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★他者を正しく嫌うことで世界平和を実現する

別に私は世界平和の実現なんて興味はないですが、一人一人が生きやすい世の中になるために行うことが、世界平和にもつながるのではないかと思い、こんなタイトルを付けてみました。

前置きはこれくらいにして、私が伝えたいことは、「他者を正しく嫌う」ということの必要性です。
多様性が叫ばれ、マイノリティの権利や差別解消が重要視される中において、時代に逆行するような発言に聞こえることでしょう。この記事を読んで、私に共感するでも、コメントで批判・反論するでも構いませんが、もしよければ最後まで読んでほしいです。


1.他者を受け入れることの難しさ


人には誰しも嫌いな人、嫌いな性質、嫌いなこと、嫌いなビジュアルがあると思います。

お店で店員に横柄な態度を取る人、束縛してくる恋人、浮気する人、マウントを取ってくる人、自分に自信がない人、同性愛者、同性愛を受け入れない人、肥満、痩身、ブサイクな人、電車の中で独り言を言う人、身体障害者、知的障害者、ホームレス、老人、若者、外国人、日本人、男性、女性、子供、など

ところで、この羅列を読んで、「それを嫌いって言っちゃまずいでしょ・・・」と思ったものはあるでしょうか?

質問を変えます。上記で羅列した人の中で、「嫌ってもいい人」と「嫌ってもいけない人」を分類することはできるでしょうか?

さらに聞きます。「嫌いって言ったらまずいけど、口には出さないけど嫌いなんだよな・・・」と思ったものはあるでしょうか?

嫌いと感じるのは人の感情であって、感情を殺すというのは無理な話です。そもそも人の感情を操作するということは、戦時下における国家的な戦意の高揚のように、危険な方向に画一的に人々を動員することにも繋がります。
特定の感情を持つことを求められ、別の感情を持たないよう求められることで、その求めに応じられない人の抑圧が生まれ、またこの画一的な感情によって社会が失敗した時のリスクが高まります。日本における終戦直後の困窮などがまさにその失敗です。

抑圧されてきた女性の権利確保の声が高まるにつれ、世論が男性の男尊女卑的な発言を嗜めるようになり、元々の男性は逆に抑圧されていく、そしてバックラッシュが発生する、という流れは想像に難くないのではないでしょうか。この女性と男性を、読者個人個人の差別・被差別問題の対象者に置き換えてもよいでしょう。例えば日本人と在日外国人、白人と黒人、アメリカ人と移民など。

まとめると、他者を受け入れるということは時として感情の壁に阻まれ、さらに他者を受け入れなければならないという論調が、受け入れられない人への新たな抑圧と新しい差別を生むことになるため、他者を受け入れることは難しいのです。


2.他者を受け入れることの大切さ


そうは言っても、黒人は根拠の乏しい医学的見地によって迫害され、女性は妊娠出産によって希望のキャリアを追われるなど、不条理な扱いを受けてきました。また身体障害や知的障害を持っていることで仕事に従事できないというのも、出来れば解消すべき問題でしょう。これらの事例はあくまで個人的な意見ですが、要するに自分の特徴によって不利益を被るべきではない、ということです。
その際、その不利益を解消しようという動きが見られたり、あるいは解消しようと寄り添ってくれる友人や同カテゴリーの人がいることで、その人へのエンパワーメントとなるでしょう。

迫害されてきたものが受け入れられることで、世間に新しい文化を根付かせた事例があります。例えば深夜アニメのような絵柄の作品を好きになることは、以前であればいわゆる「オタク(アニメオタク)」として嫌われる対象でした。しかし現在、同じような作画感のアニメ作品がいくつも話題になっています(『君の名は』『天気の子』『鬼滅の刃』など)。
また、ボーイズラブを好きな女性、いわゆる腐女子もその事実の発覚を恐れて隠すことが普通でしたが、近年ではドラマ『おっさんズラブ』が世間で注目されるなど、今までの抑圧を開放することで新たな風が吹くことが多いです。

他者の受け入れはその人そのものへの力にもなり、世間にも新たなムーブメントを起こすなど、未来に向けてメリットが複数あるのです。


3.嫌うことから始める「緩やかな分断」


では、なぜ「嫌うこと」が大事なのでしょうか。
私が理想とする社会は、誰にとっても生きやすい世の中ですが、その中ではどんな意見や立場であっても尊重される一方、誰かに対して「嫌いである」こともまた自由に表明できる社会です。
これは一見厳しいようにも見えますが、実は一切の抑圧がないのです。
この社会の実現には、3つのフェーズがあります。
フェーズ1は、抑圧されてきたマイノリティの権利が認められる段階です。
フェーズ2は、そうしたマイノリティの人が台頭してくることに対して、バックラッシュが起きる段階です。

フェーズ2までは、社会は極めて分断したものにならざるを得ません。

フェーズ3は、そうしたバックラッシュに対して再度対抗し、それによって両方の意見が世の中に出現し、人々が自由に、かつ多様に人権について考えられるような段階です。
フェーズ3になるために必要なことは、「自分と他人は違う」「いろんな考え方がある」「自分は好きなように生きることができる」「自分のことを認めてくれる人がどこかに1人はいるかもしれない」と思うことです。

これによって、自分と違う人が周りにいるのは当たり前であり、自分とは違うのだから時に他人とは分かり合えないことがある、裏を返せば、誰にでも分かってもらえる可能性がある、さらに言えば、性別や身体機能、年齢、国籍、主義信条なんて、実は些細なことではないかと思えてくるはずです。逆に些細に思えない部分があるのであれば、その人とはもうわかり合うのを諦めて、また別の人たちに目を向ければ良いのです。

このような社会は、分断の基準が個人と個人という最低単位で行われている、しかしそれによって大きな分断は発生していない、いわば緩やかな分断の社会です。


おわりに


今の世界は私が述べた段階で言えば、フェーズ2に当たります。

性の暴力によって虐げられてきた女性と、痴漢の冤罪に対して怒る男性、

障害者や高齢者が暮らしやすい社会を目指す行政や政治と、老害、池沼といってネットのおもちゃにする人たち

といった、見える見えないに関わらず大きな分断が起きています。その原因は、今まで日陰の存在を強いられてきた人たちに対して感じる、自分たちがかえって抑圧されているのではないかという感情ではないでしょうか。

今まで抑圧されてきた人も、その台頭によって無性に苛立ちを覚える人も、その気持ちを堂々と表明し、人と人の対立が当たり前になれば、かえって個人と個人の違いという、根源的なところにたどり着くはずです。
そうなれば、「あの人は障害かなにかもってて関わりづらいけど、同じ趣味の同志じゃないか」「あの爺さん老害すぎてウザいけど、時々面白いこというし」「あの上司のセクハラは流石に我慢できないけど、同じように怒ってくれる上司もいる」「なんでもセクハラって言われてつまらない世の中だけど、私と同じようなノリでいてくれる後輩もいるから、その人と仲良くやってればいいや」


というように、人を多面的に見れるようになると思います。
これがやがて、分断を緩やかにし、万人にとって最大公約数的な生きやすさ、大袈裟ではありますが、世界平和に繋がるのではないでしょうか。


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