24時間テレビの歴史的意義

日本テレビが毎年行ってきた24時間テレビが、先日放送されました。

私は毎年、大阪のOBPまで行って募金しています。毎年、もらった紙製の募金箱を一年がかりで1円玉・5円玉でいっぱいにして会場に持っていって渡して、それと引き換えにまた紙製の募金箱をもらって一年がかりで入れていく、というサイクルが出来上がっています。

この24時間テレビは色々と批判を浴びている番組・イベントでもあります。それは認識していますが、募金を持っていく人間としては、こんなに簡単に小銭を寄付できるシステムがあまり他に無いんですよね。

やらない善よりやる偽善とも言いますが、偽善というほど悪くはないんじゃないかなとも思います。ただ、正直なところテレビ番組としては全く魅力が無いので1秒たりとも観ていませんが。

日本にチャリティーという言葉を根付かせたという意味では歴史に残る番組なのでは無いかと思います。

この番組の出演者のギャラが高いという話もよく聞きますが、そのギャラ以上に募金が集まるならそれは間違ってはいないのではないかとも思います。もちろん、全員ノーギャラで有名人が出て大量の募金も集めてくれるのが一番良いのですが、もしそれが難しい場合、「ノーギャラでそこそこの有名人」 or 「ギャラ有りでそれなりの有名人」のどちらを選択するべきでしょうか。

これはチャリティーに関する思想の違いにもなりそうです。あくまであるべき姿・理想を重視するのか、集まる寄付の最大化を重視するのか。

「ギャラありでそこそこの有名人」で大して寄付も集まらない、という最悪の結果でなければどちらでも良いような気がします。

ただ、「皆さん募金しましょう!」と呼びかけている人間が多額のギャラをもらっていたらむかつくのは分かります。心に棚を作ってそのことは考えずに募金に行くか、ネットで批判するかそれは個人の自由です。

しかし、このチャリティーによって救われている人がいるのも事実ですから、番組の内容さえもう少しまともになれば批判も減るのではないでしょうか。

あのマラソン(今年は駅伝というかリレー形式だったようですが)も毎年やるともはや何の意味も無いと思います。初めてマラソン企画が行われたときは面白い企画だし新鮮味もあり緊張感もあったのですが、毎年惰性のように実施されていてはかえって逆効果ではないのかなとも思うのですが、今さら止められないのでしょうね。もう止めよう、という声が挙がらないのか、挙がっていても封殺されるのか。代わりの企画が無いというのもあるのでしょうけれど、いっそのこと日本テレビの地デジの第1チャンネルでは無く、第2チャンネルの方で細々とやるのはダメなんですかね。第1チャンネルの番組でちょくちょくチャリティーの話をしたり、生放送の番組なら組み込んだ企画をやったりとか。

いずれはこの24時間テレビも視聴率が落ちて中止という話が出てくるでしょう。その時にすっぱり止めるのももったいない話です。歴史ある企画ですし、日本におけるチャリティーの一里塚にもあたる番組です。何らかの形で細々とやっていく方式に変更するのもいいのではないでしょうか。そうなるとどれだけ寄付が減るか分かりませんが、試しに一年だけ縮小してやってみて、経費の減りの方が募金の減りよりも大きければその差額を寄付に回せばいいのです。

チャリティーを日本に根付かせましたが、あとはチャリティーや寄付・募金をもう少し日常的に、当たり前に行うべきという意識付けが出来るところまで行けば、この24時間テレビの歴史的意義が達成されるのだと思います。

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