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城下町ボーイズライフ【学園青春ブロマンス小説】


第一話・『喧嘩に始まり、花見に終わる』


好きで子孫なわけじゃないのに

(さみーわ。さみーし、かったりー)
二月二十九日、幾久(いくひさ)の中学生活最後の登校日。
東京はまだ冬の寒さが厳しく、正直、学校に行くのも面倒だった。
でも今日だけ過ぎればもう中等部を卒業して、そのまま付属の高等部に進学するだけだ。

(今日だけだ。今日だけスルーしとけばいい)

幾久(いくひさ)はそう考えて、でもやっぱりため息をつく。
思えばこの半年以上、ずっと面倒な連中に付きまとわれた。

(なぁにが、ショーグンだよ。意味わかんね)

幾久がため息をついてしまうのも無理はない。
半年前、歴史ドラマというやつが放映された。
元々は小説で大人気だったというそれは前評判も高く、実際視聴率も高く評判も上々だったらしい。
らしい、というのは、幾久自身は見たことがないからだ。

大河ドラマ程長くもないが、数話にわけて作られたそのドラマは原作小説の人気も相まって、とても人気だった。
その結果これだ。

『あのドラマの主人公役でもある、乃木(のぎ)希典(まれすけ)は、乃木君のご先祖様なんだよね!』

幾久(いくひさ)の名前は乃木(のぎ)幾久(いくひさ)。
確かに幾久も、先祖はその人というのは知っている。
でもそれだけだ。
だから何?としか思わないし日常は誰とも同じでしかない。

多分担任に悪気はない。
自分の受け持つ生徒がテレビの登場人物と関りがあってちょっと自慢する気持ちみたいなものがあったのかもしれない。
だけど、そもそもこの中等部には外部から入学、三年間友人もろくに作らず塾通いばかりの幾久はこの学校に馴染めなかった。
遊ぶときは過去、サッカーのユース仲間と会うくらいで、正直言うならいまだにクラスメイトの名前もろくに覚えてない。

カースト上位の奴はそういう、存在感もなく、冴えもしない幾久が、ドラマの有名人の子孫というのが許せなかったのだろう。
その日からやけに絡んでくるようになった。悪い意味で。

そしてなお、悪い事に、幾久の先祖である乃木(のぎ)希典(まれすけ)は、そのドラマではとことん無能として描かれてしまっていた。

「よう乃木―。いいかげんさあ、おまえんちのドラマ、見たか?」

同じクラスの相馬(そうま)は幾久が乃木希典の子孫と知ってから、毎日のように声をかけてくるようになった。
歴史にも先祖にも興味のない幾久はテレビを見る事もなかったのに、何度説明しても相馬は絡むのをやめなかった。

『よう、無能の子孫』
『なんだ、子孫のくせに知らねえのかよ』
『本当はフカシてんじゃねえの?嘘はやめろよ。名字かぶってるだけだろ』
『上級国民様、羨ましいなあ』

面倒くさい、という感想しかなかった。
ただ同じクラスでしかない上に、ろくに喋った事もない。
一方的に絡まれてよく判らない煽りを受ける。
他の連中は、幾久と相馬のやりとりをいつも遠巻きに見ているだけだ。
幾久は別にそれを責める気にもなれなかった。
もし自分がこういう状況を見たとしても同じようにするだろう。
クラスメイトも幾久もそう思っているのに、もしくはそう思っているのを知っているからこそ、相馬はやたらちょっかいをかけてくる。

(最後の最後まで、うぜーやつ)
でもそれも今日でおしまいだ。
今日さえやりすごせば、あとは卒業式で、その後は高等部に進学するだけだ。

ふいっと視線をそらす幾久に、相馬はわざとらしく目の前へ移動する。
「無視すんなよ、見てんだろ?」
「見てない」
そう幾久は言い返して顔を背ける。
これもいつもの事だ。

「子孫のくせに見てない?マジありえねーっつーか、そうか、余裕?」
なあ、とクラスメイトに同意を求めると、数人が頷き、賛同する。
別に相馬に従っているわけでもない。
ただ、面倒だから流しているだけというのは判る。

面倒くせえな、と思う幾久だが、勿論その言葉は飲み込む。
「余裕とか、意味わかんないんだけど」
そう返すと、相馬は何がおかしいのかふきだした。
「そっかあ!乃木様は全部、もうとっくに知ってることだもんなぁ、当然っちゃ当然かあー、そっかあ!VIPだもんな、局から先にもう見せて貰ってるから、今更なんだあ」
「んなわけ……」
「いいなあお金持ちはさあ。それで印税がガッポガッポだろ?」

入るかよ。
うちがそこそこなのは父さんが役人だからだよバーカ。
そもそも儲かってるのは小説の作家と出版社だろ。
こっちはドラマとか知りもしないわ。
自慢げにブランドバッグを見せびらかしてるお前んちのほうが金持ちじゃん。

言い返す言葉は思い浮かんでも、幾久はぐっとこらえた。
面倒は嫌だったからだ。
どうせドラマはもうすぐ終わるし、高等部で違うクラスになれば、絡んでくることもないだろう。
今さえやりすごせば。
今だけを。

相馬はそれを判っているからこそ、余計に幾久を煽った。

「やっぱいいよな、歴史に名が残る一族っていうのはさあ。それだけで信用があるもんだしさ。まあ、役立たずの軍人でも神だもんなあ。神!あなたが神か!なんつて!」

有名なマンガの台詞を引用してつついてくる。
盛り上がって言う相馬にクラスメイト達がクスクス笑い出した。
幾久にとっては嫌な雰囲気だが、この半年の日常だった。

ああ、うざい。
物凄くうざい。
でも実際、『神』になってる自分の祖先の存在も、正直、うざい。

「なあ神、願いかなえてくれよー神―」

しつこい相馬のからかいに、幾久はがたんと席を立つ。
一瞬、相馬がひるんだ。

「な、なんだよ」
「トイレ」

そう幾久が答えると相馬はほっと安心して、よせばいいのに調子に乗った。「へぇー、神でもトイレ行くのか!」
遠巻きに見ていた相馬の友人やクラスメイトがどっと笑った。
無視してトイレへ向かう幾久に、相馬は怒鳴った。

「調子のって生きてんじゃねーよ!人殺しの子孫のくせに!」

その瞬間、幾久の手が相馬の襟首を掴み―――――気が付くと幾久は相馬を思い切りぶん殴ってしまっていた。

どおっと相馬が倒れ、尻餅をついた。
それにびっくりしたのは幾久の方で、一瞬自分が何をしたのか理解できなかった。

他人なんか一度も殴ったことはない。
殴ってから、初めてそこまで自分が怒っていたのか、と気が付いて自分でもびっくりしたほどだ。
だが、自分が思わず相馬を殴ってしまったことに気付いた瞬間、もういいや、という気持ちになった。

