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達人対談2016「果てなき内的探究—瞑想の実践」 成瀬雅春 × 藤田一照 第二回 「興味をもつ」とは、自分を知る作業

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 2016年10月14日に行われるソマティックフェスタでは、コ2【kotsu】のコラボ講座が行われることが決定! そこで今回は「ソマフェスコラボ記念!」として、5月1日に行われたイベント「達人対談2016」の模様を、三回にわたってお届けしています。
 第二回は、対談のテーマである「瞑想」をめぐって、成瀬雅春さん(ヨーガ行者)と藤田一照さん(曹洞宗僧侶)が「自分を知る」時に必要な気づきについて話し合われました。


対談/成瀬雅春×藤田一照 「達人対談2016 果てなき内的探究—瞑想の実践」

第二回  「興味をもつ」とは、自分を知る作業

語り●成瀬雅春、藤田一照

取材協力●オーガニックライフTOKYO事務局
構成・撮影●コ2編集部

藤田一照(以下、藤田) 僕の属する禅の宗派、曹洞宗の開祖である道元さんが言うには「仏道をならふといふは、自己をならふなり」だと。
 仏道というのは自分の外側にある、たとえば仏典だとか伝統だとかを“情報”として自分に仕入れることではなく、この、他でもない誰にも代わりようのない唯一無比の“自己”という存在をならう、つまり自分を深く知るということである、ということですね。13世紀にもう、こんなことを言ってるんですね。
 第一回で成瀬さんが「瞑想は、自分を知る作業」とお話されたのと、全く同じことを言っています。

成瀬雅春(以下、成瀬) 今日初めて聞いたから、パクってないですよ(笑)。

藤田 もちろん、パクっていないのに、あたかもパクったかのように符号している(笑)、というのが、すごく大事なところだと僕は思いますね。

 これは非常に大事なポイントですが、「自己を知る」というと僕らは、自己を向こう側に置いて全てを客観化しようとします。自己を外側から、第三者であるかのように見るわけです。
 僕がかつて学んでいた心理学なんかまさにそうで、自己を知るのに性格テストとかをして分かった気になる。それは自己の属性を知っただけで、自己の存在そのもの、実存を知ったわけではありません。

 でも仏教であったり、東洋の霊的伝統における自己への探求というのは、外側から自分を見るのではなく、内側から一人称で見ていくことです。「内部観測」とも言います。そのためには装置がいるわけですよ。自己になって自己を知るといった直接的な知り方です。外側から見るのであれば、ビデオとか、さっき言った性格テストとか、いろいろな装置がありますけど。

 内側を見る場合は……今「見る」と言いましたけど、自分の呼吸の質であるとか、体感であるとかを、ふだんの日常の雑な見方ではなく精密に、いわば空間的・時間的解像度を飛躍的にアップさせて見てみる。自分の感受性の訓練と言えるでしょうか。
 これをたとえで「動体視力」と、僕は呼んでいます。

 実際にはパッ、パッと不連続に起こっていることが、動体視力の低い僕らには一つの出来事に見えてしまうのですが、動体視力が高まると、「これが起きてから、それとは別のこういうことが起きている」という二つの別なことが起きているのが見えるようになります。
 そうすると、今までとは違う対応ができるようになる。パッとパッの間に何かを挿入できるようになって、新しい選択肢が手に入るわけです。


有本匡男(以下、司会) 起きていることをいくつものパーツに分けることができ、かつそのつながりが見えるようになってくる……まさに「縁起」ですね。

藤田 それが瞑想の目的というか、瞑想で培われてくるものでもあるわけで。ただ黙って坐ってさえいれば何とかなると大雑把に言ってしまうのは、自分に対しても他に対してもちょっと無責任すぎるような気がします。「自己をならう」というのは、遠くて水臭い話じゃなくて、逆に自分に一番近くて親しい話です。今ここ、この瞬間の自分のことですから。

 仏教では六つの感覚の組み合わせで経験を考察しています。いわゆる「六根=眼・耳・鼻・舌・身・意(げん/に/び/ぜつ/しん/い)」です。目、耳、鼻、舌、それから皮膚感覚という身体感覚に加えて、心(=意)も感覚器官の一つなんですね。

 自己をならうというのは、必ずしも内的探求という皮膚の内側のことだけではない。起きていることはすべて、“僕”が生き生きと経験しているから起きているわけで、いわゆる外側のことも実は自分と無関係ではなく、それもまた自分の中身なんです。

司会 只管打坐で自己をならうとき、中で起きていることだけが自分ではなく、外で起きていることもまた、自分である。つまり自分とは、二元的(自分と他者)というよりも、一元的(全て自分)ということでしょうか?

