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楽観論者と悲観論者

よく「楽天的な人間」とか、「悲観論者だ」とか言いますが、誰だって自分の中に楽天的なところと悲観的なところがあって、コロコロ入れ替わっていたりするのではないでしょうか。

もちろん人によって入れ替わる頻度というか、楽天的な時と悲観的なときの多い少ないの差はあると思います。極端に偏っている人が楽天家とか悲観論者とか言われるのでしょう。

特に社会的地位の高いポジション(政治家とか社長とか)にいなければ、個人の悲観・楽観は組織や社会に影響はあまりありませんが、そういうポジションにいる人は個人の楽観悲観がダイレクトに影響を及ぼしかねません。

安倍総理やトランプ大統領がどんな感じなのかは本人やすぐ側にいるのでないと本当のところは分からないでしょうけれど、国や大企業のトップに立つ人はそれこそ、悲観と楽観のバランスを取って行動しないといけません。

楽観的過ぎると「新型コロナはただの風邪」とか言っておきながら感染するというフリとオチがしっかりしている大統領みたいになってしまいますし、悲観的過ぎたら何も展望を持てなくなってしまいます。

楽観的な未来を語ることで明るい展望を持たせるにしろ、悲観的な未来を語ることで現状や将来の改革・変革を促すにしても、その予測を願望に交えてはいけません。予測が願望に引っ張られるとろくなことになりません。というかそれは予測ではなく願望そのものになります。

そうは言っても楽観論者の予測に楽天的な願望が混じっているかどうかは素人には分かりません。これは悲観論においても同様です。悲観論者の予測に悲観的な願望(と書くと非人道的ですが)が入っていても判別するのは難しくなります。悲観論者は悲観論が当たることに利益が存在しますから。

ただ、楽観的な見方を持って前に進む、悲観的な見方を持って準備をする、というのは当然ながら必要です。

楽観性がなければ未来に進めませんし、悲観性がなければ障害にぶち当たって終わります。人間以外の動物・生物にはない精神性だと思いますが、楽観も悲観もどちらも人類や社会の進歩・進化には必要ですし、人間個人の生き方においても両方とも必要でしょう。

ちなみに古代中国の代表的な聖王である周の文王は、その人柄・政治姿勢を「小心翼翼」と詩経に謳われました。「小心翼翼」とは気が小さいということではなく、人々に気を配り慎重であることを意味します。政治には大胆さも必要ですが、もしもの時を考えて備えることも重要です。

古代ギリシャの「ダモクレスの剣」の逸話も似たようなものです。こちらはあくまで為政者・支配者個人の危険性を示す故事ですが、元首の立場や行動は好き勝手やり放題だけで良いわけではない、というのは洋の東西を問わず古代から伝わっているわけです。

その割にはそんな気配が見られない国家元首は古今東西、後を絶ちませんが、楽観論者が悲観論を言い出したらいよいよ国にしろ世界にしろ危ないと思っておけばいいですかね。

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