「ついでだから、もう一発殴る」
「え?え?ちょ、やめ、おいっ!」

ごすん、ともう一度、音が響いた。

まさか、その結果がこんな世界に繋がるとは、まだ誰も知らなかった。
もちろん幾久さえ。


父からの不思議な提案

「はい、大変申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしました」

頭を何度も下げながら、幾久の父は校長室から退出した。
廊下で父を待っていた幾久はうつむいていた顔を上げた。

幾久が相馬を殴って、当然教室内は騒然となった。
すぐさま両家の親同士で校長室での話し合いとなった。
先に相馬が帰ったらしく、幾久は話が終わってから呼び出された。

誰も居ない放課後の廊下は静かで、忙しいのにわざわざここまで来させてしまった父に幾久は謝った。
「ごめんなさい、父さん」
絶対にひどく叱られるに違いない。
そう思ってびくつく幾久だったが、父は幾久の頭に手を置くと、軽く撫でで笑って言った。
「心配することなんかなにもない。大丈夫だよ」
「でも」
「こちらが殴ったことは、私が先方に謝罪した。先方もそれを納得したし、こちらへの非礼も、まあ、一応済んだ。だから、もうこの事は終わったことだよ」
「ごめんなさい、父さん」
「別にお前が謝ることはない。まあ、暴力はあまりいただけないが」
笑う父に幾久は驚いて顔を上げる。
父は長身で、まだ全然身長は追いつかない。

一度もこんなトラブルはおこしたことはないし、無口な父がどう反応するのか怖かった。
だが、父は全く気にした様子もなく、穏やかに告げた。
「お前にも理由があったんだろう。気にするな、とは言えないが、私の事は気にしなくていい。私が来れて良かった」
父は、本当に怒ってはいないようだ。
幾久はほっと胸をなでおろす。
だけど、もうひとつ心配事があった。

「母さんに、なんて言えばいいんだろう」
「……」

そういうと父は黙ってしまった。
母は俗に言う教育ママで、学校でのトラブルを絶対に許さない。
どうしよう、と悩んでいると、父が幾久の肩に手を置いた。
「なあ、幾久。ちょっと父さんと飯でも食って帰らないか?さっき何を話したか聞きたいだろ?」
笑顔で言われると、まるで内緒話を聞くような気になって、幾久はほっとして「うん!」と頷いた。
「じゃあ、一緒に帰ろうか。父さんはこっちから出るから」
「待ってて!オレ、靴とってくる!」

大丈夫だ。幾久はなんだかそんな気がした。

父との関りは薄く、これまでろくに話したことはない。
官僚として忙しく、滅多に関わることもなかったのに、急に距離が縮んだみたいだ。
(母さんじゃなくて良かった)
これが母なら、きっと今頃ヒステリックに何度もどうしてと繰り返され、泣かれるだろう。
今日の対応が父で良かった。
あの雰囲気なら、ひどく叱られることもなさそうだ。
それに、母とは違って幾久の話をちゃんと聞いてくれる気がする。

幾久は荷物を持ち、靴を抱えると、父の待つ正面玄関へと向かい、走って行った。

学校を出て、父が呼んだタクシーに二人で乗り込む。
「どこに行くの?」
「父さんの職場の近くに、行きつけのレストランがあるんだ。美味いから、お前に食べさせたいとずっと思っててな」
丁度良かった、と機嫌良さそうに笑う父は、息子が問題を起こして呼び出されたようには見えない。
叱られないのはありがたいが、そんなんでいいのかな、と父を覗く幾久だったが、何を食べようかと父は楽しそうにメニューの説明をするだけだ。

暫くするとタクシーはレストランの前で止まった。
父の行きつけというのはお洒落な古めかしいビルの喫茶、その二階にある小さなレストランで、上品な誂えだった。
ぐるりとらせん状の階段を上り、お洒落なアールヌーヴォー調のドアを開けると、いい香りが漂ってくる。

「いらっしゃいませ、あら乃木さん、珍しい時間帯に」
「今日は息子と一緒なんだ。奥の席は空いてるかな」
受付の店員とは顔なじみなのだろう。
白いシャツに黒のタイに、黒のベスト。
腰には長い、黒のカフェエプロンを付けた男性が微笑んだ。
「あら、これが自慢の息子さん?ほんとお父さんそっくり!可愛いね」
可愛いと言われ、幾久は少し照れ、軽く頭を下げた。

「奥の席、空いてますよ。どうぞ」
そう告げられ、奥まった小さなスペースに案内された。
幾久が奥へ座り、父が手前へ腰かける。
窓から外を見ると、人々がせわしなく歩いているのが良く見えた。
「ここはな、懐かしい洋食メニューがあるんだ。なんでもうまいぞ」
どれにする、とメニューを渡され、おいしそうなオムライスセットがあったのでそれにした。
「お前は目が良いな。私もこれが大好きなんだよ」
幾久を褒め、父はオムライスのセットをふたつ注文した。

暫くしてオムライスが到着し、食事の間、うまいだろう、とか言う父に幾久は頷くだけだった。
実際オムライスは美味しかったし、途中から幾久は夢中になって食べた。

食後にコーヒーセットを頼んで、ケーキを半分ほど食べたところで、父が切り出した。

「幾久、お前はどうしたい?」
「どうしたいって、なにが」
「学校を変わるか?」
その言葉に幾久は驚いて、持っていたフォークを落とすところだった。
「そんなに、よくないの」
いくら卒業前とはいえ、これで退学になってしまうのか。
高等部進学も決まっていたし、卒業式をまじかに控えたこのシーズンでは高校入試なんかとっくに終わって外部への進学も選べない。
真っ青になる幾久に、父は笑った。
「違う、違う。そうじゃなくて、そういう選択肢もあるってことだ。話の順番がおかしかったな」
そう言って父はコーヒーを飲む。
「―――――面倒な事があるのなら、そういう選択肢もあるって、お前に伝えたかっただけなんだ。驚かせたらすまない」
「ううん、大丈夫」
なんだ、と驚いて幾久はほっとした。

「お前と相馬君の処分は同じだよ。二人とも停学扱いにはなったが、どうせこの後は卒業式しかないし、名目上だけのものだ。高等部への進学も問題ないし、相馬君とはクラスを分けてくれるそうだ。もしなにかあれば、学校の方でもすぐ対応すると約束してくれた」