藤田 一元、二元という単語を使うと、また違う意味が加わってしまうけれど……。自分の“内”と“外”の境界線自体がそもそもあんまりない、ということです。

司会 「主客未分」ということですか?

藤田 ここにいる“これ(と自身を指差す)”を仮に「私」と呼び、“あれ”を「あなた/彼/彼女/それ」とか呼んでいるから、自己と他者の境界が、あたかもあるように見えますけれど。
 体験という経験の「素[そ]」の部分では、そもそもそういう区別はないと思います。

司会の有本匡男さん


司会 瞑想されるときの目的について今、非常に深いお話が出ましたけれども。これまでお二人がお話されたことからも、やはり、達人(=長年の経験と豊富な実績で道を究めた人)は、同じような視点で同じようなことをおっしゃるのだと、あらためて感じています。成瀬さんはどう思われますか?

成瀬 僕は難しい話には参加しないよ(笑)。

司会 (笑)。では話題を変えますね。
 第一回で、成瀬さんのところに「会社の仕事が性に合わないので、ヒマラヤで修行をしたい」と訪れたビジネスマンのお話がありましたが、「楽になりたい」もしくは、解脱や悟りといった、何か“超常的なこと”を期待して、瞑想を始める方も、少なからずいらっしゃると思います。
 成瀬さんご自身が瞑想を実践される中で、印象的な経験や気づきがありましたら、教えていただけますか。

成瀬 ヨーガでも、おそらく禅でも皆さんの生き方でも、重要なのは基本的に何にでも興味をもつ必要があるということなんです。印象的な経験云々よりも。

 何にでも興味をもつことで、自分を知るツールがいっぱいやって来ます。例えば、自分が興味がある遊びでもスポーツでもいいから、「面白そうだな」と思ったら、すぐやってみるんです。
 僕の場合は、たとえ「あんまり向いてないかもな」と思っても、すぐやる。やってみて初めて、向いていないことが分かるわけですよ。それって、自分を知る作業なんです。

 思うだけでやらないのは、自分を知る作業にはなりません。「これは向いてる」「これは向いてない」と、自分の頭だけで考えて納得しても、身体は納得しない。そうすると、自分自身が“知った”ことにはならないんです。
 まずやってみること。そのことで本当に身体で分かるわけです。それが自分を知る作業の、ワンステップ、ツーステップになってきます。

 だから外に興味をもつというのは、自分を知る作業として、とても大事なことなんです、実は。

司会 具体的な実践例として挙げられることがありましたら、教えていただけますか。

成瀬 例えば今、この会場には60人の方がいますね。暇なのでつい、数えてしまった(笑)。要するに何にでも興味を、面白いと思った方に興味が惹かれること。そういう“興味をもつこと”自体が、自分を知る作業なんです。

 それと今年入ってから、絵、—僕は瞑想画と呼んでいますが—を描いていて、今八十何作目かに取りかかっています。墨でメインになるものを描いて、その周りにまたいろいろな細かいものを描きます。

 もともと全然絵の才能はないと思っていたのに、何かやりたくなって。そうしたら「これは絶対売ったほうがいい」と話があり、額に入れて作品として販売されることになりました。墨で描いたものは外国の方にうけるので、海外で個展を開かないかとも言われていて。
 僕は本当はタダであげたいくらいなんだけど。最近はそんなことを、つい面白くてやっています。


司会 実はこの対談のために、一照さんと打ち合わせで伺った際に、その瞑想画を見せていただきまして。

藤田 はい、実物を拝見させていただきました。面白いうことに、上下にひっくり返してもOK、縦にしても横にしても大丈夫というふうに、いろいろな見方ができるんですよ。すごく不思議な感じのする絵でした。

成瀬 瞑想って、そういうものなんです。ここからしか見ちゃいけないというのはないので。どんどん広がっていく世界だから。だから僕の描いている瞑想画も、たとえ額縁はあっても、それを突き抜けるくらいのつもりで描いてます。

 抽象画のような、一見するとわけの分からない絵でも、飾ろうとすると「それ逆です」と作者から指摘されることがありますよね。絵でも書道もそうですけど、通常は必ず天地があるわけです。「こっちが上、こっちが下」って。
 でもそれは、瞑想的ではないと思うんですね。

藤田 視点が一カ所に定まってしまっているから?

