論考とグラス ―The Long Introduction― 0-1
1月初旬、空には何もなかった。家屋や電柱、標識や街路樹、町に切り取られたブルー。その端が、白みを帯びながら地上に接している。他には何もない。雲はない。雨はなく雪もない。雷もなく、雹もない。光る星もなく、流れる星もない。太陽だけが僕の背後で輝いている。飛んでいる鳥も、浮かんでいる飛行機もなかった。
大学院の先輩から聞いた公園は小高い丘の住宅街にあった。入口の標識には小松一号街区公園と書かれていた。標識は淡いが重みのある青緑色をしていて、文字は毛筆のかすれが見て取れるような書体だった。北東の入り口から小道が南西に伸びていて、子ども用の自転車が3台停まっている。右手の藤棚ではむき出しの枝が交錯し、下にあるベンチの周りで4人の子どもが集まっていた。藤棚の向こう側には遊具やすべり台、ブランコ、それに砂場があって、3組の大人と子どもの姿が見える。反対側の芝生にも多くの人々がいて、男性と男の子がサッカーボールを蹴り合ったり、5、6人の男子と女子が一列に並んで走ったりしていた。芝生の縁や、それを囲む園路を高齢の男女が歩いている。南の離れた東屋には4人の姿が見えた。公園には多くの人がいた。
「日曜日の午後、2時から4時くらいにその公園に行けば、たぶんひとりでいるはずだからすぐ分かると思うよ」
それが先輩から聞いた女性の特徴だった。
南東の道路に面した園内に木々が並び、木陰に木製のベンチが等間隔に3つ置かれている。ひとつのベンチの隣で女性がディレクターズ・チェアに座っていた。モノトーンのシルエットが周囲の冬枯れた緑から浮かんでいる。淡いグレーのロングコートはわずかにベージュがかっていて、幅の広い襟を除けばほとんど装飾が見当たらない。内に着ているパーカーの黒いフードが襟から出ていて、女性が身に着けているものの中で唯一マフラーが色を持っている。オレンジ色でグラデーションのさまざまな三角形が幾何学的に組み合わされ、実際以上に複雑な巻き方をしているように錯覚する。コートの内側で足首まで広がったブラックスカートには細かな折り目が縦に入っている。モノクロのスニーカーは黒地の側面に白いロゴが大きく描かれたものだ。身長は160センチくらいに見えるが、座っているので正確には分からない。太ってもいないし痩せてもいない、標準的な体型に見える。髪は黒のストレートで、木洩れ日を銀色に反射しながら毛先がすこし内側に巻かれて肩下までおりている。顔は卵型と逆三角形型の中間といったところだろうか。中央に縁の太いメガネがかけられている。
公園の中で、女性は明らかに浮いて見えた。服装が公園にいるものには見えなかったし、広い公園の中でひとりでいるのも彼女だけだった。それらの事実は僕にわずかなためらいを生じさせた。
「Nさん、ですか?」
すこし気後れを感じつつ僕は女性に声をかけた。
「伊賀美先輩の後輩です」
僕の言葉を聞き終える前に、女性は「ああ」と応じ、
「それで、あなたは『論考』についてなにを知りたいんですか?」と訊いた。
「先輩から、Nさんと話してみれば『論考』についていろいろ分かると思うよって聞いて」
言葉の途中でNは額に指をあて、肩で息を大きく吸って吐いた。それから隣のベンチに積まれた本の背表紙を指でなぞり、分厚い黒の本を取り出した。ページをめくりつつ、なにか独り言を言っているのが聞こえた。
「…知りたいことが分からない…なにを知りたいか…知りたいことを知る…。ああ、これですね」
そう言って開いたページを指差している。黒に白抜きの文字で、大きくカルテ・クセジュと書いてあるのが見えた。
「分かりました。そういうことでしたら、自分がこれからいくつか質問しますので、あなたはそれに答えていただけますか?」
時おり頬に触れる風にNの声は冷たさを増した。僕は何度か小さくうなずいた。
質問1 『論考』について思い浮かぶことは何があるか?
「『論理哲学論考』について、思い浮かぶことはなにかありますか? どんなことでも構わないので、できるだけたくさん挙げてみてください」
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」
Nは左手で本を開いたまま、膝上に置いたバインダーの紙に右手で「語りえぬもの→沈黙」と書いた。
「ほかにはなにがありますか?」
「『論考』、というよりウィトゲンシュタインについてですが、先輩から聞いた話で、確か博士論文の審査会かなにかで、論文を審査する教授たちに向かって『君たちが理解できないのは分かっているから安心していい』、みたいに言ったこと。『ぜひ君もそうしてくれっ!』って先輩が自分に言って」
Nは再びペンを動かし、終わると「はい」と言った。
「あと、最初の方で世界と事実について書いてあること」
「世界と事実。はい」
「それから事実と事態がどうとか」
「事実と事態。はい」
「それと、序文に書いてある思考の限界」
「思考の限界。はい」
「思考の限界は言語の限界と関係していること」
「思考の限界と言語の限界。はい」
「たしかナンセンスはキーワードなのかな」
「ナンセンス。はい」
「あとは『論考』がいわゆる論文の体裁をとっていなくて、引用文献などを書いていないこと」
「引用文献。はい」
「言葉だけですが、写像理論も聞いたことはあります」
「写像理論。はい」
「いま思い浮かぶのはそのくらいです」
「いちにいさんしいごおろくななはちきゅう、9つですね」
「はい」
質問2 それらの中で知っていることは何があるか?
「いまあなたが挙げたこれら9つの中で、知っていることはなにがありますか?」
Nは持っていたバインダーをこちらに向けた。僕がさっき言った9つが紙に書かれている。
語りえぬもの→沈黙
審査会の話
世界と事実
事実と事態
思考の限界
思考の限界~言語の限界
ナンセンス
引用文献ない
写像理論
「3の『世界と事実』について書かれている最初の部分は読みました」
「どこまでですか?」
「世界は成立していることがら、事実の総体である。事実をすべて集めれば、それが世界になる。逆に言えば、世界をどこまでも細かく分解していくと、個々の事実に分けられる」
「質問はよく聴いていただけますか? 私が尋ねたのは『どこまで』、です」
「すみません、どこまでかはちょっと」
「ほかに知っていることはありますか?」
「あと序文に書かれている5。思考の限界を直接的に決めることはできない。なぜなら、人間がなにを考えることができて、なにを考えることはできないか、それを考えるためには、なにを考えられないかを考えることができないといけない。でもそれは矛盾している。したがって、人はなにが思考可能で、なにが思考不可能であるかそのものを考えることはできない」
僕が話している途中、大きなメガネの奥でNの鋭い目がほんのすこし開かれたのが見えた。
「まだなにかありますか?」
「6は5のつづきで、思考の限界を決めるために、ウィトゲンシュタインは言語の限界でそれを決められると考えた。知ってるのはそれくらいです。ただ、なぜそう言えるのか僕には分かりません。少なくとも僕は言語だけでものを考えてない。言語より思考の方が、僕にとっては広い概念だから。彼が前提としている思考イコール言語の考え方には疑問を感じます」
質問3 それらは辞書や事典に何と書いてあるか?