幾久が通う学校は私学の中等部で、当然、高等部ともつながりがある。
今回の対応はしてくれるとの事で、幾久はほっとした。
せめて、あいつと同じクラスじゃないのが救いだ。
(あいつとまた三年一緒とか、冗談じゃない)
殴ったのはこっちも悪いが、あんな奴と同じクラスなんて、想像だけでうんざりする。

「それより、気になる事があってね。お前が相馬君を殴った理由だ」
「……たいしたことじゃないよ」
「大したことがなかったらお前は人を殴らないだろ?」
そう言って微笑む父は、人が悪いように見える。
「そんなにオレと関わってないくせに」
責めるように言ってみたが、父は余裕に微笑んで幾久に言った。
「関わってなくても、お前がそういうタイプじゃないくらいは知ってるよ。子供のころからそうだった」
父との関りは、幾久が小学生の頃、サッカーのユースに参加していた頃で途絶えている。
サッカー選手になりたくて、ユースに所属していたけれど、小学校を卒業前に才能がないとユースを落とされた。
親友はユースに残ったけれど、幾久は落とされ、結局中学校も進学の為にいまの学校に行かされた。
(もう、三年も前なのか)
親友との関りも、昨年くらいから途絶えている。
彼はまだ元気なのだろうか。
才能があったから、きっと高校も選びたい放題で、サッカーの名門に行くか、もしくはプロになるかもしれない。
「それより、お前がなんで相馬君を殴ったのか、そっちの理由を私は聞きたいんだが」
父の言葉にはっとなり、幾久は口をつぐむ。
確かに父は、幾久の話を聞く権利があった。
幾久のせいで、今日もきっと忙しいだろうに、仕事中に呼び出されたのだから。

「……先祖の、ドラマあんじゃん」
「うん」
「あれで、茶化されたっていうか、煽られた」
「うん」
「……ここんとこ、ずっと毎週、ドラマがあるたんびに凄い煽られて、別に傷ついたりはしないんだけど」
「うん」
「面倒くせえな、って思ってて。でもどうせ卒業だし、ドラマももうすぐ終わるし、ほっときゃいいだろって思ってて」
「うん」

父は静かに微笑んでいた。
幾久は、初めて気づいた。
父もひょっとして、同じような立場だったのだろうか、と。

すると急に仲間のような気がしてきて、自分の中によく判らない感情が渦巻いて、胸の中にあふれてきた。
(なんだろ、これ)
思わず胸をぎゅっと掴んだ。

父は言った。
「いいよ。続けて」
「―――――人殺しの子孫のくせに、生きてんなよって」

その瞬間、明らかに父の表情がさっと変わったのが判った。

「それで、気が付いたら殴ってた」

小さく、ごめんなさい、と幾久が謝ると幾久の父は露骨に深いため息を「ふう」とついた。
そして幾久に手を伸ばす。
思わず身を縮めた幾久に、父は幾久の、やや癖っ毛のある髪をくしゃくしゃと撫でて幾久に言った。
「すまなかった」
え、と驚いて顔を上げる幾久に、父は苦々しい顔をして幾久に告げた。
「面倒な事になるとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。申し訳ない」
そう言って頭を下げる父に、幾久は慌てた。

「そんな、父さんのせいじゃないよ」
「そうだ。確かに乃木希典の子孫であることは我々の責任じゃない。だけど、お前を守るのは、私の責任なんだよ」
幾久は父の言葉に驚いてきょとんとした。
「だから、お前が殴るような状況に追い詰められたのは、私の責任なんだ」そういって父はもう一度、すまなかった、と言って頭を下げた。

喫茶の人がおかわりのコーヒーを持ってきて、幾久には紅茶と焼き菓子を持ってきてくれた。
どうぞ、今の時間は人が少ないの、いくらでも長居してね、と言われ、本当に常連なんだな、と幾久は父を見て思った。

暫く父が静かなので、幾久は貰った焼き菓子を食べ、紅茶を飲む。
喫茶店の中のざわめきと流れる音楽がひとつのBGMみたいだ。
父はもう一度ため息をつくと、幾久に尋ねた。

「幾久。このまま、いまの学校に通うか?」
なにを言っているのだろうと幾久が首を傾げていると、父は言った。

「……他の選択肢を、取る気はないか?」
幾久は驚いて父の顔を見た。

父は自分のカバンから大きな封筒を取り出し、テーブルの上へ置く。
書類が入っているくらいのサイズの封筒で、中からパンフレットを取り出し幾久の前へ置いた。
それは学校案内のパンフレットだった。

「『報国院(ほうこくいん)男子高等学校』?」

聞いたことのない学校だ。
一体どんなところなのだろう。

「私の母校だよ」

そう父が言うと、幾久は興味を持った。
「確か、全寮制の男子校って」
「そう。長州(ちょうす)市だからね、かなり遠いが」

長州市は本州の端っこにある海峡の街だ。
父はそこで生まれ育ち、大学からはずっと東京で過ごしている。

「でも、もうとっくに受験なんか終わってるでしょ」

明日からは三月、すぐに卒業式があるというこのシーズンに、入試なんかとうに終わっている所ばかりだ。
だが、父は首を横に振った。

「私の母校は変わっていてね、私学のせいもあって人数が揃うまで何度も試験を行うんだ。入学ギリギリまで人数を合わせるから、まだ試験はあるんだよ」
え、と驚く幾久に、父は言った。

「幾久、この学校に通ってみる気は、ないか?」

思いがけない父の提案に、幾久は驚いてぽかんと口を開けた。

驚くことに、長州市は幾久のような、歴史に名を残した人の子孫が残っているそうで、特に歴史の関りからもその学校を選ぶ人が多いのだという。

「お前がこんな事になったのは、今の学校だからだと思う。この学校には子孫の子が多いから、お前でも目立たないよ」

目立たない、と言われて幾久は興味がわいた。
幾久は目立つことが嫌いだし、面倒も嫌いで平凡や普通といった事が好きだ。
「子孫や親せきといった子はこの学校に多いし、今更お前が通っても、今回みたいに目立つことはないだろう」
しかも、と父は思う。
あの地域は乃木希典に対して敬愛の情を持っているので、少なくとも今回のような事は言われないだろう。
それに、立場が同じ子はいくらでも居る。
(こんな目にもう合わせたくない)
甘いだろうと自分でも、幾久の父は思う。
だけど、この年齢でこんな目にあうのは理不尽だと思えた。
自分が乃木希典の子孫だから、と傍受してきた事のマイナスを、今度は息子が食らっている。
これは、食らわなくてもいい毒ではないのか。
そう思った。

