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「生の声」が事実とは限らない

生の声、という表現をよく聞きます。「生の声」とは言っても実際には発言だけではなく、手紙やメールなどもあり得ますので「声」という表現はあくまで比喩的なものでもあります。

一般的にはマスメディアなどで、そのメディアの意見ではなくて一般人の意見として取り上げられます。実際にはそのメディアの思想信条に沿わないものは取り上げられないので、純粋に一般的な意見とは言えないものではありますが、メディアの主張よりは一般人寄りの主張として捉えられがちです。

また、そのメディアによって加工されていない情報として「生の声」というのは重要視されます。当然ながらリアルタイムなものであり、その問題の当事者であればなおさらです。歴史用語で言えば「一次史料」ということになりますね。

そしてこの「生の声」を取り上げるマスメディアは、「これが市民の本当の意見であり〜〜は重要視するべき!」という主張を展開していくわけですが、上述の「一次史料」として見た場合、大きな問題が実はあります。

それは、一次史料は必ずしも事実を伝えているとは限らない、ということです。

歴史学での一次史料とは、例えばその事件が起きたときに見聞していた人の日記や手紙となりますが、日記にしろ手紙にしろ本当のことを書いているとは限りません。

例えば手紙であれば、書いた人が受け取る人に対して伝えたいことを書くものであり、自分が見聞きした事件などを正確に嘘偽りなく書いているという保証はその手紙内にはありません。他の一次史料などと比較して正確だと「推定できる」ところが限界です。

「日記は自分しか読まないものだから嘘を書かない」と思うかも知れませんが、そもそも日記を書いた人が当該の事件などを正確に把握しているとは限りません。見たものを正しく解釈していないかも知れないですし、誰それから聞いたという話にしても聞き間違ったかも知れませんし、聞いた話が嘘だったかも知れません。

もちろん、だからといって一次史料が信用できないということにはなりません。嘘・思い違いも含めて事件の同時代に生きる人の感想や解釈そのものに価値があります。なぜその人が嘘を書いたのか、勘違いしたのかということまで検討することで新たな歴史的事象に光を当てることにもなります。また、一つ一つの史料の信頼性が低くても、複数の一次史料を組み合わせることで高度な推論を組み立てることも出来ます。

そういった史料批判をすることでようやく、一次史料を使用することが出来るのですが、さて翻ってマスメディアが取り上げる「生の声」というのは、その声を上げた人が嘘も勘違いもないものでしょうか?

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