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私にとっての「女性になりたい」

私は時々、女性になりたいと思うことがあります。

自分が男性であることに違和感はなく、手術で身体を女性にしたいわけでもありません。むしろその行為は、私にとっての「女性になりたい」という願望にはあまり意味がないです。

この記事では、私なりの「女性になりたい」という気持ちを書いていきます。もし興味を持たれたら、最後まで読んでいただけると嬉しいです。


1.男性とのつながりが苦手


・男性とのつながりが苦手

時々口にしていることですが、私は男性なのに男性が苦手です。
正確に言えば、男性性が苦手ということです。女性を容姿や体型でしか良し悪しを判断しない、定職につき、妻子を養わなければならない(現に結婚していなくても、結婚しないといけないという強迫観念)、交際している女性をリードし、お金を多く払わなければならない、といったものです。もちろん男性性を構成する要素は他にもありますが。

とはいえ、女性も男性を容姿で酷評したりすることがありますし、恋愛や結婚への強迫観念を持っていることもあるでしょう。また、可愛らしく振る舞い、男性がリードするのを当然のことと思っている人もいるでしょう。私はそういう女性性も苦手です。
なので結局のところ、これら男性性・女性性の根底にある現代日本の男女観・恋愛観が合わないということかもしれません。


・性別が交わることの意味

保健体育や家庭科の教科書にはよく、「小さい頃は男女混合で遊び、だんだんと男女バラバラに遊ぶようになる」と書かれています(少なくとも私の頃はそうでした)。
裏を返せば、年齢が上がっても男女が混ざって遊んでいると、おかしいということです。
中学・高校で男女が混ざっているグループというのは、どうもヤンキー気質かクラスの中心的グループ、言うなればスクールカースト上位層の印象を受けるのは、私だけでしょうか。ただし私が中学生だった頃、クラス内のオタク系生徒は私も含め、男女で仲がよかったです。とはいえこれは、別の小学校で男女混合の関係性が出来上がっており、中学に上がったとき、そこに別の小学校から来た似た系統の生徒が合わさってできたグループだったように思います。これは前述の教科書の話に照らし合わせると、「おかしい」=珍しい事例でしょう。

そしてこれに関連して、、、中学生の頃の私が女友達の家で、別の女友達複数人と一緒に遊んでいるのを、その場にいたその友達の母親の知人が見て、「あの子(私)は性同一性障害の子なの?」と誤解をし、その友達と母親が後で全力で否定した、というエピソードがあります。当時はたしか、日本テレビ系列の「ザ・世界仰天ニュース」で性同一性障害の男子生徒を取り上げた回が放映されたくらいの時期だった気がします。世間で少しずつ、そういった人に少しずつ寄り添いながら、しかし「腫れ物扱い」されていた時期だったかもしれません。


・性別が交わることの必要性

ただ私は、男性も女性も、もしくは自身の性別から解放された人も、分け隔てなくグループ化してすごすべきだと考えています。
理由は単純です。お互いの性別による悩み事や問題は、交わることが歩み寄りとなり、解決に導かれて行く可能性があるからです。
例えば夫婦で家事分担の割合の認識に差があるといった、男女で認識の異なる問題などは、互いに意見を言い合えると良いはずです。


またあるいは、異性にモテたいがための努力を闇雲にするよりも、異性と日頃から接していた方がその人の本当の良さをアピールしたり、気付いたり出来ます。


2.女性の目線で物事を考えたい


・女性の目線で物事を考えたい

性の商品化、セクハラ、就職活動やM字カーブ、触らない痴漢など、主に女性から声があげられる諸問題を、男性がどこまで真剣に考えることができるのか、私は悲観的です。ただ前項で述べたように、男女で別々の問題に取り組むよりかは、交わって議論した方がより良い解決が出来るはずなので、難しくても考えるべきです。そのため、女性の目線で物事を考えたいという想いがあります。


・身体感覚と限界

偉そうなことを書いている私ですが、23年間日本社会で社会化してきた私は、基本的に一般男性と同じ身体感覚を持っています。女性に対して性的興奮を覚えますし、性的な視線を異性から感じたことはありません。人と違う点と言えば、アルバイト先で男性上司からセクハラをされたぐらいでしょうか?
身体感覚は頭で考えるのとは違い、生理的な反応を伴うため理屈ではどうにもなりません。「男性である私が、女性の立場に立って考えます!」と宣言しても、中身が伴わなければ意味がありません。
実際にこういうことを言う女性がいるかはわかりませんが、「男のお前に何がわかる。知ったようなことを言うな」と言われても仕方ないです。

ちなみに、大学時代にこんなことがありました。同じサークルの女子2人と会話をしているとき、私が言った「俺の男友達が〜」(ちなみに実生活での一人称は「俺」です)という発言を聞いて、後輩の女子が「男性である私が『男友達』っていうの面白いですね」と言ったのです。
また、当時はよく女子から、「同性と話してるみたい」と言われることも多かったです。特に意識していない話し方、いわば無意識に出る身体感覚には、変化の可能性もあるのかもしれません。


3.ビジュアルとしての女性・服装


・ビジュアルとしての女性・服装

フェティシズムというよりも、オタク的感性から、女性の髪型、服装への見た目の憧れが非常に強いです。ポニーテールの隙間からのぞくうなじや、ガーリーな服装、強調された体のラインといった部分に対して性的興奮が高まるというよりも、むしろその見た目に「なんとも言えぬ良さ」を見出します。
ただ、私の場合はその女性特有の(いわば女性性を持つ)「なんとも言えぬ良さ」を自分で表現したいというフェティシズム的感覚も持ち合わせています。ちょっと小難しく書いてしまいましたが、いわゆる女装やクロスドレッサーと表現するには、いささかこの複雑な感覚を表現できないのです(Twitterのプロフィールには簡潔に「異性装」と書いていますが)。
長髪もしくはセミロング、坂道系アイドルや魔法少女のようなエロティックではなく、可愛さとかっこよさを兼ね備えた衣装、もしくはクラシックなメイド服、ゴシックロリータといったコスプレ衣装、およびそれらを着こなした状態でのポージング、活動、イベントへの参加(コミケの売り子のような)まで含んだ一連の、主にオタク文化の一端を体で体験したいです。
またそういった特別な服装だけでなく、私服や仕事着にも憧れがあります。
気持ち悪いと思われても、これが私の現実です。今の性別観に違和感を抱く人が抱えている人の中にも、他人には言えないリアルな悩みがあるかもしれません。


・女性への眼差し=眼差しを受けたい私?

私が女性に向ける眼差しは、そのまま私が他人から受けたい眼差しです。女性の服を着ても、それを全身で見るためには、別の場所からの視点が必要になります。それが他人からの眼差しです。自分一人で姿見で見るのではなく、社会の中に女性装をした私を投入し、好奇の目で晒されることなく、きちんと社会生活を送れることが、私の理想になります。


おわりに


特に社会問題について批評したわけでも、誰かの成長に直結するような価値のあることを書いたわけではありませんが、こうした何気ない想いや悩みが誰かの思考のヒントになったり、私という人間に対して興味を持ってくれたら嬉しいなと思います!
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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