「少なくとも、同じ学校に相馬君は居るし、お前がそこまで追い詰められたのなら、いいクラスではなかったのだろう」

確かに相馬の存在はうざかったが、クラスの面々も煽られて、似たような事を幾久にしていた。
だったら、相馬一人が別のクラスであっても、この関係は多分ずっと続くだろう。
スケープゴートはいつだって、誰かが必要なのだ。
そしてこのままだと、幾久は多分、選ばれてしまうだろう。

「でも……よく知らない学校だし、大学受験とかも心配だし」
東京でない学校に通うのは心配だ、と幾久が言うと父は言った。
「それなら問題ない。あの学校は勉強さえできればなんでも面倒を見てくれる。私がいい例だろう?」
確かに父は、田舎の私学から東京の難関にストレートで合格した。
「パンフレットにも載っているが、毎年それなりの大学には合格者が居るぞ?」
「本当だ」
毎年、レベルの高い学校の入学者がおり、旧帝大への入学者が多い。
レベルの高い私学にも合格者が居る。
「半分は就職のための生徒だから、決して学校自体のレベルは高いとは言えないが、クラスによって特色がありすぎてな。お前ならそこそこのクラスに入れるだろう」
そこそこ、と言われて幾久はちょっと驚いた。
「オレってそこそこなの?」
今の学校だって進学校で、決してレベルは低くない所か、このままいけば大学も内部進学で、それなりのレベルに進めるのに。
すると父はちょっと楽し気にニヤッと笑って幾久に告げた。

「その学校のトップクラスには、私でも油断すればすぐ落とされるような連中が居るんだぞ。多分、今もその校風は変わってないはずだ」
しかも、そのトップクラスはガリ勉でもないという。
「大検という手段もないことはないが、私はできれば、お前には学校に行って欲しいんだ」
「オレだって、学校には行きたい。でないと面倒そうだし」
大検も頑張ればとれるだろうけれど、だからって自分一人で大学受験の準備が出来るとは幾久には到底思えなかった。ただ、父がそこまで考えてくれたのは驚いたが。
「でも、そっか。ほかの学校なんて考えたこともなかった。どうせ駄目だろうしって思ってたし」

さっき父を待っている間、もしこの学校を首になったらどうしよう、高等部に上がれなかったらどうしよう。
そんな事ばかりが頭をぐるぐると回っていた。
こんなことになるなら、どこでもいいから外部の高校を受けておけばよかった、と幾久の後悔は半端なかった。

だけど、今からでも受けられる学校がある。
しかも父の母校という所に興味がわいた。

「……どんな学校だったの」
幾久が父に尋ねると、父は目を細めて言った。
「すばらしい時間だった。出来る事なら、もう一度帰りたいと願うくらい」父がこんな風に、過去へ帰りたいというのは初めてで幾久は驚いた。
常に無駄を嫌って、理路整然と言う父しか知らなかったから、こんな夢のあるような事を言う人と思っていなかった。

「だから、私はお前にも、そんな時間を過ごしてほしいんだよ。勿論、どの学校に通っても構わないが」
「……オレは、べつにフツーでいいよ」
幾久は小さく、寂し気な声で言った。
大人はよくそういうことを言うけれど、幾久にとって中学時代の三年間は決して良いものじゃなかった。
毎日塾に通うばかりで、開いたわずかな時間にゲームを触るくらいしかできなかった。
この三年は大して面白くもない、普通の学生生活だった。
それとも大人になると、そんな普通も物凄く面白かったと思うほど、つまらない日常が待っているのだろうか。

「学校なんかつまんないよ。フツーに勉強して、フツーに塾行って、フツーに人付き合いやっていくだけ。それでも中卒で働いたりするよりはいいから、みんなそうやってるだけだと思うけど」
「お前はそう思っているんだな」
「そんなもんじゃないの?」
「そうだな。普通は、そんなものなのかもな」
コーヒーを飲んで、父はどこか寂しそうだった。
だけど幾久にはそれがなぜなのか理由が判らなかった。

少なくとも父は、幾久の味方だろう。
母は大学進学の事しか頭になく、これから三年間、この中学三年間のような塾漬けの生活が続くと思ったらうんざりだ。

「……先祖がどうこうって、面倒だよ」
幾久がぽつりと言った。
「あんなドラマなかったら、こんな事にならなかったのに」
きっといつものように、変わりない毎日を過ごして誰も幾久に関わろうとはしなかっただろう。
例え、幾久の先祖と知っても放っておいてくれたら良かったのに。

「だけど、それはお前に一生ついてくる問題だ」

父の一生という言葉に、幾久の背にずしんと何かが乗ったようだった。

「少なくとも、もうしばらくはドラマの余波があるだろうし、誰かが気づけば、また似たような事にはなるだろう」
幾久は父の言葉にぎゅっと唇を噛んだ。

オレは悪くないのに、オレがそうなりたかったわけじゃないのに、なんで。

「―――――なんで、無能な奴が先祖なんだよ」

無能将軍と揶揄される内容のドラマだったことは幾久も知っている。
そういうと、父は静かにコーヒーカップをテーブルに置いた。

「お前がそう判断したなら、私は何も言わないが」
「そうじゃないの?無能で、たくさん人を殺したって」
「言い訳になるが、快楽殺人な訳ではないからな」
「でも人殺しには違いなんでしょ」
「軍人の仕事だからな」

そして父は、テーブルの上に手を組んだ。

「お前の選びたい真実を選びなさい。ただそれは、もっと後でもいいと、父さんは思うけどな」

そう言って幾久に微笑んだ。

自宅に戻ると母が待っていて、幾久は父と母が話をする間、自室にこもっていた。
時折、母の激昂する声が聞こえたが、父は出てくるなと言っていたので幾久はイヤホンを耳につっこんで音楽を聴き、貰った学校のパンフレットを読んでいた。
行くと決めたわけではないが、父の母校と聞いて興味がわいたのだ。

全寮制の男子校なんてむさくるしそうと思ったが、パンフレットにある『報国寮』の環境は悪くなさそうだ。
wi-hiも完備、寮内なら生徒は使用制限なし、休憩室には大きなモニターがあって、有料のサービスも学校の負担で受けられる。

