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大掃除。自分の身の回りを整理するということは、内面を整理するということ

 この六月末、季節外れの大掃除を敢行しています。

 現在の進行度は六割といったところでしょうか。
 懐かしい品物が出土してしみじみとしたり、失くしたと思っていた漫画が出てきてつい読んだりしながら、のんびりと進めています。

 ……って、そんな牧歌的な光景でもないけどね!


 前回までにも書いてきたように、長らく病んでいたのでその心中を投影するかのように部屋も荒れていた。

 不満や劣等感が具現化したかのようにほこりは厚く堆積し、引き裂かれたこころのように物の並びは均整を欠いていた。あるべきものがあるべき場所に置かれていなかった。

 部屋のどこに何があるのかよくわからない状態だった。足もとにペットボトルが何本か転がっていた。その近くに最後にいつ使ったか不明なかばんや古い携帯電話も転がっていた。
 それはまるで、僕自身が自らの進むべき道に迷いを抱えていたことを象徴しているかのようだった。

 机の上に目をやると、大学院の募集要項や公務員試験の参考書が乱雑に積み上げられていた。何年前のだよ、と言いたくなる不要な書類が置き去りになっていた。むかし、友達が遊びに来たときにルーズリーフの隅っこに何気なく描いてくれた絵も捨てられずに残っていた。かといってきちんとファイルに入れて保管しているわけでもなかった。過去の整理がついていなかったことを証明しているかのようだった。

 そして、部屋の正面に掛けられた時計は停止していた。針は8時48分を指したままだった。


 きょうこのタイミングで大掃除をするということは、単に面倒な作業ではなく、刺激的な癒しの体験になっています。まるで巨大なジグソーパズルの最後の仕上げをしているかのような、ピースがぴたりぴたりとはまっていくような感覚。

 あるべきものをあるべき位置に戻したり、機能や役割を果たせるようにメンテナンスしていく。ひとつひとつ丁寧に磨いていく。そこにはふつふつと湧き上がる感情がある。世界に少しずつ光が満ちていくような感覚がある。

 これまでは背負わされた心の重荷があまりにも重すぎて、そんな風に感じたことはなかった。自分に「足りないもの」に意識が集中していて、じゃあ逆に何が「足りている」のかについて、ひどく無頓着だった気がする。

 ずっと僕は何者かになりたかったのだ。自分にしか出来ない特別な何かをやることに執着して生きてきた。自分は他人より劣っているという意識が強く、「逆転」しなければならないような気持ちに急き立てられていた。

 今のこの名義以外にもいくつかのネット上の活動を経験してきたが、僕はもともと非常に衝動的で攻撃的な文章を書く人間だった。紙面の上に、憎しみや孤独をどれだけ強く表せるのかに挑戦しているようなものだった。
(近いうちに処女作の小説のリメイクを投稿したいという気持ちがあります → 追記:『空絶』書きました

 周りにも、自分と同じように非常に深く傷ついた人たちがいた。そういう者の常として、喧嘩をすることもあった。

 そんな風に自分にしか出来ない特別なことを追求するのも良い経験だったが、一方で普通のことがおざなりになっていた。部屋は散らかりほこりが積もっていた。空気は黒く澱んでいた……。


 ――しかし今や暗かったこの部屋にも、新鮮な初夏の風が吹き込んでくる。

 ほのかに青々しい葉の匂いがする。

 いつもの窓から部屋へ差し込む白い光の輝きは、うまくいきそうで結局うまくいかなかった友情の一瞬だけの輝きに似ている。

 今度はすぐに消えないだろう。そう思えた。

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