「いま挙げた3つ、『世界と事実』、『思考の限界』、『言語の限界』、これらは辞書や事典などになんと書いてありますか?」
「辞書や事典…」
僕が言葉を失っているとNがベンチの上に置かれた電子辞書を手渡し、それからスマートフォンをこちらへ向けた。
「よかったらどうぞ」
画面にはコトバンクと表示されている。
世界の意味
僕は電子辞書の『広辞苑』で「世界」と入力した。
「これも使わないといけないんでしょうか?」
僕は渡されたスマートフォンを彼女へ向けた。Nは首を傾ける。
「それはあなた次第ですね。1つの辞書であなたは世界について十分満足に知り得た。いま説明を読んで分からなかったことはなに1つない。なんの疑問も、いかなる知的好奇心も湧かなかったのであれば、あなたがそう感じるならそれでいいのではないでしょうか?」
僕はもう一度『広辞苑』の説明を見た。それからスマートフォンで『コトバンク』の検索窓に「世界」と入れた。複数の事典の名前と多くの説明が載っている。
「これ、ぜんぶ読んだ方がいいんですか?」
「もう一度いいますね。私は同じことを言うのがあまり好きではないのですが、それはすべてあなた次第です」
「なにかこう、読み方のコツとかないんですか?」
「粗から密。たとえばまず記述の短いものから見て、それから長いものへと順に見ていく、という考え方はあります」
彼女の言う通り、僕は検索結果で解説の短いものから順に見ていった。
「とりあえず世界の原義、もともとの意味は仏教の言葉で世は過去、現在、未来の三世を、界は東西南北上下を指す、というのは分かりました。言い換えれば、世界は時間と空間で、その中で衆生、生き物が住む領域全体を表す。ただ、それ以外にもたくさん細かな意味があって頭の中がごちゃごちゃする。どうすればうまく意味を整理できるんだろう…」
「いまのは良い質問ですね。答えは1つではないと思いますが、たとえばシネクドキの視点を使うのはいいかもしれません」
「死ね、口説き…」
「行きつけのバーでお酒をひとり嗜んでいたところ、見るからにチャラく、目の奥がすっからかんで中身のなさそうな男に声を掛けられて丁重にお断りしたあとに独り言ちた台詞、みたいな区切り方をしないでください。シネクドキ、日本語だと提喩と言う修辞法の一種です。もとの技法の詳しい説明は省略しますが、概念の上下関係を利用したもので、その考え方を使って世界のごちゃごちゃしている概念を整理してみる、というのはどうでしょう?」
「なるほど、高次因子分析モデルみたいに」
「あるいは共分散構造分析のように」
僕は再び検索結果を見直した。
「どの意味から上下関係を整理するのが最も簡単なんだろう」
「たとえば最も大きな意味、一番上に位置する意味を見つけて、順番に下っていってみてはどうですか?」
「それなら、さっき話した『空間と時間のすべて』かな。『広辞苑』の1や『デジタル大辞泉』の7、『日本国語大辞典』の1にある」
「それは少し違いませんか? 『広辞苑』には『宇宙の中の一区域』とありますし、さきほどあなたは『時間と空間の内、生き物が住む領域全体』と。それはいわゆる宇宙全体ではないのでは?」
「そう言われればそうだ。世界には宇宙全体の意味はないんだろうか…いや、ありますあります。『デジタル大辞泉』の7のウ、それに『日本国語大辞典』の9に『宇宙』とあるので、これがいちばん上だ」
「だとすると、『宇宙』は先ほどの『時間と空間の内、生き物が住む領域全体』とはどういった関係になるんでしょう?」
「えーっと、『宇宙』の全体がまずあって、その内の一部が『衆生、すべての生き物が住む領域』」
「つまり『宇宙』は2つに分けられる。『生物が住むところ』か、それ以外か」
「その下になるのは…これかな、『地球』。『日本国語大辞典』の2のハ。それに『デジタル大辞泉』の1は惑星としての『地球』と読んで問題ないですよね?」
「『宇宙で生物が住む領域』の内に『地球』がある」
「と、それ以外。そうすると、つぎは『人間社会のすべて』、いや『すべての国家』の方が大きいか。『広辞苑』の2、あと『デジタル大辞泉』の1、『日本国語大辞典』は2のハ。つまり、世界としての『地球』は『すべての国家』と、それ以外に分けられる。『地球』を世界と呼ぶこともあるし、その一部の『すべての国家』の領域だけを世界と言うこともある。そして同じように『地球』の世界も生物が住む世界の中にあって、それもまた宇宙すべての世界の中に含まれる」
「世界はマトリョーシカ」
「世界はマトリョーシカで、高次因子分析モデル。それにパソコンフォルダみたいだ」
「そのように見ることもできる」
「紙とペン、すこし貸してもらえますか?」
「どうぞ」
「ありがとう」と僕は言って、これまで話してきた世界と、残りの世界の意味を紙に書き進めた。
「こうして見ると、人間はいろいろなレベルの領域を世界と呼ぶ。まず世界には時間と空間の意味が含まれる。時間は三世、過去、現在、未来に分けられる。時間の方の意味はあまりない。『歌舞伎や浄瑠璃などの時代背景』くらい。反対に、空間の方は意味が多い。まず『宇宙全体』を世界と呼ぶ。それから『宇宙の内で生物がいる領域』、『地球』、『すべての国家』、『人間社会』、さらにそれは『自分が知っている社会』と『自分が知らない社会』に分けられて、これはどちらも世界と呼ぶ。それらの内で『人の住む地方』、自分に見えて認識できる『あたり一帯』。『ある特定範囲の社会』、その具体例として『遊興の場』。さらに、ある特定範囲の社会に属する『同類の人々』と、その人々の『特定の活動範囲』。そして、もっとも小さな領域は『自分だけの活動範囲』。あと『世間』の単語は世界にすこし似て、これもいくつかのレベルの領域を同じ言葉で呼ばれる。世界は4次元空間。東西のx軸、南北のy軸、それに上下のz軸で3次元、そこに時間のtが加わって4次元空間。その大小いろいろな領域を人間は世界と呼ぶ」
「世界がずいぶん見えやすくなりましたね」
「しかし、どうして世界はこんなに細かく分かれてしまったんでしょう」
「興味深い疑問です」
「すぐ思いつく理由は、たとえば人間の自己中心性です。『宇宙全体』の中で、『生物が存在する領域』には世界の意味があるのに、それ以外にはない。両者を分ける条件は生物がいるかいないか。さらにその内、『地球』は意味にあるけどそれ以外はない。違いは人間がいるかどうか。同じように、『すべての国家』とそれ以外は国家があるかないか。『人間社会』とその他は社会があるか。『あたり一帯』は自分に見えるか。領域の大きさに関係なく、世界とそれ以外の区別で共通するのは、自分自身に関わる領域は世界に含まれるが、そうでない領域は含まれない。見える、知っている、認識できる。自分の属する人間社会がある。自分の属する国家、自分たち人間の属する地球、人間の属する生物が存在する。なにが世界と呼ばれ、なには世界と呼ばれないのかを見渡してみるとそんな風に思えます。『自分の世界』はその極地ではないでしょうか?」
「あなたは、あまり人間をよく感じていないように見えますね」
彼女の言葉が僕の口を閉じる。
「そこにはあなた自身も含まれる」
芝生の離れた方から子どもの小さな泣き声が聞こえた。
「あなたはよくない人々を見過ぎてしまったのではないでしょうか? それで人間はよくないものだと思い込んでしまった。人間をよくない存在だと思うあなたには、人間のよくない部分がよく見えてしまう。あなたに必要なのは、よい人々を知ることかもしれない。よい人々をたくさん見ること。よい人々の、よいところを。それはつまり、あなたの世界を広げるということです」
子どもの泣き声は大きくなることも小さくなることもなく続いている。Nは髪を手でつかむように3回すいてから「すみません」と言った。
「すこし脱線させてしまいました。世界の話に戻りましょう」
Nの言葉に喚起された自分自身の世界から僕はまだ戻れずにいた。薄暗い空間に小さな円で区切られた領域がある。真ん中に人がいて、その人は僕の姿をしている。僕はその人の目から暗い空間を見る。円の内側に灰色の人影がいるのが見える。人影たちは狭い円の内側をうろついている。歩き、重なり、倒れ、崩れ、合わさる。灰色の塊はもう人の形を成していない。辺り一面を灰色が覆っている。最初に見えていた小さな円の境界は、いまはもう見えない。
「そうですね」と僕は応え、「世界に戻りましょう」と言った。
事実の意味
「そうとはいえ、世界についてはいったん整理がついたのではないでしょうか?」
「つぎは、事実か」
世界と同じように、僕は事実を調べた。
「世界と違って、事実は少ないですね」
「3つに共通する意味は、事実は真実。現実であること。実際に起こったことがら。それが事実。おそらくこれが最も基本となる意味ですね。そこに哲学だったり、法律の分野だと意味が加わる。哲学では、本来神によって成されたことを意味する。時間と空間内で見出だされる存在、または出来事。時間と空間を世界と呼んだことと合わせると、事実は世界の内にある、と言ってよいかもしれない。世界の内に事実はあって、それは存在でもあり、出来事でもある。事実は現実にあった真実だから、反対に現実に存在しないもの、幻想や虚構、可能性と対立する。あと当為的なものと対立するともあるけど…当為?」