「いいなあ!サッカー見れる!」

幾久はサッカーのクラブチームに所属していた事もあってサッカーが大好きだ。
特にプレミアと呼ばれるヨーロッパ、イングランドのサッカーが好きなのだが、海外とあって有料でないとまず見れない。
でもこの学校は、そういったサービスも受けられるのだと言う。
一気にこの学校へ気持ちが傾き、幾久は他のページも熱心に読み込み始めた。
寮の部屋は一年は六人部屋、二年になると三人、三年になると成績や素行によって二人や一人部屋が与えられるとなっている。
学校には図書館も学習室もあり、近年リフォームを行ったばかりで学食も大きなカフェのように奇麗だった。
(寮も学校も、けっこういい感じ)
クラスによってカリキュラムに差があるらしい。
田舎ではあるが、寮生活は悪くなさそうだ。

幾久がパンフレットを読んでいると、暫く、部屋のドアが開き、母が言った。
「お父さんが話があるそうよ」
幾久は頷き、パンフレットを閉じてリビングへ向かった。

父はいつもの椅子に腰掛けており、幾久は向かいに、母は幾久の隣に座った。
「母さんとも話をしたんだが、幾久、学校はどうする?」
「……え、っと」
行くと決めたわけじゃなかったが、正直に言うなら興味はあった。
このまま今の学校に進学すると思い込んでいたけれど、違う可能性があるのなら。
「母さんは、お前が学校を変わるのは反対なんだそうだ。お前はどうだ?」「どうって……」
幾久が口ごもると、母が口をはさんだ。
「本当は反対に決まってます。今更、学校を変わるなんて。多感な時期なのに」
多感、とか言われると幾久は困ってしまう。
そんなことはないと自分では思うのだけど。
「今まで、あなたは受験には全く関わらなかったでしょう。私がどんなに苦労したか」
母の言葉に父は黙るが、幾久からしてみたら、え、そんなに苦労したんだ、と驚く。
てっきり、母が好きでやっているのだと思っていたからだ。
「家のことをきちんとやって、幾久をちゃんと教育して、学校も選んで、評判を聞いて、塾にもやって。私だってどんな母親だったら合格しやすいのか、すごく調べて」
そういや母の買う雑誌に『お受験はこう攻める!きちんとママのすっきりスタイル』とか特集があったなあと思い出す。
やれ、あそこのデパートのなんとかいうブランドがうけがいいとか、バッグはなんとかにしたら品がよく見えるとか、そういう母親達の立ち話を幾久も塾で聞いていた。
「苦労して小学校に入れたら、うちは全く関係ないのに事件があって。それでまた中学受験をしなくちゃならなくなって。それで苦労して入ったのに、また変わるなんて。しかも田舎の、誰も知らないような学校だなんて」
「その知らない学校を私は出たんだけどね」
父が苦笑して言うが、母は忌々しげに言う。
「あなたは東大を出たじゃありませんか。そんなのは関係ないでしょう」
じゃあ幾久だって東大さえ出りゃ、小学校から頑張る必要なかったのかなあ、と思うと気が抜けてくる。
「幾久は優しい、穏やかで争いの嫌いな子なんです。だから大学受験なんて焦って受験勉強をするには向いていません。東大に絶対に入る!って気持ちも見せてくれない。じゃあ、東大なんて入れるわけがない。あそこは戦場なんです」
東大に行ったならともかく、言ってない母に何が判るのだろうと幾久は思った。
父は母に言った。
「君の気持ちも理解できるが、私は幾久が決して穏やかで優しいだけの子供とは思わないけれどね」
「あなたに何が判るんですか。仕事仕事でろくに話もしてくれないくせに。こんな時だけ父親の顔をしないでください!私は絶対に反対です。幾久も本当はそうよね?」
ね、と手を置かれたとき、幾久は背筋がぞくっとした。
なぜだろう。
どうして母親に対してそんな気持ちになるのだろう。
不思議に思ったが、幾久は正直に答えた。

「オレ、正直、よくわからないけど、でも父さんの学校に行ってみたい」

母の顔色がさっと曇り、父の顔色がぱっと明るくなった。
幾久は続けた。
「中学でそんな親しいって友達もいないし、絶対にあの学校でないといやだっていうのはないし。どこに行っても一緒なら、父さんの学校に興味ある」そうか、と父が言ったと同時に母がわあっと泣き出した。
「本当はそうじゃないのに、どうしてそんな事を言うの。お父さんに言いくるめられて。情けない。あの努力は何だったの。絶対に後悔することになるのに」
泣き出した母を見て、幾久と父親は顔を見合わせた。

「でも、オレは正直、いま後悔してる」

幾久が言うと、父も母も驚いて幾久を見た。

「ずっと塾ばっかりで、サッカーも辞めて。毎日学校に行ってただけなのに、なんでいきなりこんな目にあうんだろうって」
「あなたが我慢しないからでしょう!殴ったのはあなたのくせに!自分のせいでしょう!」
幾久の表情が凍る。
やっぱり、自分は人を殴ったんだ。
悪い事をしたからこんな目にあったんだ。
どうして。
そもそも、先祖が無能なせいなのに。
思わず涙がこぼれそうになって、ぐっと手を握ると、父が静かに言った。

「幾久が殴るほど追い詰められた事は、君はどうでもいいのか」

静かだけど、威圧感のある言葉に、母は言葉を飲み込んだ。

「暴力はよくない、と私は幾久に話して聞かせたし、幾久だってそれは判っている。追い詰められたからといって、なにをしてもいい訳じゃない」
だけど、と父は言った。
「幾久が我慢を重ねた挙句、その結果を殴る事でしか出せなかった事を、親は恥じるべきじゃないのか」
「我慢できないって、そんなの我がままでしょう!」
母の言葉に、幾久もそうだな、と思った。
しかし父は、首を横に振った。

「幾久は男なんだよ。力の使い方を覚えなければいけないんだ」
「なにが男ですか!この時代に、男性も女性もないでしょう!」
「時代がそうでも、性別は決して同じにならないんだよ。力では女性は男性に敵わないし―――――」
「そんなのどうでもいいんです!幾久は、大人しくて、静かな子です!」