成瀬 「こっちからしか見ちゃいけない」というのでは、瞑想的じゃない。瞑想って、どこから見てもいいと思うので。僕の瞑想画は上下も何もない。逆さまでも、斜めに飾ってくれてもOK。だから普通、作者のサインって右下とか決められた一カ所に入れるでしょ。でもそうすると、上下が決まっちゃうんですよ。なので僕は、サインを斜めに二つ、入れているんです。そうすると、どこから飾っても大丈夫だから。日によって、飾り方を毎日変える人もいますね。

司会 絵を飾ることが自分の探求にもなるということですね。「何で今日は、この方向で飾ったのかな?」という問いを、自分に投げるような。

藤田 ということは、その絵を見ることが瞑想を誘う行為でもありますね。

成瀬 そうそう。墨でパッと描くことに、僕のヒマラヤでの瞑想体験をそのまま移し込んでいます。エネルギー的にも合うと思うんですけど。

司会 まさに瞑想から生まれた一つの実践が、瞑想画だということですね。では一照さんはいかがでしょうか? 曹洞宗の非常に長い伝統がある中で、いろいろなことが語られていると思うのですが。

藤田 曹洞宗の伝統って、「こういう体験をした」ということは、あまり言わないんです。「いいことが起こったら、もちろん喜んでもいいけれど、その体験にとどまらないであっさり通りすぎなさい」と言われますね。
 ネガティブな体験だったら「なるべく早くそこから去りなさい」と言いますし、いい体験、例えば仏に会ったらそこは「もっと早く去りなさい」と(笑)。

 これは真理の一面をとらえた良いアドバイスだと思います。体験をあまりに重視しすぎる弊害は、宗教的な体験も欲望の対象になってしまうというところにあります。欲望を離れようと思って始めた瞑想なのに、瞑想する中で起こる体験が特別なものであればあるほど、それがいつしか欲望の対象になってしまっていることに自分で気がついていない。

 こういうことはくれぐれも気をつけなければいけないことなのに、往々にしてそうなりがちなんですよね。だから曹洞宗では、師匠や先達がいた方が安全、あいにくそういう人物がいない場合は自分で気を付けるしかないけど、見守ってくれる人がいた方が安全、という言い方はされていますね。

成瀬 結局、僕らは同じことを言ってるのかもしれないね。ネガティブな体験というのは、悪魔ではなく、何か変なものということ?

藤田 不快な感情とか自己否定的な思考とかなにか怖いものが現れるとか……。

成瀬 変なものが来たら「去りなさい」、楽しい思いもサッと「去りなさい」。でも僕は、変なものが来たら「しっかり味わいたい」ね。

藤田 いや実は、僕もそれ言おうと思ってました。成瀬さんもそう言われるだろうなと思ってましたよ(笑)。

成瀬 大好きですね、イヤなこととか、変なものが。ケガでも病気でも大好きなんでね。自分に起こることは全て、特に面白いんです。

 だってちょっとこう、小指をケガしただけで、つかむのが難しくなるじゃないですか。難しいということは、ふだんフッと何気なくつかんでいたのがそうじゃなくなるので、「こうやればいいのか」「ああやればいいのか」と、いろいろ頭を使うわけです。

 脚をケガしたら、歩き方が変になりますよね。この変な歩き方しかできないのこともまた、「面白いな」となるわけですよ。何でも面白い。
 昨年の達人対談(※)でも、おなかの話をしましたけどね。どなたでも、おなかが痛くなるとトイレに行きますよね、ウ〜ンと脂汗が出てきますよね。これ最高ですよね!
※昨年の達人対談は、DVD「達人対談2015 成瀬雅春&神尾学 対談」(熊猫堂)として発売中。