Nを見ると、彼女は両方の手のひらをどうぞといった風にこちらへ向けている。
僕は『広辞苑』で当為を調べた。
「人間の理想として『まさになすべきこと』、『まさにあるべきこと』。これは簡単に言えば、理想ってことだろうか。現実と理想。事実が現実なら、理想が当為。振る舞い方や、存在の仕方としての理想」
「それが当為」
「ほかにも事実の性質がいくつか説明されている。まず、事実は論理的必然性がない。論理的必然性…」
「哲学の専門用語ですか?」
僕は再び『広辞苑』で調べた。
「辞書によると、哲学における必然性のひとつみたいですね。3つの必然性、論理的必然性、倫理的必然性、自然的必然性。論理的必然性は、前提から結論が論理法則に従って導かれること、そしてそれ以外はありえないこと、といった意味のようですけど」
「必然性には、論理によって必ずそうなると導かれるもの、倫理によって定められるもの、自然によって決められるもの、3つがあるということでしょうか?」
「そうか、論理性と必然性を分ければいいのかもしれない。事実には必然性がなく、論理性もない」
僕は紙に表を書いてみる。
「この4つのマスの内、必然性もなく、論理性もないここが事実。うーん」
「なにか引っかかる?」
「事実には必然性も論理性もないのは分かったけど、そもそも事実に必然性があるかないか、事実に論理性があるかないか、ということがよく分からない。事実に必然性がない、というのは、すべての事実には必ず必然性がない、という意味だろうか。すなわち、必然性のある事実は絶対に存在しない」
「たとえば、あなたと私は今日はじめて会った。これは事実です。ではこの事実に必然性はあるでしょうか?」
「ないです。なぜなら、僕たちが今日会うことは必ずそうと決められていた訳ではないから。僕たちには今日ここで会わない可能性もあった。たとえば僕がウィトゲンシュタインや『論考』に興味を持たなければ、たとえばNさんを紹介してくれた先輩と僕が親しくしていなければ、たとえばこの公園に来る途中に僕が事故で死んでいれば、たとえば僕が人間ではなく魚だったら、僕たちには今日会わなかった可能性があった」
「事実には必然性のない事実がある。しかしながら、私たちが今日必然性のない出会いをしたことは、世界に必然性のない事実が少なくとも1つあることの証明にはなりますが、すべての事実に必然性がないことまでは意味しません」
「すべての事実に必然性がない。それは悪魔の証明、証明不可能ではないでしょうか?」
「視点を変えてみるのはどうでしょう? 必然性のない事実があることは分かりました。いまあなたが問題としているのは、すべての事実には必然性がないのか、ですね。言い換えれば、必然性のある事実は1つもないのか?」
「そうか。必然性のある事実を1つでも見つけられれば、『すべての事実には必然性がない』は棄却され、否定される」
「さきほど面白いことを言っていました。あなたがここへ来る途中に事故で亡くなっていれば、私たちが今日出会うことはなかった。これは2つのことがらから成り立っています。後者に必然性がないことはさっき話した通りですね」
「前者は『僕がここへ来る途中に事故で死ぬ』。これにもやはり必然性はない。ここへ来るまでに、僕は事故で死ぬ可能性もあったが死なない可能性もあった。実際、僕は死んでいない」
「死んでいないことはなく、死なずにいる」
「いや、でも2つの関係で見れば違うかもしれない。そう。僕があなたに会っているということは、僕は生きているということ。これは必然的な事実じゃないでしょうか? 要するに、僕たちが会っていること、それが事実として成立する限りにおいて、僕が生きている事実には必然性がある。少なくとも、人と人が会うことをそういう風に定義するならば」
「亡くなったあなたの遺体と会う、死んだあなたの霊魂と会う、または他界して転生し犬になったあなたと会う。会うことからそういう出会い方を除けば、すなわち生きている2人以上の人がお互いの存在を認識する、それを会うと呼ぶなら」
「僕たちが会えた以上、僕が、それにあなたが生きていたことは必然的な事実です」
「そう考えると、『事実には論理的必然性がない』の記述と矛盾しませんか?」
「この事実には必然性もあるし、論理性もあるように思える。それはどう理解すればいいのだろう?」
「『事実には論理的必然性がない』と辞書や事典にはある。しかし、論理的必然性のある事実は存在する。辞書などの記述が間違っている?」
「『ない』の意味が不明確なんじゃないだろうか? 事実に論理的必然性がないの『ない』は、『事実の条件ではない』と理解すればいいんじゃないでしょうか」
「『ない』は『事実の条件ではない』の『ない』?」
「『事実には必然性がない』は、『必然性は事実の条件ではない』の意味ではないかと。とりあえず論理性は置いといていまは必然性だけに絞ります。つまりこういうことです」
「この図で考えてみれば事実と必然性がどういった関係にあるか分かるような気がします」
「ベン図ですね」
「こちらの円は事実とそれ以外を分ける境界線。もう一方の円は必然性のあるものとそれ以外を分けるものです。事実とそれ以外、とりあえず非事実とします。それらは2通り。必然性の有無も2通りなので4つの領域に分けられる。これで領域それぞれに該当する要素があるかどうかを調べていけば、それらがどういった関係性にあるのか分かるはずです」
「すこし簡単な例で説明していただけませんか? 私はあなたの考え方に少々付いていけていないようです。」
「では事実をリンゴ、必然性を果物に換えてみます」
「この場合、まず灰色の円はリンゴの区分。リンゴとリンゴ以外のものを分ける」
「ふじ、つがる、紅玉、王林、ガソリン、アドレナリン」
「もう一方の円は果物の区分。分けるのは果物と果物以外」
「グレープフルーツ、トマト、巨峰、豆腐、ウメ、イチジク」
「このとき、フラットに考えれば、やはりそれらは4つの領域に分けられる。①はリンゴであり果物の領域。②はリンゴであり果物以外の領域。③はリンゴ以外で果物の領域。④はリンゴ以外で果物以外の領域」
「それはおかしくありませんか? リンゴであって果物ではない②の領域、そんな物は存在しません」
「逆に言えば、②以外の領域には当てはまるものがすべてある。たとえば1つ目、リンゴでありかつ果物のものは」
「ふじ、つがる、紅玉、王林」
「リンゴ以外で果物のものは、グレープフルーツ、巨峰、ウメ、イチジク」
「リンゴでも果物でもないのはガソリン、アドレナリン、トマト、豆腐」
「そして、リンゴであって果物でないものは存在しない。したがって」
僕は図を書き直す。
「この図はこう書き換えられる」
「①はリンゴであるもの。②は果物であるもの。そして、リンゴは果物なので①はすべて②に含まれる。果物にはリンゴでないものもある」
「リンゴであれば果物であるけど、果物だからといってリンゴであるとは限らない」
「③は果物でないもの」
「果物でないものは当然リンゴでもない。なるほど。あなたの考え方は理解できました。同じことを事実と必然性にも採用するのですね」
PDCA、ロテン、喩え
「事実の区分、必然性の区分。それらはやはり領域を4つに分割する」
僕の書いた図にNが言葉を書き込んだ。それぞれの領域に番号が振られ、あとに言葉と記号が書かれている。
「いちおう確認しておきたいんですが、このジというのは事実、ヒは必然性ですか?」
「それ以外の可能性がなにかありますか?」
「だとするとこのnや記号。かつは分かりますが、このnやかぎ括弧みたいなのは?」
「どちらもnotです。notのn、この記号もnotと同じ、否定を意味する論理記号です」
「どうして書き方を同じにしなかったんでしょう?」
「PDCAです」
「計画、実行、評価、改善」
「まず私はなにも考えず①を書きました。そういう意味では計画のない実行から始まったわけです」
「そして改善した」
「②を書くとき、この書き方は面倒だと気づきました。評価です」
「だから記号を」
「いかに書く労力や負担を減らし、同じ意味をどれだけ楽に書くことができるか」
「結果、文字を減らし、漢字はカタカナへ、意味は記号に改善したと」
彼女は前方の空間で両手を2度同じように動かした。それらは小さな四角と大きな四角に僕の目には見えた。
「ロテンです」
僕は首を傾げる。
「今日の最高気温は11度。いまが14時をすこし過ぎたくらいですので、ちょうどそのくらいでしょう。気温11度における飽和水蒸気量はおよそ10グラム毎立方メートル。いまは快晴で空気もずいぶん乾燥しています。天気予報によればこの時刻の湿度は35%。したがって、水蒸気量は3.5グラム毎立方メートルと推測される」