母親の言葉に、幾久はどんどん自分が削られていくような気がした。
確かに自分でも、騒がしい方じゃないとは思うけれど、母に言われるとなんだか違う気がする。

「幾久、本当は嫌でしょう?正直に言っていいのよ。お母さんはあなたの味方よ」

味方なら、なんで我慢しろなんて言うんだ。
正直に言ってもいいなら、どうしてサッカーを続けさせてくれなかった。

―――――本当はサッカー選手になりたかったのに

『ほらね、言ったとおりサッカーなんか無駄だったでしょう。私の言う事を聞かないからよ。さっさと受験に本腰を入れなさい。そのほうが将来楽なんだから』

母の言葉を突然思い出し、尋ねた。

「本当に、正直に言ってもいいんだよね」
幾久の言葉に、母の顔が、ぱっと明るくなった。
「勿論よ!正直に言って、ねえ幾久」
そういって母は幾久の手を握った。

幾久は父をまっすぐ見据えると、父に告げた。

「オレ、父さんの行った高校に興味がある。そっち受験してみたい」

母の顔色がさっと青くなったが、父の表情は突然明るくなった。

「受験できるっていうし、受かるかどうかわかんないけど。受けてみたい」

もし、気に入らないなら辞めればいい。
最悪、遠い学校だから、転校だってできるだろう。
今の学校に通うのはもううんざりだし、母の声を聞くのもうんざりだ。

「幾久、正直に、」
母が言うが、幾久は立ち上がると母に言った。
「オレは正直に言ったよ。母さんの思う正直じゃないからって、無理に言わせないで欲しい」
すると母は、わっと泣き出した。

面倒くさいな、と思う幾久に、父は「もうここはいいから、寝なさい」と告げた。
うん、と頷いて幾久が部屋に入ると、当てつけのように大声で泣きだした。

ただ苛立ちしか感じず、幾久はベッドに横になると目を閉じて、ふと思い出した。

「そういや、受験っていつなんだろ」

まあいいか、父さんがどうにかするだろう。
そう思うと幾久は、気が緩んで、あっという間に眠ってしまった。


ここはずっと嘆きの海


海峡は日々、ひっきりなしにタンカーや大きな船が行き交う。
鮮やかなコンテナを積んだ船は遠くからもよく見えた。

高台のお城跡から臨むのは周防灘、海をはさみ向かいに連なる山は北九州の門司港、そして門司港を正面に右手奥には響灘、つまりここは二つの灘が交わる関門海峡にほど近い。

海岸沿いの山すそを這うように、車が激しく行き交う車道の傍には美術館があり、過去にはそのすぐ道路向こうに水族館があった。
美術館の傍には歩道橋があり、海を向くと右手が美術館へ続き、左手は元水族館の跡地へと向かう道へ続く。
その跡地も実は元はお城の見張り台跡で、水族館のなくなった今では簡素な公園に整備され、高台の跡地からは城下町がよく見えた。

お城跡の石垣の合間にひっそりと、登る為の石段が続く。
近年に整備されたものであっても、やはり見張り台の場所までは高く急で、上がるのは一苦労だ。
山沿いにあるせいで、木々は鬱蒼と茂っている。
その合間をまだ春になる前の、三月の冷たい風が吹く。
この前、三年生らと来たばかりの時は寒さは感じなかったのに、やっぱり賑やかな先輩達が卒業してしまうと一気に寂しく寒くなった気がする。

石段を登っていた高杉(たかすぎ)呼春(よぶはる)は思わず体を震わせた。
上までたどり着けばきっと日は照っているので少しはまだ暖かいはずだ。
慣れた階段でもきついものはやっぱりきついな。
そう思って無言で上がっていると、やがて目の前が開けた。

見張り台の足元に到着して、はあ、とため息のような息を吐く。
真正面にはいつも通り、シロナガスクジラのしっぽが見えた。
といっても当然本物ではない。
なぜならその鯨は、山の中にどしんと据えられている実物大の模型だからだ。

この海峡の街がまだ鯨漁で栄えていた頃、この見張り台の山を囲むのは木々ではなく水族館と遊園地だった。
内部にも入れるシロナガスクジラの模型は、水族館のランドマークとして長く愛されたがやがて時代が過ぎ、街も寂れ、隣り合った遊園地も無くなり、水族館も移動し、いまでは鯨は入る事も出来ず出入り口は封鎖され、ぽつんと孤独に、その姿を山の中腹に潜めている。

見張り台跡は石垣の上にある。
観光客向けの看板を越え、まっすぐ階段を登ればそこは広場になっている。
緑の芝生が敷かれ、ちょっとした広さがあり、見張り台なので街も海もよく見渡せる。
実物大のシロナガスクジラの模型すら、足元にちいさく見える。

見張り台はぐるりと大人の腰くらいの柵で囲まれている。
芝生なのでスニーカー越しにも柔らかい。
この場所が昔からのお気に入りの高杉(たかすぎ)呼春(よぶはる)は、ぐるりと体を回した。
ぐるり、ぐるり、ぐるり。
そうすると、海も、街も、空も、全部を見る事が出来る。
当然目を回し、くらっと立ち眩みをおこした。
と、高杉の背にどん、と胸があたる。

「ハル、目が周って落ちちゃうぞ」

高杉の背にぴったりくっつき、あきれ顔で言うのは、高杉の幼馴染である同い年の久坂(くさか)瑞祥(ずいしょう)だ。
久坂の長い髪が、さらりと高杉の頬をかすった。
「落ちる前にお前が支えェ」
「無理だよ」
「なんじゃ、不親切じゃの。助けてくれんのか」

ふざけて言う高杉に、久坂は小さく笑って言った。

「必要ないだろ」
「冷たいヤツじゃの」
ふんと笑う高杉に、久坂はまっすぐ高杉を見つめて言った。
「ハルが落ちたら僕も落ちるよ」
聞きほれる程の美しい声で、高杉とお揃いのピアスをまるでわざとみせつけるかのように長い髪をかきあげて囁く。

「一緒に落ちよう」

一瞬こわばり、ふう、とあきれたため息をつくと、振り向きざまごちんと拳骨で久坂の肩を叩いた。
「痛いな。なにすんだよハル」
「そういうのヤメェ。悪趣味じゃぞ」
「そうかな。前向きだと思うけど」
久坂の言葉にふんと呆れながら、高杉は見張り台のてっぺん、奇麗に整備され展望台となっている場所から愛する寮のある方を見つめた。

「―――――雪は出て行かん、よな」
「……行くわけないだろ。雪ちゃんは御門の総督(そうとく)だよ。雪ちゃん意外に誰が御門を管理できるんだよ」
「じゃよな。全く、殿(との)も人が悪い事を言う」
でも、それでも。最後は雪充(ゆきみつ)当人が決める事だ。
「大丈夫だよ。雪ちゃんが寮を出る訳ない。あんなに御門が好きなんだし。先輩らももう居ない。寮の管理は雪ちゃんがいないと無理だよ」
「そう、じゃの」
判っている。
久坂の言うことはなにもかも理屈が通る。
雪充だって自分が居ないと寮が成り立たない事くらい絶対に理解しているはずだ。
それでも。
高杉の胸にはかすかな不安が残る。
雪充はいま、学校に行っている。
多分この件について先生と話し合いをしているはずで、今日には最終判断を下すだろう。
もうすぐ雪充は最上級生の高校三年生。自分たちは二年生。
卒業を控えた先輩達を追いかけて、来年にはきっと県外の大学へ進むだろう雪充と自分たちが寮で過ごせるのは、残りたった一年しかない。
(出ていくはずがない)
そう信じたかった。
「寮に帰ろう。多分雪ちゃんだってそろそろ帰ってきてるよ。ちゃんとした返事を聞こう」
「―――――そうじゃの」

