見出し画像

学生たちの特権を学生たちが否定する!?「学生調査」の難しさと危険性。

大学の学びは大きな方向性として、「何を教えたか」から「何を身につけたか」に評価の軸を変えようとしています。これ自体は、決して悪いことではないのですが、「何を身につけたか」を誰がどう判断するかは難しいところです。前者であれば大学だけで判断できるのですが、後者は教えられる学生の数だけ答えがあります。

文部科学省と国立教育政策研究所が取り組もうとする「学生調査」には、そういった個々の状況を把握することがねらいにあるように思います。でも、かたちはどうあれ、教育の評価に学生が関わる、しかも公がそれを行い、公表するというのは、なんともいえない危うさを感じてしまうのです。

記事にある「学生調査」のプレ版(全国学生調査(試行実施))の概要が、日本私立大学連盟のウェブサイトに載っていました。「全国学生調査(試行実施)」の文字をクリックすると、説明をまとめたPDFに飛ぶことができます。これを読んでみると、何度も「学生目線」での学習内容の把握という言葉が出てきます。

語学であったり、資格取得を目的にした学部学科、工学系の学問であれば、学んでいることがどのように役立つのかがイメージしやすいし、点数であったり、合否であったり、具体的な結果として見えたりもするので、身についていく実感があるかもしれません。でも、人文系の学問になると、そうそう簡単にこの実感は得られないのではないでしょうか。

2017年の大阪大学の文学部・文学研究科卒業セレモニーで、当時の学部長・研究科長である金水敏先生のスピーチが非常に良い内容で話題になりました。ここで金先生は「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか」と話しています。

学びの実感を得るのは、学んでいる最中でもなければ、卒業後すぐでもない、さらにいうと、このタイミングだと明確に言えるときがそもそもない。でも、人生という長い道を歩いているなかのどこかで“効いている”と実感する。文学部(≒人文系学問)の学びは、そういうものではないかと、先生は言っているように思います。

先生の話からすると、文学部の先生たちが、いかに真剣に教えていようとも学生たちが「学生調査」でいい点数をつけることはないのではないか。もしくは、いい点数をつけたとしても、それがその文学部の良し悪しと直接的に関わらないのではないか、と思ってしまいます。

人によっては、いつ役に立つかがわからないような学問を、貴重な学生時代にやるのはいかがなものかと言う人がいるかもしれません。でも、私はいいと思います。何に役に立つかはわからないけど、とりあえずやりたいから、がむしゃらにやってみる。そんなことができるのは学生時代だけです。「学生調査」は、そんな学生たちの特権を、学生たち自ら否定させる(しかも無自覚に)ものになりかねない。そんな怖さをはらんでいます。

さらにいうと、学びの実感なんていうものは、やりようによってはいくらでも演出ができるものだと思います。過去と今を事細かく比べて伸び率を視覚化したり、大人たちが褒めまくったり。でも、そこに力を注ぎ出すと、学問とも教育とも違う、何かよくわからないサービス業になってしまいます。

ほとんどのモラルある大学はそんなことに力を割かないでしょう。でも、記事では大学ごとの結果を公表すると書いています。これに過敏に反応した大学が「何を身につけたか」より、「何を身につけたと感じたか」に力点を置く可能性もゼロではありません。そんな大学が出たとしたら、犠牲になるのは学生たちです。「学生調査」には、そういうことを誘因させる可能性もあります。

何にしろ、リアルタイムでの実感と、実際に身になっているかは、まったく別の話。食品にたとえると、前者はエナジードリンクで、後者は肉であり野菜です。エナジードリンクを重視して、そればかりを陳列したら、もうその店は肉屋でも八百屋でもありません。大学だって同じで、学びの実感が得られることを目的にした教育をやりだしたら、もうそれは大学ではない、私はそう思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?