Nは両脚を両手で抱えて体育座りのような格好になった。
「こうして縦横高さ各1メートルの空間に納まった私の周りには3.5グラムの水、正確に言えば、その気体である水蒸気があるわけです」
「その露点か。でもそれとさっきの話に何の関係が?」
「要するに私の最初の書き方が飽和水蒸気量で最後が露点です」
「なるほど。要するに新型ウィルスによるパンデミックは三百人委員会が劣等人種を淘汰し人類を補完するために起こしたもので、要するに世界中の自然災害も中国を仮想敵国としたアメリカの自然現象兵器の実験で、要するに全ては世界征服を目論むイルミナティの仕業ということですね」
「要するが飛躍し過ぎです。たとえば気温11度で湿度35%、飽和水蒸気量10グラムのいわば器に対して水蒸気量が実質3.5グラムしかない状態は無駄なんですよ。残り6.5グラム分も空いた部分がある」
「それが無駄だという発想が僕にはよく分かりませんが、あなたがそれを無駄だと考えているのはとりあえず分かりました」
「無駄は良くないものです。千利休も言っているようです。『釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な』」
「お茶の心得があるんですか?」
「さきほどコンビニで見かけたビジネス雑誌に書いてありました。偉人の名言で主張などに箔付けをするありふれた記事です」
「いずれにしても、それがあなたの評価なんですね」
「それで露点です」
「改善が露点」
「気温を露点にすれば、つまり実際の水蒸気量が飽和水蒸気量と等しくなる温度、露点まで下げれば無駄はなくなる。湿度100%です」
「なんというか、あなたの喩えは根本的な誤りを侵しているよう僕には感じられる」
「私の喩えが論理的に誤っていると?」
「アナロジーとして概念の対応関係、つまり労力や負担の多い無駄な書き方が飽和水蒸気量で、それらを減らす試みが温度を露点へ近づけること、というのは必ずしも間違ってはないと思います。問題なのは、喩える領域への飛ばし方、喩えの選び方の基準が一般的なそれと違うというか」
「私の喩えは分かりにくい、あなたはそう言いたいわけですね?」
「率直に言えば。一般的に、喩えというのはある物事の関係を別の物事の関係に置き換えることですが、目的は最初の物事の関係を分かりやすくすることです。したがって、置き換えられる物事は相手にとってなじみのある話題や分野、理解しやすかったりすでに理解できている領域が選ばれる。ですが、あなたの喩えは理解のための手段というより、なにかに喩えること、それ自体が目的となっている節がある」
「あなたは意外と頭が固い人なんですね。確かに、いまあなたがおっしゃった喩えは喩えとして正統な喩えではありますが、喩えはもっと自由なものではないでしょうか? 任意のことがらを理解する道具のみに喩えを貶めるあなたの思想は喩えの矮小化、喩えへの侮辱、喩えに対して失礼な行為と言わざるを得ません」
「しかし、あなたの喩えが理解困難であったことには変わりない」
「でもあなたは理解できた」
「私でなければ分からなかったかもしれない」
「いま現在において私が話している相手はあなただけですので、ここで私でなければ、という反実仮想は意味をなしません」
「そもそも、飽和水蒸気量の無駄をなくすために温度を露点へ近づけるという発想がおかしい。普通そこは水蒸気量を増やすところでしょう」
「ここには加湿器がありませんので」
「気温なら変えられるとでも?」
「話がずいぶんと脱線してはいませんか? 私の拙い記憶で大変恐縮ですが、確かあなたが今日ここへ来た目的は私を論理的にやりこめることではなかったと了解しています」
「残念ながら、あなたより確かな私の記憶でもそのようですね」
「それなら、私より確かなあなたの記憶に基づいて話を再開しましょう」
僕は小さく「クソッ」とつぶやく。
「いいでしょう。確かな僕の記憶が正しければ」
「確かなあなたの記憶は正しいので、その仮定は必要ありませんよ」
「あなたは僕を論破するためにここへ来たのですか?」
「私がここに来た目的は休日の午後を楽しむためです。お陰様で、いまのところ目的を果たせているようです」
「この野郎」、僕は歯を噛んだ。
「御覧の通り、私は女性ですのでいまの発言は事実に反しています」
「人を見た目で判断するのは良くない」
「証拠をお望みですか?」
僕は言葉に詰まる。
「しかしながらいまは休日の昼下がり。今日が初対面の私たちは、心地よい公園に相応しく事実と必然性のお話をしましょう。リンゴと果物の関係を調べた方法を採用するところでした」
事実と必然性の関係
事実と必然性はどういった関係か? さっき抱いた疑問を僕は思い出す。
「必然性のある事実は存在するか? この図で区切られた4つの領域を調べれば分かるはずです」
「リンゴと果物みたいに」
「まず①、この領域は事実であり、かつ必然性のあることがら。つまり、必然性のある事実」
「先ほど、あなたはその存在を示唆していました。必然性のある事実は存在する。いまこの場で私たちが会っている、その事実が成立している限りにおいて、私たちが互いに生きていることは必然性のある事実だと」
「そのように考えるなら、僕たちが出会えた以上、僕らが生きていたことは必然の事実だ。ただ…」
「なにかが引っかかる」
「必然性がある、というのをそういう風に捉えてよいのかが分からない」
「とりあえず、一旦先に進んでみてはどうでしょう? 分からないことがある、それをあなたは少なくとも分かっている」
「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ」
「必然性の有無について十分な理解がない前提ではあるが、現段階の理解においては必然性のある事実は存在する。そのように了解しておけば問題ないのではないでしょうか?」
「不明な前提が成り立つと仮定した上での暫定的な結論」
「ゆえに、前提が成り立つならば結論も成り立つが、前提が覆れば結論が成り立つかは不明。前提の真偽が分かったとき、再考すればよいと私は思います」
「では②に進みましょう。事実であり、かつ必然性のないことがら」
「これは簡単ですね」
「さっきの話なら、僕たちが今日ここで出会ったこと。これがそうだ。僕たちが出会うかどうか、これは必然性のない出来事だった。僕たちには会う可能性もあったし会わない可能性もあった」
「私たちにはいろいろな出会い方があったし、さまざまなすれ違い方があった。天気は快晴ではなく曇りや雨、降雪や暴風雨かもしれなかったし、ここは公園ではなかったかもしれない。道すがら事故で亡くなる可能性もあなたにはあった。急病に見舞われる事態もありえた。惰眠をむさぼる午後も、習い事に励む休暇もあった。アニメを鑑賞する選択があり、映画を倍速視聴する自由もあった。公園で私との出会いより、ホテルで恋人との密会を選ぶことだってできた」
「僕に恋人はいません」
「可能性としては存在した。しかし、あなたは可能性の恋人ではなく現実の私を選んだ」
「『論考』についてあなたから話を伺うことを僕は選んだ」
僕は彼女の語弊を正そうとする。
「いずれにせよ、このように必然性のない事実が少なくとも1つ存在することは明らかなので、②の領域は存在しますね」
「つぎは③か。事実ではなく、かつ必然性のあることがら。これはどう考えればいいんだろう」
「難しければ、先に簡単な方を済ませてはどうでしょう? これまでの議論から察するに、④について考える方が容易いよう私には思われます」
「事実ではなく、同時に必然性もないことがら。確かにこれは簡単だ。これまで使った例、僕たちが会っていること、僕たちが互いに生きていること、これらを使うなら僕は死んでいる、これは事実でもなく、必然性もない。僕が死んでいないのは明白な事実だし、もし僕が死んでいることに必然性があるのなら、つまりそれ以外の状況がありえないのなら、僕はいまここに存在できていないことになる」
「④の領域は存在する」
「そうか。必然性があるとは、あることがらがそれ以外にありえないこと、いついかなる場所においてもそれが正しい、真にしかなりえないということ。そう理解すればいいのかもしれない」
「正しくない、ということがありえない。偽の可能性が存在しない」
「たとえば僕が生きていること、これは現実に僕が生きていれば真、正しいし、現実で僕が生きていなければ正しくない、偽だ。それらはどちらの可能性も存在する。僕が生きていることは真にもなるし偽にもなる。だから、僕が生きていることには必然性がない」
「必然性の理解がすこしクリアになったようです」
「残った③に戻って考えてみよう。事実ではなく、必然性があることがら。真にしかなりえないが、事実ではないこと。そんなものは論理的にありえないのではないだろうか」
人はどこまでのものに会えるのか?