会場 (爆笑)。

成瀬 おなかが痛くて「ウ〜〜ン」となる、これは一過性のこと。下痢でおなかが下ってしまえば、あとはスカッとなりますよね。この「スカッ」とが後でくるのが分かっているから、今、脂汗はもうちょっと流れた方がいいかなと。

 もうちょっと痛くなったら、この「スカッ」が、さらに「スカッ!」となるわけですよ。それを思うともう、ほくそ笑んじゃうんですよ、嬉しくて。もうちょっと痛くなったら、その後がもっと楽しくなる。
 だから自分に起こる変なこととか、イヤなことって、大好きなんです。面白くて面白くて、しょうがない。幽霊なんか大歓迎。

藤田 ええ。禅の中でも、今成瀬さんが言ったみたいな言い方はされています。僕も変なものが来たら「せっかく出会ったんだから、しっかり味わったほうがいい」(笑)。アメリカに住んでいた頃、それとはちょっと違う言われ方をしたことがありました。

 南方系のヴィパッサナー[編註:Vipassana=瞑想法のひとつで、観行瞑想とも呼ばれる。現代的にアレンジしたもののなかに、マインドフル瞑想も含まれる]という瞑想法の10日間のコースを何度か体験したんですけど。そこでは何が起きても、逃げるのでもなく、溺れるのでもなく、ニュートラルな状態であり続けて、それがどう変化するかを辛抱強く見守っていきなさい、という指導を受けながら坐るんです。

成瀬 そういう指導がある方が、安全かもね。

藤田 それをやっていると、勝手に向こう=変なものの方でいなくなってくれる。僕が去るわけではなくて向こうがいなくなっちゃう。だから「いい体験からも悪い体験からも、早く去りなさい」という教えは多分、読み間違いをしてるんじゃないかなと、僕は思いました。
 それよりは「去らせなさい=Let it go」という感じですね。僕が去るのではなく。禅とは違う伝統にふれたから気がついたことなので、やってみてよかったなと、僕は思っています。

成瀬 僕なんかは、体験することを面白がるけれど、それには溺れないのでね、全然。淡々と面白がっているので、全然影響を受けないからいいんじゃないですかね。

司会 淡々と面白がることができない場合、先ほど言われた危険性がでてきますよね。「あの体験があったからよかったのに」と後々になって、至福体験に執着することはないのですね。

成瀬 ええ。執着はしないですね。

(第二回目 了)




--Profile--

成瀬雅春(Masaharu Naruse)写真左
ヨーガ行者、ヨーガ指導者。12歳の頃に「即身成仏」願望が生じ、今日までハタ・ヨーガを中心に独自の修行を続けている。1976年からヨーガ指導を始め、1977年2月の初渡印以来、インド、チベット、モンゴル、ブータンなどを数十回訪れている。2011年6月、ガンジス河源流ゴームク(3892m)での12年のヒマラヤ修行を終える。現在、日本とインドを中心にヨーガ指導、講演等の活動をおこなっている。著書多数。
Web site​ 成瀬ヨーガグループ

藤田 一照(Issho Fujita)写真中央
曹洞宗国際センター2代目所長。東京大学大学院教育心理学専攻博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。33歳で渡米し、以来17年半にわたってアメリカのパイオニア・ヴァレー禅堂で禅の指導を行う。現在、葉山を中心に坐禅の研究・指導にあたっている。著作に『現代坐禅講義 – 只管打坐への道』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(幻冬舎新書、山下良道氏との共著)、『禅の教室』(中公新書、伊藤比呂美氏との共著)、訳書に『禅マインド・ビギナーズ マインド2』(サンガ新書)など多数。
Web site​ 藤田一照公式サイト

有本匡男(Masao Arimoto)写真右
(株)ホリスティックヘルスケア研究所マネージャー、(NPO法人)日本ホリスティック医学協会常任理事。幼少期に、仏教の考えに触れ、「幸せとは」について考え始める。2002年よりセラピストとして活動を開始、同時にヨガ、哲学を学び始める。2007年より「teate(てあて)セラピー」を始める。現在は講演、ワークショップを通じて、「teateセラピー」やホリスティックヘルスケアの普及につとめている。
Web site​ ホリスティックヘルスケア研究所

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