは、奇妙な肉塊だった。輪郭はかろうじて人の輪郭を残している。胴体、そこから伸びる四肢、頭部。けれども、その肉塊を観察したものは狂気に陥るだろう。頭部のあるべき場所にはのっぺりと目も鼻も口もない肉の塊が乗っている。四肢はいずれも手足の区別のつかないような不揃いな形をしていて、不規則に胴体から伸びている。
 胴体。
 胴体こそが最も狂気をもたらす形状をしていた。丸々とした肉付きの良い胴体。その胴体の中心部に大きな口が開いている。小柄な人間なら丸ごと入りそうな口に刃物じみた牙がぎっしりと並んでいる。
 その奇妙な肉塊が、薄汚れたぬいぐるみに囲まれてわずかに脈動していた。
「ご飯は食べたんだ」
 男は異形の肉塊に優しく語り掛けた。肉塊の口に引っかかっていた肉片を拾い上げる。毛むくじゃら蜘蛛のようにひょろ長い脚だった。
「ネズミ?」
 返事を期待する風でもなく、男は尋ねる。肉塊は意思のこもらない奇妙な音を上げた。男は「えらいえらい」と言う風に肉塊の頭に当たる部分を撫でた。
「ご飯、持って帰ったんだけど、これは明日にとっておこうか」
 ちょうどそう言った時に男のお腹がぐぅと鳴り、下水道に響いた。男は少し赤面して言う。
「ごめん、やっぱりちょっとだけ食べちゃうね」
 男は引き摺ってきたトカゲ男の腕に手をかける。ガジリと音がしてトカゲ男の腕が千切れる。男の掌についた口がトカゲ男の腕をかみちぎったのだ。
袋小路に咀嚼音が響く。
「うん、たぶんあいつらの仲間だと思うんだけど」
 右掌の口でもぐもぐと咀嚼しながら、左手の口で話を続ける。
「ドブンブレラって言ったら反応してた。もう少し話聞こうとしたんだけど、襲い掛かってきたから、殺しちゃった」
 ごくりと肉を呑みこむ。
「なんか取引してたみたいだから、その相手の方を探してみようかなぁ。え、なに?」
 サアヤが蠢いたのを見て、男は言葉を止めた。笑みを浮かべると、もう一方の腕を引きちぎると、サアヤの胴体の口にそっと差し込む。
「大丈夫大丈夫、しっかり食べな」
 もぎゅもぎゅと咀嚼するサアヤの頭部を撫でながら、男は語り掛ける。
「うん、まだ手がかりは残ってるし、なんとかなる」
 肉塊を見つめる男の目は優しい。
「必ず、元に戻すからね」  
 

【つづく】


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