「そう結論を急がず、これまでと同様に具体例で考えてみてはどうでしょうか」
「僕たちは会っている。僕たちは生きている」
「主語が私たちだと、あなたが生きている、私が生きている、と2つの状況が含まれますので、あなただけにしては?」
「僕は君に会っている。僕は生きている。僕が君に会っているなら、僕は生きている」
「それが成立するためには、会うをどう定義するか、の前提がありました」
「そうか。これは三段論法だったんだな。会っているならば生きている。僕はあなたに会っている。ゆえに僕は生きている。ちょっと整理しよう。この3つの文を構成する要素は『会っている』、『生きている』、『僕』」
「厳密に言えば、『僕』であるあなたが会っている私の『あなた』も含まれますが、そこは省略ですね」
「それぞれを記号で表す。『会っている』をA、『生きている』はB、『僕』がC」
「集合A、集合B、集合C」
「それでさっきの論法をABCで簡単に表す。『会っているならば生きている』。これは『会っている』がA、『ならば』は⇒、『生きている』はBなので、A⇒B。同様に『僕はあなたに会っている』は、『僕』のCであるならば『あなたに会っている』Aだから、C⇒A」
「奇妙な日本語です」
「『僕』のCは『会っている』のAに含まれている、という意味です」
僕は紙にまたベン図を描く。
「2人の人が『会っている』からと言って、その2人が僕とあなたとは限らないけど、『僕』があなたと『会っている』なら、『僕』は『会っている』の中に含まれている。言い換えれば、誰かと出会った2人の中のひとりに『僕』がいる」
「AならばB、CならばA、ゆえにCならばB。あなたはそう言いたい訳ですね?」
「僕が間違っている?」
「いえ、間違っているとは思わないですが、あなたの話を聴いているうちに、私には会うことがよく分からなくなってしまったようです」
「いま僕たちは実際に会っている。これが会うってことでは?」
「はい。これが会うなのは分かります。私たちはさきほどここで出会いましたし、そこからいままで出会い続けています。そして、もうしばらく出会い続けるのでしょう」
「僕と会っていて、なおあなたには会うが分からない」
「私たちはどうして会えたのでしょう?」
「僕たちが生きているからです。僕があなたに会おうとしたから」
「意志ですか。それは私の考えにはありませんでした。意志は会うの条件かもしれない」
「あなたは会うの条件を考えて、分からないと感じているんですね」
「要素、と呼んでもよいかもしれません」
「会うを構成する要素、どうすれば人々は会うことができるのか? 人と人が会うための条件はなにか? 明らかなのは、2人以上の人が存在していることです。人はひとりで人に会うことはできない。会うためには自分のほかに少なくとも1人は相手がいる」
「人は人にしか会えないのですか? きょう私は可愛いらしいイヌに会った。そこであなたは寂しそうなネコに会う。これから私たちは黄昏のフクロウに会いに行く」
「あなたは動物にも会いたい」
「私たちはどこまでのものに会えるのでしょう?」
「オーケー、付き合いましょう。人には会える。これは確実です」
「イヌ、ネコ、哺乳類はどうですか?」
「あなたはヒグマに会いたいですか?」
「至近距離では会いたくないですが、会うことはできます。しかし哺乳類までではフクロウに会えません」
「鳥類」
「ハト、タカ、トンビ、カラス、ペリカン、ツル、オウム、セキセイインコ。ヤモリの赤ちゃんに会ったこともあります」
僕は首をひねる。
「夏の夜です。自室で私が読書をしていると、隣に積んであった本の山を小さなヤモリがペタペタ登っていました。でも数後日の真昼、庭のブロックの上に縮んで真っ黒に干からびた死体がありました。私の小指ほどの体がさらに小さく萎びていました」
僕は彼女の手を見た。淡いベージュグレーの袖からすっと伸びた小指は、わずかに赤みを帯びた白肌に木洩れ日を揺らしている。
「私はその子を拾いました。コチコチのカラカラ。煮干しみたいです。草の茂った土の上に置きました。この小さな体は、どのくらいで土に還れるのだろう? それとも、その前に鳥かなにかに食べられるだろうか? 鳥は死んだヤモリを食べるのだろうか? つらつらと、私は考えました。物思いにふけり、次第にそれが別の物事へ移っていくうち、ヤモリのことは忘れました。申し訳ないです。私には私の生活があります。幼くして、干からびて死んだヤモリのことだけを思いやり続けられるなら、それは真実です。善いことです。美しいことです。私の思いやりは美しくない。醜い思いやり。悪い思いやり。思いやりの偽物です。だけど仕方のないことです。私は生きた人間。私が生きている人間である以上、それは仕方のないことです」
僕の口は彼女にかけるべき言葉を探したが、結局見つけることはできず閉じたままだった。
「でもある夜、ヤモリは帰ってきました。私はまたヤモリの子どもに会えたのです。前見たのと同じように小さなヤモリでした。私はすこしほっとしました。最初に見たヤモリが生きていたと思ったからです。だけどそれは間違いですね。だって、私には目の前のヤモリが初めに見たヤモリなのか見分けがつきません」
彼女は両手を離して胸の前に上げた。
「冷静になれば、ヤモリは2匹以上いたわけです。私が最初に見たのはそのどれか1つ。そして干からびて死んだのもどちらか1つ」
Nの手が開かれ、人差し指が見えない線を空間に描く。
「私は最初にあるヤモリの子どもを見た。その子を和也としましょう。つぎに私は死んだ子を見た。私はそれが和也だと思ったわけですが、考えてみればそれが和也であったか、あるいは別の達也であったかを知る術はなかった。死体が和也の可能性もあるし、和也でない可能性もあった。そして、それぞれの可能性に対して、そのあと私が見たのが和也である場合、和也でない場合があった」
「矛盾がある。死んだのは和也だった場合、そのあと見たのが和也であった可能性はありえないです」
「不思議ですね。考えられる4つのケースで最もありえないもの、死んだのは和也でそのあと会った生きたのも和也、それを私は真っ先に信じてしまっている。そういう意味では、つぎもおかしい。私は死んだのを和也と思っていた。なら、生きた子を見たらまずそれは和也とは別の子と思うのが自然です。だけど、私は死んだのを和也と思っていたにも拘わらず、そのあと会ったのを和也だと信じた。死んだ子も、生きた子も、私はそれが和也かどうか見分けることができないのに」
「あなたは和也に生きていて欲しかった。それが理由じゃないでしょうか? だから生きていたのを見たとき、それを和也だと思った。思いたかった」
「矛盾しています。だとしたらどうして、私は死んだのが和也だと思ったのでしょう? もし和也が生きていることを私が望んでいたのなら、死んだ子を見たとき、それは和也でないと思うはずでは?」
「ひとつ考えられるのは、死んでいるのを見つけたとき、あなたはそれが和也でない可能性を想定できなかった」
「私の視野が狭かったと?」
「無理はないと思います。あなたは初めに赤ちゃんの和也に会った。そのあと同じ場所で、同じように小さな死体を見たら、それらを同じ子だと思ってしまうのは自然なことです。見ているものを見るのは簡単で、見ていないものを見るのは難しい」
彼女は軽く丸めた左手を上げ、それから同じように上げた右手をトントンと動かした。
「和也しか見ていない私には、達也や真人が見えていなかった」
「あなたはまず和也に、それから達也、あるいは真人に、いずれにしろ2匹のヤモリに会ったということですね」
「いえ、私は和也には会えていません」
「なぜですか?」
僕は首をひねる。
「私が会ったのはヤモリ、あるいは2匹のヤモリの子どもであって、和也ではないです。私にはヤモリの子どもを見分けることができなかった。ヤモリの子どものうち、どれが和也で、どれが達也や真人かが私には分からない。私はヤモリに会いました。これは事実です。私はヤモリをほかの生き物と見分けることができます。私はヤモリの子ども、正確に言えば5センチほどのヤモリに会った。これも事実。ヤモリの大きさ、成長したヤモリのおおよそのサイズを私は知っています。しかし、私がヤモリの和也と会った。これは事実ではないです。私はそのとき会った子どものヤモリを、ほかの子ヤモリと区別することができない。会った子ヤモリが和也だと分からない私は、和也に会うことはできません」
「会う対象をほかの物から区別できる。なるほど。それは会うの条件の1つかもしれない」
私たちが会うための条件はなにか?
「あなたは私に会えた。どうして私を私だと認識できたのですか?」
「話が元に戻りましたね」
「ヤモリの話は必要ありませんでしたか?」
「話自体は興味深かったですが、さっきまでのアプローチはきりがない感じもしていました。ヒトから哺乳類、鳥類、爬虫類と会えるかどうかを確かめていった訳ですが、それだと際限がない。それに、ヒトやイヌ、ネコに会えるからといってすべての哺乳類に会えるとは限らない」
「帰納ですね」
「個々の事実から導かれた一般的な命題は必然的に成り立つわけではない。ヒトに会える。イヌに会える。ネコに会える。だからといって、哺乳類すべてに会えるとは言い切れない」
「それにもかかわらず、すべての哺乳類、すべての動植物やそれ以外、生物と非生物、存在と非存在、それらすべてについて会えるか調べるのは効率が良くない」
「反対のアプローチを取りましょう」
「演繹」
「会うための条件はなにか? 元に戻るんです」
「任意の条件を満たしたならば、存在Aは同一時空間Bにおいて別の存在Cに会える」
「条件は1つとは限らない。とはいえ、あなたの中ではもうずいぶん条件が整理できているようです」
「会う条件を私がすでに理解している?」
「いまの言葉を分析すれば分かる気がします。『存在Aは同一時空間Bにおいて別の存在Cに会える』。ここからまず言えることは、存在Aは時空間Bにいる。同時に存在Cも同じ時空間Bにいる、です。これらは会う条件の2つではないでしょうか?」
「自分で言っておいてなんですが、時空間Bとはなんでしょうか?」
「時間と空間で区切られた特定の領域、とでも言えばよいかもしれない。すなわち、『存在Aが時空間Bにいる』というのは、『存在Aが特定の時間にいる』、『存在Aが特定の空間にいる』がともに成り立っている状態」
「存在Aがいる時間に存在Cもいて、存在Aがいる場所に存在Cもいる」
