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逆張り・天邪鬼の社会的存在意義

世の中にはたまに、多くの人の意見にあえて逆らって逆の言動を行う、いわゆる逆張りを狙う人がいます。

本来は投資・相場で使われる用語で、買いが優勢なときに売り、売りが優勢なときに買うことを逆張りといい、逆張り投資家のことを「コントラリアン」と言います。天邪鬼(あまのじゃく)も似たようなものでしょうか。

例えば、ずっと値上がりしている株があるとして、いつまでも上がり続けるわけがない、どこかで下がるから価格が高い内に空売りして下がったときに儲けることを狙おうとするのが、分かりやすい逆張りです。

転じて、世の趨勢に逆らう、大多数の見解とは逆を行く人のこと時代と逆張り・コントラリアンと称するようになりました。

さて、こういったトレンドの逆を行き、トレンドそのものや追随する人を批判する立場のコントラリアンは、時には世の中から激しい拒否反応を受けることがあります。

世の大勢が安易な考えに流されているのであれば、それはもちろん貴重な反対意見であるのですが、倫理や道徳、法律や秩序の逆を行くような逆張りは当然ながら非難されやすくなります。

大多数から見れば異質な、排除すべき異分子に思えるかも知れませんが、行き過ぎを防止するバランサーと考えておけば寛容にもなれるでしょうけれど、たいていは「なぜみんなと同じ意見にならない」と理解出来ません。

反射的に逆張り意見を言う人もある程度は必要です。

現代は多様性の世界とはよく言うものの、なかなかそうはいきません。多様性を否定しがちな保守的な言論はもちろんのこと、多様性を擁護する立場のはずのリベラル側だって大差は無いかも知れません。

言葉遊びのようですが、
「多様性を否定する意見は一切認めない」
という一文には矛盾が存在します。

0と1しか認めない二元論は分かりやすいものですが、たいていの事象はその間に存在します。多様性を100%認めないわけではないけれど、どっちかというと嫌いかも、というレベルの意見すら認めないのであれば、やはり多様性を認めるリベラルとは言えないでしょう。

多様性こそ至高かつ唯一無二と決めつけてしまえば行き着く先はカルト化しかありません。それこそ最も嫌うべき考えのはずですが。

むしろ無理矢理強制した多様性には個性がありません。確率論的にバラツキを無くすには人為的介入が必要です。相対化が行き過ぎると自由が無くなるのです。

しかし、だからと言って天邪鬼や逆張り人間を好きでいてくれと要求するのも難しい話です。そもそもみんなの意見に逆らうのですから嫌われて当然でもあります。

中国の唐王朝初期に活躍した魏徴という人がいます。名君と呼ばれた唐の太宗に仕え、諫言をし続けて支えた人物で、いわば太宗に反対するのが仕事でした。

普通は諫言されると君主は嫌な気分になります。太宗は内心はともかく対応としては魏徴を尊重し、彼の諫言が正しいと判断すれば受け入れて行動を改め、その一方で唯々諾々と受け入れるのではなく、諫言を検討した上で、自分が正しければその諫言は退けて行動しました。

だからこそ、貞観政要などが後世の中国だけではなく朝鮮や日本にも伝わり長く名君として模範となりました。

絶対的な生殺与奪を握る君主に反対意見を言うのは勇気が必要です。歴史上、厳しい諫言を奉った臣下は君主に疎まれ、退けられ、時には左遷、流刑そして処刑も行われてきました。

今の世の中はそんな存在はいませんが、ネット経由で「名も無い大多数」という、時には炎上を作り上げる暴君にもなり得る存在はいます。そんな存在に対する逆張りは、現代の直諫に当たるかも知れません。

諫言してもTwitterが炎上する程度で済むなら、やはり今の世の中は昔よりはマシなんでしょうね。


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