きっと寮に帰ればいつも通り、苦笑して自分たちの我儘をなんでも聞いてくれるはずで。
そう信じる高杉は、腕を置いていた見張り台の太い柵を押した。
とんっと弾みをつけて胸を張る。

そうだとも。
自分たちの所属する御門(みかど)寮はそもそも変わり者だらけで、特に今の、卒業する3年生らは滅茶苦茶でどうしようもない先輩ばかりで。
そんな先輩達のしりぬぐいをして、必死で始末書を書くのが雪充の仕事だった。
毎日がみがみとうるさかったけれど、それでもほとんどは楽しかった。
時折、苦しくなるようなトラブルもありはしたけれど。

(雪しかおらん、じゃろうが)
学校から一番遠い場所の、離れ小島とも言われる御門寮をまとめ上げる能力なんて、雪充しか持っていない。
雪充以外の、次の三年生はよりにもよって面倒くさい性格の山縣(やまがた)だけだというのに。
(せめて直(なお)がおってくれたら)
御門にずっと居たかったはずの時山(ときやま)直太朗(なおたろう)は、色々あっていまは鯨王(げいおう)寮に移寮している。
雪充しか、まともな最上級生は御門寮にいないのだ。
出ていくはずがない。

二人は見張り台の足元の芝生を踏み、階段を下りる。
眼前には海峡の海と足元には鯨館の姿。
ここからも海はよく見える。

黒々とした岩礁の向こう、海はおだやかに遠くふたつの島を包む。
島は満珠(まんじゅ)、干珠(かんじゅ)という名前だが、どちらがどちらなのかいまだに判らないのだそうだ。

この海も街も、長い歴史と共にある。
古くは神代(かみよ)の時代の三韓征伐。
源平合戦の最終決戦地。
武蔵、小次郎の巌流島の決戦。
維新では連合艦隊と戦いもした。
七十年前の大戦では、この国へ落とされた機雷(きらい)の総数の半分はこの海に落とされた。
何度も、激しい戦乱に巻き込まれてきたのがこの海だ。

過去、外海を睨んでいた戦艦はとうに沈んだ。
戦後、しつこく栄えた鯨漁の勢いはすでに無い。

賑やかだった頃の名残の鯨の模型は、静かに海を見つめている。
まるでこの街の墓標のように。

見張り台を降り、その足元の広場に沢山植えられているのは全て桜の木だ。
もうすぐ、春になれば視界の殆どを埋める程、満開の見事な桜が見れる。
ただいまは、固くつぼみを閉ざしたまま、春の訪れを待っている寂しい灰白色の枝が連なるだけだ。

二人は城跡の石畳を歩き、もときた石垣に沿う階段へと向かう。
「ハル」
先を歩く久坂が手を伸ばした。
鬱蒼と茂る階段の道は、狭く薄暗いので危ない。
幼いころからそうするように、久坂から自然に伸ばされた手に、高杉は笑って「おう」と手を繋いだ。

さよならぼくの御門(みかど)寮

高杉(たかすぎ)呼春(よぶはる)と久坂(くさか)瑞祥(ずいしょう)の二人は生まれてからずっと一緒に育った。
乳兄弟で幼馴染だ。

二人の通う学校の名前は『報国院(ほうこくいん)男子高等学校』、
長州二之宮と呼ばれる格式高い神社の境内にある、文科系の男子高校は、その歴史から今なお維新志士の子孫が多く通う。

全員が寮に所属する決まりで、報国院の生徒は三年の間、殆ど学校と寮の往復で高校の青春時代を過ごす。

報国院はクラスが成績で分れ、クラスごとにかなりの特色がある。
複数ある寮も同じで、寮ごとのカラーは学生たちの色も変えた。
中には、寮のカラーが学生に塗り替えられる事もままあったが。

その中でも特段、濃いカラーの寮が、二人の所属する『御門寮(みかどりょう)』だ。
いくつもある寮の中で学校から最も遠く、最も広く、しかし所属人数は最も少ない『離れ小島』と呼ばれる。
二人が所属している間、全部の寮生を集めても十人程度もおらず、殆ど兄弟のように三年を過ごしたのだ。

御門寮の総督(そうとく)となる桂(かつら)雪充(ゆきみつ)も昔からの幼馴染だから、ずっと一緒で楽しかった。
雪充は次は3年生だ。あと一年しかない寮生活を、愛する御門寮を、出ていくはずがない。そう思っていた。

学校から御門寮へ帰ってきた雪充は二人を笑顔で出迎えた。
だからつい、二人も油断した。
あの話は断ったよ、と言ってくれるものだと信じていた。

寮生全員、つまり次に三年になる雪充、山縣の二人。
そして次に二年になる久坂、高杉、吉田の三人が居間に集められたときに、本当はちょっとだけ、嫌な予感が高杉の胸には生まれていたが。

「僕はこの寮を出る」
雪充の言葉が、一瞬理解できなかった久坂は、らしくなく怒鳴った。
「なんで雪ちゃんが出ていくのさ!御門寮の総督は雪ちゃんだろ!」
やっぱり、と思いながらも高杉は忌々しそうに親指を噛む。
「いくら学校でも横暴が過ぎる。ウチはただでさえ、人数が少ないちゅうのに」
その苛立ちを隠さずに、舌打ちし、愛用の扇子をぱちんと乱暴に閉じる。
久坂、高杉と同じ年の吉田は黙ってしまい、桂と同じ学年の山縣は我関せず、という表情だ。

もう一度、雪充が言った。
「僕もこの寮を出て行くつもりはなかった。でも決めた。僕は恭王(きょうおう)寮へ移る」
「なんで!」
「もう決めたんだ。だから、早めにあっちの寮へ移るよ」

「ワシは反対じゃ!」
「僕は反対だ!」

そう高杉と久坂が同時に怒鳴るも、雪充は首を横に振る。
これまでのように、弟分の我儘を聞く気はない。そんな風に。
「もう決まったし決めたんだ。とはいえ、恭王寮は後任を早く育てて、出来れば中期、遅くとも後期には御門(ここ)に戻るつもりだよ」
だから落ち着け、と語る雪充に、二年は少しほっとした。