「たとえば僕が存在している時間は1984年からいままで。ウィトゲンシュタインが生きていたのは1889年から1951年。したがって、『同じ時間に存在する』という条件を満たせないので僕とウィトゲンシュタインが会うことはない。さらに言えば、僕は日本から出たことがないし、日本の限られた場所にしかいたことがない。オーストリア生まれのウィトゲンシュタインとは、おそらく存在した場所においても一致しない」
「時間と空間の両方があなたたちの出会いを否定、拒絶している」
「時空間BにAというヒトがいる、時空間BにCというヒトがいる。これら2つは会うの条件と言える。ヒトはひとりで会うことはできない」
「すこし違います。まだ存在がヒトに限られるとは決まっていません」
「それは別の条件を考えれば自ずと明らかになると思います。ヒントはさっきあなたが言いました。『どうして私を私だと認識できたのですか?』」
「任意の存在をほかの存在から区別し、認識する。それが3つ目の条件」
「時空間Bにおいて存在Aが存在Cを認識する。認識とは、文字通り認めると識る。認知と識別から成り立つ」
「つまり、3つ目の条件はさらに2つに分けられる」
「対象を認識する順番としては、識別、それから認知だと思います。存在Aが存在Cを識別するとは、存在Cをほかの存在から区別できる特徴を存在Aが知っていること」
「私は大人ヤモリと子ヤモリについては知っていた。でも和也の特徴は識別できていなかった。どうすればできたのでしょう?」
「識別に必要なのは、対象の特徴を知っていることです。たとえば和也の眼が片方なかったり、反対に腕が一本多かったら、あなたは和也を識別できたのでは? 厳密に言えば、一つ眼の子ヤモリが和也以外に存在する可能性もゼロではないですが、限定された狭い場所でそういった珍しい子ヤモリがいたなら、それらは同じ個体である可能性が高い。外見的特徴を知っていることは、対象を識別するための条件だと思います」
「それを認知する?」
「仮に、あなたがある子ヤモリとの接触で片目の子ヤモリを和也と名付けたとしましょう。片目の子ヤモリは和也。識別するための特徴は、子ヤモリで片目です。その後あなたは再び生き物を見かける。あなたはそれが小さなヤモリで、片目がないことに気付く」
「和也です」
「外見的特徴を識別したことで、あなたは和也を認知する。認識する」
「私は和也を認識する条件、識別の条件を満たせなかった。外見的特徴を見分けることができなかった・・・でもちょっと待ってください。それだと目の見えない人は誰にも会えなくなってしまします。たとえば生まれつき目が見えない人は、識別する対象の外見的特徴を見ることができない。あるいは、ベーチェット病を患った隆之は、陽子の外見的特徴を知っていても失明したあと彼女にもう会うことはできないのでしょうか?」
「何の話ですか?」
「『解夏』です。ベーチェット病を患って失明していく隆之と、彼を支えようとする陽子の話です。失明後も、陽子は隆之の側にいる。隆之は陽子を、彼女の外見がほかの女性とどう異なるかを知っている。にもかかわらず、光を失った隆之はもう陽子に会うことはできない。それは悲しいです」
「私たちは、対象を見ることしかできないわけではない」
「聴く」
「嗅ぐ、触れる、味わう」
「隆之は視覚を失った。でも視覚以外は機能している」
「隆之は陽子の声を知っている。彼女の声をほかの音から区別する特徴、聴覚的陽子性をもし隆之が識別していれば、彼の耳は陽子を認知できる」
「視覚を失っても隆之は陽子に会える」
「間違っているでしょうか?」
「むしろ間違っていたのは僕かもしれません。僕は見ること、視覚に囚われていた。英語の『see』には『見る』と『会う』の意味があるように、会うと見るの関係が深いのは確かだと思いますが、あなたがいま言ったように見ない会い方があってもいいかもしれない」
「聴覚的会い方、嗅覚的会い方、触覚的会い方、味覚的会い方」
「対象の認識、識別と認知する特徴を視覚に限定しなければ、私たちは五感のそれぞれによって会うことができる。必要なのは、識別と認知における対象の特徴が一致していることだけだ」
「その方が私は素敵だと思います」
「いったん整理しましょう。これまでにあげられた会うの条件は3つ。①時空間Bに存在Aがいること。②時空間Bに存在Cがいること。③存在Aが存在Cを認識すること。条件の①と②の時空間Bは、特定の時間にいることと、特定の空間にいることに分けられる。条件③は、存在Aが存在Cの特徴を識別していること、存在Aが存在Cの特徴を認知することの2つに分けられる。存在の特徴とは、五感で感じられるもの、すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚で知覚できる刺激すべてが含まれる」
「仮にその3つが会うの条件のすべてだとすると、見ると会うの違いはなんでしょう? たとえばこの公園に来たとき、あるいは来る前にあなたは私の特徴を識別していた」
「日曜日の午後2時から4時、この公園でひとりでいる女性、先輩から僕はそう聞いていました」
「あなたの先輩であり私の友人でもある伊賀美さんは賢いようです。会うに必要なことを私たちより理解しているのかもしれない」
「僕は公園に来て、特徴に一致する女性を見つけた。つまりあなたを認知した」
「はい、そこです。あなたは私をどこで認知したのですか?」
「だからこの公園に来て」
「そうではなく、私からどのくらい離れたところ、公園のどの地点から?」
「ちょうどそこの東屋の前あたりだったと思います。距離で言えば2、30メートルくらいでしょうか。時間、場所、1人、女性。すべての条件を満たした地点はその辺りです。最後の女性に限っては、あくまで外見、服装や髪の長さなどからの推測ではありますけど」
「私から2、30メートル離れたところであなたは会うの3条件をすべて満たした。ではあなたはそこで私に会えたのですか?」
「なるほど。それは会うではなく見るではないのか? あなたはそう問題提起をしているわけですね」
「御察しの通りです。もしそれを会うとするのであれば、見ると会うは同じ意味を指します。それらを言い分ける必要はない。同じ現象を異なる言葉で呼ぶのは無駄です」
「厳密に言えば、会うには視覚に拠らない会い方を含めましたので、見ると会うが完全なイコールになるわけではないと思いますけど、ただ僕がその地点であなたに会った、と言うのは事実の表現として僕もすこし違和感がありますね。僕はあなたを見た、見つけた、あたりの方が事実に近い」
「つまり、同一時空間で任意の存在が他の存在を識別、認知する、だけが会うの条件ではない? あなたはどの地点で私に会えたのでしょう?」
僕は公園を歩いていたときの光景を浮かべる。園内の道を歩きながら、遠くにひとりの人がいるのを見つける。東屋の横を通り過ぎて、その人がスカートをはいていることが分かる。僕はその人を女性だと思う。この地点で会うの3条件はすべて満たされる。しかしまだ僕は彼女に会ってはいない。彼女を見ただけだ。僕は近付いて、その人の髪が肩あたりまであることを知る。やはり僕はまだ彼女に会ってはいない。彼女が女性である確信が僕の中で高まり、僕が彼女を見た、その事実性が上がったに過ぎない。
「Nさん、ですか?」と僕はその人に声をかけ、「伊賀美先輩の後輩です」と伝える。
「ああ」とその人が答える。アルトの声質が、その人の女性性を高める。
「それで、あなたは『論考』についてなにを知りたいんですか?」とその人は訊く。
ああ? あなたは?
「僕があなたにはじめ声を掛けたとき」
僕は彼女に訊く。
「あなたは僕を知っている様子だった」
「伊賀美さんから伺っていました。今日のこの時間帯に、『論考』について知りたがっている後輩が私のところへ会いに来ると」
「そこだ。僕があなたに会えたのはその地点の、その時点だ」
「私があなたについて伊賀美さんから聞いたとき、すでにあなたは私に会えていた。運命論的ロマンスを感じさせる表現ですが、事実に反しています」
「あなたが僕を僕だと認識したときの方です。先輩から聞いていた特徴の識別で、あなたは僕を認知した。そこで僕はあなたに会った。それが最後の条件ではないでしょうか?」
「私があなたを認識する」
「要するに、会うは双方向なんです。同一時空間において存在Aが別の存在Cを認識する。それだけで会うは成立しない。存在Aが存在Cを見ただけだ」
「あるいは存在Aが存在Cを聴いた、嗅いだ、触った、味わった」
「人は誰かと一方的に会うことはできない。存在Aは存在Cから自らを存在Aと認識されて、初めて存在Cに会う。会う対象から自らを認識されること。それが会うの最後の条件ではないでしょうか」
「条件は4つ。第一に、時空間Bに存在Aがいる。第二に、時空間Bに存在Cがいる。第三に、存在Aが存在Cを認識する。最後に、存在Cが存在Aを認識する」
「同じ時間、同じ場所にいる2つ以上の存在がお互いを認識する。それが会うだと思います」
「仮にそうだとして、存在とは何でしょうか? 存在には何が含まれますか?」
「私たちはどこまでのものに会えるのか? 最初の疑問ですね。答えはこれまでに挙げた条件、認識にあります。条件3と条件4、存在Aは存在Cを認識する必要があり、存在Cもまた存在Aを認識する必要がある。反対に言えば、存在Aが会えるものの限界は、存在Aがどこまでの対象を識別、認知できるか、そして認識した対象が存在Aを認識できるか、によって決まる」
「認識の限界が会えるものの限界。ちょっと待ってください。だとしたら、私は和也どころか子ヤモリにも、ヤモリにさえ会えなかったことになります」
「残念ながら。果たしてヤモリがどこまでの存在を識別、認知できるのか僕には定かでありませんが、少なくともヤモリがあなた個人を認識できていた、と考えるのは難しい。あなたが子ヤモリを見た。これは事実だと言えますが、ヤモリがあなたを見た、とは言い難い」
「私は私としてヤモリに会うことはできない。私が見た子ヤモリは私をどう見ていたのでしょう?」
「女性、人間、生物、動く物体、場合によっては警戒すべき敵。日本語を知らないヤモリが、そういった言葉であなたの存在を認識することはありませんが」
「条件が間違っている可能性はないですか?」
「これは会うをどう定義するかの問題なので、間違っているかどうか、という疑問は意味を成さないです。もし会うをこのように定義するなら、あなたはヤモリに会えませんが、仮に会うを一方的な認識でも成り立つもの、と定義するなら、あなたは子ヤモリには会えたと言える」
「独り善がりに出会っても、私は嬉しくない」
