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【ホツマの論点】 ホツマツタヱ最古写本を伝えた井保家は何処から、そして何処へ <87号 平成28年10月>

 現存する最古写本を残した和仁古安聡は俗名を「井保勇之進」と名乗っていました。池田満氏の解説によれば、井保家は伝教大師最澄の頃に遡る旧家とされますが、果たして、井保の名前はどこから来たものなのでしょう。

 そもそも後の比叡山建立の根本仏(秘仏)に縁がある(788年、最澄は薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を比叡山に建立)という万木の薬師堂が子守大明神社とともに護持されるようになったときから、井保坊の名前が世に顕れたとのことですが、その時には既に長らく当地の名家として、井保家は存在していたのでしょう。

「井保坊は、二十三代大鶴軒孝阿に至るまで妻帯しなかった」と池田解説にありますが、そもそも坊は学侶と堂衆で運営されており、いわば家主が井保家で、天台から下ってくる高僧(妻帯しない清僧)を代々迎えてきていたと云うことでしょう。逆に言えば、(織田信長による全領地召し上げに至るまで)約八百年にわたり当時のわが国最高知識階層を迎え入れ続けていた家系といえるのです。

 さて、織田信長の覇権により領地を失った井保家でしたが、そのとき既に、「医王堂講衆と呼ばれる井保、本庄、地村、中江、尾沢、西河、辻子」の七家系があったと伝えています。このうち中江家は、後の「日本陽明学の鼻祖」「近世集団教育指導者の始まり」と尊称される近江聖人・中江藤樹を生み出しています。(その業績を顕彰する藤樹記念館に和仁古安聡写本が保管されています。)「親孝行、素直で正直、魂磨き」を大切にしたその教えは、ホツマツタヱにつながります。

 話は飛びますが、四年前に河口湖の富士講御師の旧家で見つかったヲシテ文献。あわ歌の奥義を語るその文献が保存されていたのは、本庄家(屋号 梅谷)でした。池田満氏の解説によれば、本庄家は千年続く浅間神社の神主家系で文献上には一族の本庄采女が、日蓮上人に出逢ったことも伝えられているとあります。この本庄と、高島の本庄。ふつう本庄と云えば、武蔵国、今の埼玉県本庄市(旧児玉郡)が本貫地とされるのですが、別のルートがあったのかも知れません。興味が尽きません。

 さて、本号は琵琶湖・高島の特集号。巻頭の高畠論文は、興味深い「井保家のルーツ探索」に一石を投じる力作です。本号で、聖地高島を実感していただければ幸甚です。

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聖地高島での記念フォーラム開催を特集して、最古写本を伝えた井保家と高島という地に注目した特集号の巻頭論考です。

天台宗との関わり、陽明学の祖である中江藤樹との関わり、河口湖の御師との関わりなど、極めて重要なポイントを指摘しました。今後の探究が求められるテーマばかりです。

日本天台宗開祖の最澄の生涯をわかりやすくまとめています↑ 一乗止観院についても触れられています。このご本尊が、高島の木で彫られたというのです。

井保家の血脈を嗣ぐ陽明学の祖、中江藤樹↑ 致良知と愛敬の教えは、斗の教ヱや伊勢の道ともつながります。

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