「とはいえ、寮の代表は僕が兼任するわけにもいかないから、後は山縣に―――――」
するとこれまで聞いているのかいないのか、ゲームから目を離さなかった山縣が言った。
「俺やらね。お前が帰ってくるつもりなら暫定でいいだろ、二年に任せとけ。高杉に決まり。高杉総督。かっけえじゃん」
他人の言うことを一切聞かずマイペースを貫く山縣は、なぜかひとつ年下の高杉を心酔しており、高杉の言う事はなんでも従う。
雪充もその事はよく承知しているので、頷いた。
「そのほうが良いだろうな。じゃあ、そういう事で」
ずっと寮で一緒に過ごしてきたのに、雪充の言葉はあっさりしている。
ここに帰るつもりがあるから、だろうか。

数日して、荷物を片付けた雪充は、あんなにも愛していた御門寮を後にした。
毎日一緒に過ごしていたのに、あっさりとしたものだった。

暫定で総督と呼ばれる寮長になった高杉はずっと不機嫌、というより不満げだった。

「―――――ハル、新しい一年どうするんだ?」
高杉(たかすぎ)呼春(よぶはる)に吉田(よしだ)栄人(えいと)が尋ねた。
まさかこのまま、寮に誰も入れないわけにはいかないだろう。
しかし高杉は言った。

「誰も入れん。学校にもそうゆうて、許可も得ちょる」
「そんなの、いいの」
驚く栄人だが、高杉は言った。

「雪がおらんで、誰が面倒を見れるんじゃ。ワシ等には―――――無理じゃ」

久坂、高杉、吉田は幼いころからの幼馴染だったから、一緒に過ごすことに抵抗はない。
そして三年の山縣はほぼ引きこもりのようなもので、関わることもない。
だから、誰も新入生をどう扱えばいいのか判らない。
普通は準備をして、受け入れる教育を学んでからなのに、肝心の三年が山縣一人ではどうにもならない。

三年になった雪充がどうにかするだろう、と考えて何も準備をしていない三人に、なにかが出来るはずもない。
雪充も、そこは想定済だろう。
そして高杉と久坂の二人は、自覚がある程度には個性が強い。
新しい一年が来ても、ただもめ事が増えるだけだ。

御門(みかど)寮への希望者は居るらしいが、全て断って貰った。
ひょっとしたら、この小さな寮は廃寮になるのかもしれない。
だけど自分たちが今年と来年、過ごせるならもうそれでいいのではないか。
そんな風に高杉は思っていた。

自分は雪充のように、後輩の為に何ができるなんて考えられない。

「じゃけ、誰も入れん」

高杉の言葉に、本来なら反対しなければならないのだろう。
だけど、三年が卒業し、二年だった桂と時山はすでに寮からいなくなり、居るのは山縣一人だけ。

このままこの寮は静かに廃寮に向かうのかもしれない。
だけど誰もそれに触れず、時間が過ぎた。


春分の日も過ぎたある日の事。
教師の毛利から、御門寮の高杉に呼び出しが入った。
「どうしたのハル。学校?」
「ああ。殿に呼び出し食らっての」
スニーカーの紐を結び、高杉は栄人に答えた。

この時期に一体、何だろう。
毛利の事だ、どうせ面倒事には違いない。
高杉の予感はその通りだった。

春の訪れを待つ静かな城下町の石畳を駆け抜け、土塀に囲まれた神社の敷地内にある、報国院へと向かう。
城下町の中央に流れる川縁には桜の木が並び、蕾を膨らませている。
花が開けばまるで絵のように見事な風景となるのだが、まだ灰色の木が静かに時を待っているだけだ。
冷たい風に身をふるわせるが、冬のような厳しさはもうない。

校門と呼ばれる神社本殿の正面にある鳥居の前に立ち、高杉は一礼し、お参りに向かう。
神社の境内は開かれているせいもあり、春休みに入った子供たちが遊んでいた。

お参りを済ませて、散歩がてら大回りして、稲荷神社の脇を抜けて、ぐるりと学校を一周して、本殿正面へ戻ろう。
高杉は神社の境内を通り抜け、石畳の通り道へ向かう。
真正面に向かえば乃木神社があり、乃木神社を過ぎればしろくま保育園があり、その先は土塀が連なっている。

写真館の前の桜はどんな風だろうか。
そんな風に思いながら思い出の道を歩く。
どの道も、この辺りは自分たちにとっては大切な思い出の場所だ。
もう失った彼の姿も、この風景とともに焼き付いている。

真冬の最中二人で逃げ出し、怒涛のように状況は変わった。
去年の春、瑞祥と誓いを交わしたのは、まだたった一年ほど前の事だ。
それなのに随分と昔に感じた。

まるで吹雪の中のような、桜が世界を埋めるように舞い散る春の日に、お互いのピアスを交換して、一生守ると誓った。
その誓いはこの一年の間、勿論守られている。
朝も晩も、真夜中ですら、瑞祥と離れる事はない。
この一年、楽しくも騒がしくも寂しくもあった。
幸福な一年だった。
(でも、雪がいない)
三年生はとうに卒業し、次に三年になる雪充は別の寮へ移り、もう一人の住人、時山はとっくに寮を出て行っている。
残ったのは面倒な性格の山縣のみ。
いま、御門寮にはたった四人の寮生しかいない。
新しい一年生が入らなければ、この先、自分たちが卒業する時には三人になり、その次は多分―――――ゼロ。
だけどそれでも良いと思った。
自分たちのあの愛する寮に、雪充もいないのに、今更誰かを入れる気にもなれなかった。

毛利の用事は何だろうか。
そう思いつつ、学校を囲む土塀の通りを歩いていた、その時だった。
(―――――?)
石畳を歩く高杉の目に、土塀を乗り越えようとしている中学生くらいの少年が目に入る。
なぜか土塀を乗り越えようと、足を壁で踏んで瓦に手をかけていた。
(なにしちょるんじゃあいつは!)
去年の思い出に浸っていた高杉は、あまりの光景に驚き思わず駆け出した。
土塀はかなりもろく、しかも修繕に時間も金もかかる。
この地域の連中なら、こんなバカな事はしない。
どこの迷惑な観光客だ、と駆け出した。

「お前、なにしちょんじゃあ!」

高杉の怒鳴り声に、少年が躊躇し動きを一瞬止めた。

毛利が投げかけた、ひとつの小さな小石のようなものが、静かだった御門寮の、報国院の水面に大きな波紋になり、やがて大きな渦になる、その瞬間がここだった。

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