「僕も、これが会うの条件のすべてだと思っているわけではない。疑問もある。さっきのあなたとヤモリのように、お互いの間に認識のずれがある場合、何が何に会ったが事実になるのか、といった疑問。あるいは認識する手段によるずれ。たとえば学校の教室で、前の席に僕が座っていて、後ろの席にあなたがいるとする。あなたは後ろから僕を見て認識する。そこで、あなたが教師にあてられて質問に応える。前にいる僕は、あなたを見てはいないけど、声であなたを認識する」
「あなたは私の声を識別できている?」
「あくまでたとえば、です。このとき僕はあなたを、あなたは僕を、お互いがお互いを互いに認識してはいる。でもこのとき、僕とあなたは会っていると言えるだろうか?」
「私はあなたを見る。あなたは私を聴く、私の声を聴く。これらは事実なので、条件はすべて満たしている。ですが、そのとき私たちが会っていた、と言うには違和感があります」
「ほかにも疑問はある。時空間の条件に関わる、特に空間に関するものです。たとえば電話。電話で話しながら、相手が誰かをお互いに認識していた場合、時間や認識の条件はすべて満たされるが、空間の条件については必ずしも満たされていると言い難い」
「それに、電話で話したことを会ったとはあまり言いません」
「オンライン会議のような状況ではどうでしょう? 空間的に離れているのは電話と同じ。違いは声だけでなくお互いに顔も見えていること。認識の度合いが電話より高い点、と言えるでしょうか」
「それも会ったと言うのには、やはりどこか引っかかりを感じます。オンライン会議で顔を合わせて話した。仮に会ったと言うなら、パソコンの画面越しに、などが必要かと」
「バーチャル空間ならどうですか? 現実空間で離れているのは電話やオンライン会議と同じですけど、バーチャル空間で僕のアバターとあなたのアバターが会う。僕らはアバターを本名で名乗っていて、お互いのアバターを相手だと認識している。バーチャルの空間で時間を共有し、互いを認識する。これは会っているでしょうか?」
「難しいです。会っていないと断言できるほど私たちは断絶されていませんが、会っていたと無条件に言えるほど私たちは会えていないと感じます」
「このような疑問がある限りにおいて、僕は会うをすべて理解できたわけではない。とはいえ、ここまでに規定した会うの条件が、それほど的外れだとも思わない」
「なにより、あなたの目的は会うの完全な理解ではない」
「当面の問題は、事実と必然性の関係を明らかにすること。その内、事実ではないが必然性のあることがらが存在するかを調べること」
「会うを明確にしたのは、具体例として会うと生きているの関係をクリアにすることで、事実と必然性の関係をクリアにすることでした」
「これまでの話で、会うと生きているの関係はすでにはっきりしている」
「生きているについては条件が明白になっていません」
「生きている条件はなにか? それはそれとして興味深い問題ではありますが、いまは本来の目的を優先します。問題になっているのは、会うと生きているの関係です。逆に言えば、生きているのうち会うに関係のない部分がどうなっているかを知る必要はない」
「会うの条件は、どれも生きているに関係しているように思われます」
「関係の捉え方次第でしょう。仮に無関係を関係ないといった関係があるとするなら、無関係にさえ関係はある。ここでは一方が決まればもう一方が決まる、そういった関わりが有る場合だけを関係があるとしましょう」
「関数のように?」
「関数のように。たとえば条件1『時空間Bに存在Aがいる』、これと『存在Aが生きている』。これらは無関係だ」
「世界のどこか、『時空間Bに存在Aがいる』なら、『存在Aは生きている』のではないですか?」
「世界のどこかにAが存在していたとしても、それが生物でなければ存在Aは生きていません」
「存在Aが生物でない、生きていないなら、存在Aはいません。存在Aは『いる』のではなく『ある』です」
「ああ、あなたは『いる』をそう捉えていたわけですね。私は英語の『be』の意味で使っていました。日本語は難しいですね。では条件1をすこし修正して、『時空間BにAが存在する』にしましょう」
「それならAが生物の場合と、非生物の場合、どちらも含まれる」
「これなら条件1は生きていると関係がないことが明らかになりますね。『時空間BにAが存在する』、としても『Aが生きている』とは限らない。Aは生物でない場合がある。反対に、『Aが生きている』からと言って『時空間BにAが存在する』とも限らない。Aは時空間Bではない時間と場所にいる可能性がある。これは条件2についても言えますね。条件2『時空間BにCが存在する』も『Cが生きている』とは関係がない」
「ですが、存在Aや存在Cが生きていないなら認識はできません」
「だから生きているは条件3と4に関係する。条件3『存在Aが存在Cを認識する』、それが成立したなら必ず『Aは生きている』。Aが生きていないなら、Aは何も認識することができない。反対に、『Aが生きている』からと言って『存在Aが存在Cを認識する』とは言えない」
「『Aが生きている』は『存在Aが存在Cを認識する』の必要条件」
「条件4も同じですね」
事実と必然性の関係ふたたび
「『会う』と『生きている』の関係は分かりましたが、結局事実ではなく必然性のあることがらはあるのでしょうか?」
「とりあえず事実でないことがらを考えるのは簡単ですね。『僕はあなたに会っていない』、『僕は死んでいる』。これらは事実ではない。では必然性はあるか?」
「必然性はそれ以外にありえないこと。真にしかならないことがら、と理解しました」
「そう考えるなら、どちらにも必然性はない。『僕はあなたに会っていない』、もしこれに必然性があったなら、絶対に僕はあなたに会えない」
「実際あなたは私に会っている」
「その現実が、『僕はあなたに会っていない』に必然性がないことを示している。僕があなたに会っていること、それ自体が『僕はあなたに会っていない』以外の状況があったことの証拠です」
「『あなたは死んでいる』も同じですね。最初にあなたが直観した通り、事実でなく必然性のあることがらは存在しないのでしょうか?」
「疑問なのですが、そもそも必然性のあることがらなんてものはこの世界で存在するのだろうか?」
「あなたはさきほど、『私たちが出会えた以上、私たちが生きていたことは必然性のある事実だ』とおっしゃっていました」
「まさにそれなんです。いま僕らが会っている場合、僕たちが生きていることには必然性がある。僕らが会えたにもかかわらず、僕たちが生きていなかったという状況はありえない」
「死体は認識できません」
「しかしそれは僕らが会っている場合に限る。僕たちが会っているなら、僕らが生きていることは必然だが、会っていない場合、僕たちが生きていることは必然ではない。すなわち、僕らが会っているという条件が成立しなければ、僕らが生きていることに必然性はなく、僕らは生きもするし死にもする。そこに必然性はあると言えるのだろうか?」
「仮に必然性のあることがら自体が存在しないなら、事実でなく必然性のあることがらの有無を考える必要もなくなります」
「たとえば『対頂角は等しい』。これは常に成り立つ、真の値しか持ちえない命題に思える」
「『対頂角は等しい』という状況は、この世界で常に成り立つ。それはいつどこで必ず成立しているのでしょう?」
「いつどこで?」
「仮に『対頂角が等しい』という命題に必然性があるなら、世界には等しい対頂角が描かれてい続けなければならない」
「世界中を見渡せば、少なくともひとつは描かれてるんじゃないかな?」
「それは未来永劫? 成、住、壊、空、三千大千世界が消滅しても対頂角は等しく描かれ続けますか?」
「ジョウジュウエ? 細かいことはよく分からないけど、少なくとも世界がなくなれば、存在しない空間に直線を描くことはできない」
「描かれていない対頂角は等しいでしょうか? それとも等しくないでしょうか?」
「質問の意味がよく分からない。描かれていない対頂角が等しいかどうか? 描かれた対頂角なら常に等しい。描かれていない対頂角、そんなものは存在しえない。存在しないものが互いに等しいかを問うのは無意味です」
「空間に対頂角が描かれていれば、それは常に等しい?」
「そうか。これにもやはり必然性はない。対頂角があるためには、2つの直線が交わっていなければならない。直線が交わるためには、空間に直線が描かれていなければならない。そのためには空間が存在しなければならない」
「それらの前提が成立しなければ、仮に空間が存在しなければ、『対頂角は等しい』は真か偽、どちらでしょう?」
「偽だ。空間が存在しなければ、対頂角は描かれないし存在しえない。存在しないものが等しくあることはできない」
「描かれていない対頂角は等しくない」
「描かれていない対頂角は、等しくないのではなく、描かれていない対頂角、という表現自体が間違いなのです。非論理的で、無駄で無意味な表現だ」
「合法的犯罪、正当な差別、描かれていない対頂角」
「やっぱり必然性のあることがらはないのだろうか」
「あなたはないと思うのですか? あると思うのですか?」
「どちらかと言えば、必然性のあることがらはないのではないか、といま僕は思っている。少なくとも僕にはそれを考えることができない」
「だとしたら、あなたはなにも証明する必要はない。証明責任は主張する者にあり、否定する者にはない。必然性のあることがらがないことは仮定されている」
「しかし、同時に僕は『僕があなたに会っている』場合、『僕が生きている』こと、これを必然性と呼んでもいいじゃないかとも思うんです」
「ではそのように理解すればよいのではないでしょうか? いかなる前提もつけず常に真となることがら、そういう意味での必然性はない」
「少なくとも僕はそれを見つけられない」
「しかし、任意の前提が成立するという条件つきの場合、必然性のあることがらは存在する」
「そのように考えるなら、事実と必然性の関係は2つに分けられる。条件つきの必然性を認めない考え方と認める考え方。前者の場合、必然性の有無を分ける境界はなく、ことがらは事実であるか、事実でないかの2種類しかない。たとえば『僕が君に会っている』や、『僕が生きている』は事実で、『僕は君に会っていない』、『僕は死んでいる』は事実でない』」
話ながら、僕は図を描いた。
「それに対して、条件つきの必然性を認める場合、必然性の有無によって区分が増える。『僕が君に会っている』は必然性のない事実だけれど、その前提が満たされる限りにおいて、『僕は生きている』は事実であり必然性がある。そして、『僕が死んでいる』は事実でなく必然性もないが、仮にそれが満たされるならば、『僕は君に会っていない』は事実でないが必然性がある」
「死者は会えない。とりあえず事実と必然性の関係には方が付きましたね」
事実と論理性の関係?
「やっと事実と論理性か」
「事実には論理性がない。あなたと私が会ったことには論理性があるでしょうか? 私たちは論理的に出会った? あなたの生存には論理性がある? 私は論理的に生きている?」
「意味がよく分からない。論理性があるというのは、たとえば2つの三角形において3組の辺がそれぞれ等しい、または2組の辺とその間の角がそれぞれ等しい、または1組の辺とその両端の角がそれぞれ等しい、ならば2つの三角性は合同である、みたいなものですよね。2つの三角形において3組の辺がそれぞれ等しい、や、2つのの三角性は合同である、それ自体が論理的かどうかというのは意味が分からない。論理性があるかないかで言えばない。でもそれは論理性があるかないか、どちらの可能性もあった上で論理性がないのではなく、ただないだけというか」
「たとえば」と言って僕は右手の人差し指を伸ばす。
「僕の指はあなたの恋人であるか? それとも恋人でないか?」
「雪国的人差し指」
「これと同じです。もちろん僕の指はあなたの恋人ではないけれど」
「確かに、わたしとあなたの間にそのような事実はありません。とはいえその喩え、初対面の女性に対するものとして少々不適切ではありませんか?」
「あなたが『雪国』を連想するとは思わなかった」
「まあいいでしょう。仏の顔も三度と言いますし、今回は大目に見ることにします」
「もう一度までは許される?」
「あと一度です。過ちは、侵されるまで過ちであることを知られません。人は過ちをはじめて侵すことで、それが過ちと知る。一度目の過ち。これは不可避です。なので一度目は許します。二度目。人は何が間違いかを知ってなお間違ってしまう。故意か事故かで、侵した間違いの重さは違うかもしれませんが、それは仕方のない道理だと思います。しかし、最後には痛みが必要です。痛みは人に過ちを学ばせる。痛みによって学べるかどうか。そこが1つの境目です。それ以降、痛みを覚えずに済むか、それとも痛み続けるか。一度も痛みを感じずに学ぶか、一度の痛みで学ぶか、それとも痛みながら学び続けるか、もしくは痛み続けながら学び続けないか。どれを選ぶかはあなた次第です」
「そこには必然性がある?」
「必然的痛みです」
「しかし論理性はない」
「論理性はありませんが、倫理性はあります。倫理必然的痛みです」
「留意します」
「倫理必然的留意です」
「倫理的必然性、論理的必然性、自然的必然性。これらはなにが違うんだろう」
「よい疑問かもしれません。論理的必然性がなにでないかの理解は、それがなにであるかの理解に寄与します。倫理的必然性を知ることは論理的必然性の理解にもつながるはずです」
倫理的必然性とはなにか?
「倫理的必然性とはなにか?」
「メロスは激怒した」
「『走れメロス』?」
「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。メロスの倫理は、彼を必然的に激怒させた」
「邪知暴虐の王に激怒する以外の可能性が、メロスにはなかった。だからメロスは激怒した」
「倫理的に、必然的に」
「邪知暴虐の王がいたならば、人は激怒し、邪知暴虐の王を除かなければならない。それがメロスの倫理」
「人は、でしょうか? メロスは自分ひとりで邪知暴虐の王のところへ向かっています、メロスの倫理は、邪知暴虐の王がいたならば人は王を除かなければならない、ではなく、邪知暴虐の王がいたならば私は王を除かなければならない、ではないでしょうか? 仮にメロスの倫理の主語が人であるならば、メロスだけが邪知暴虐の王を除かなければならないわけではないです」
「メロスが邪知暴虐の王を除きに行ったことは、彼の倫理の主語が人であることと必ずしも矛盾しない。メロスは人だ」
「確かに、彼が邪知暴虐の王に自分で天誅を下しに行った行動は、彼の倫理の主語が人であることを否定するわけではない。しかしながら、彼の行動はメロスの倫理の適用範囲が、人は邪知暴虐の王を除かなければならないと、メロスだけでなく人すべてまで一般化されているとする証拠としては不十分です。あることがらを説明するために必要以上に多くの仮定を用いるべきではない。オッカムズ・レーザーです」
「邪知暴虐の王にメロスが激怒し、王を除きに行った行動を説明するために、メロスの倫理の適用範囲が人となっている仮定は必要ない。そう言いたいわけですね」
「少なくとも、邪知暴虐の王がいたならば私は王を除かなければならない、とメロスが自身を倫理づけていれば、彼の行動は十分に説明可能です。もちろん、繰り返しにはなりますが、それは彼の倫理の適用範囲が人一般にまで及んでいることを否定するわけではないです」
「いずれにしても、邪知暴虐の王がいたならば、暴君を除くことはメロスの倫理にとって必然性があった」
「妹の結婚式が間近でも、買い物帰りでも、竹馬の友に2年ぶりに会いに行く前でも」
「妹の結婚式は終えてからでも良かったんじゃないだろうか?」
「以ての外です。メロスの倫理は必然。妹の結婚式ごときが干渉する余地は皆無です」
「でも買い物くらい終えてからでも良かったろう。買い物袋をしょって邪知暴虐の王を倒しに行くってのは、ちょっと様にならない」
「とんでもないです。メロスの倫理はほかの普く可能性を排除する。買い物袋など虚無に等しきもの」
「しかしセリヌンティウスに会うくらい許されるのでは?」
「ありうべからざることです。何物もメロスの倫理を忽せにはしえない。早瀬をも分かつ倫理の岩に比せば、セリヌンティウスなど風に吹かるる塵も同然」
「とはいえ、僕の記憶するところによれば結局王は倒されなかったんじゃないかな?」
「仮定されたメロスの倫理に従うなら、彼のそれは仮言命法。前提が成立するならば、その倫理は実行される」
「逆に言えば、いやここでは対偶が正確か。対偶に言えば、王が倒されなかったということは、邪知暴虐の王がいなくなったということ」
「約束を果たしたメロスとセリヌンティウスの姿を見て王は言います。『信実とは、決して空虚な妄想ではなかった』」
「王は信実を知った」
「話の冒頭、王はこうも言っていました。『疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ』」
「そうか。王は邪知暴虐の王ではあったが、同時に学ぶ王でもあった。王は人々から疑うことを学び、邪知暴虐の王になった」
「そして、メロスとセリヌンティウスから信実を学んだ」
Nはコートの開いていた前を両手で抱きしめるように閉じ、マフラーに顔を沈めた。木の葉がさわさわと鳴り、冷気が僕の顔や首をなでていった。空では東から塗り重ねられた夜が、西の端に残った昼をにじませている。見えなくなった日の残光は僕の目頭にぼんやりと熱を持たせたが、理由は分からなかった。
「ここまでにしましょう」
辺りを包む空気の冷たさよりきっぱりした口調でNは告げた。僕は周囲を見回す。公園にいた多くの人々はほとんどいなくなっていた。残っているのは、僕らを除けば東屋にいる3人の少年だけだ。
「つぎの週末、またここに来てもいいですか?」
僕は訊いた。
「それはあなたの自由です」
「だから、またお話を聴きに」
「来週末、再び私に会いにこの公園へ来る。それもやはりあなたの自由ですが、次回は会う条件を満たせない可能性が高いと思います。おそらくそのとき、あなたと私の空間は一致しません」
「どこにいるんですか?」
「十中八九、近くの河川敷です」
「ではそっちに行きます」
「どうぞ」
「そこで話の続きをお願いします」
彼女は隣の本の山から文庫本を一冊取り出し、ページをめくった。
「『お願いします』っていうのは命令だってことが、わかってないから困るんだな」
「えっ?」
「ここに書いてあります」
開いて向けられたページを見ると、いま彼女が言ったことがそのまま書かれている。
「私は命令されることが好きではありません」
「分かりました。僕はまた会いに行きます」
Nは何も言わず、少しの間僕の顔をまっすぐ見ていた。
(つづく)
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