【酔筆素読#14】(人を傷つけない笑い?)コミュニケーションとは相手を傷つけること
お笑いコンビぺこぱの松蔭寺大勇さんに端を発したと思われる、「人を傷つけない笑い」。セクハラへの風当たりが強くなり、テレビ業界ではコンプライアンスが重視され、企業もCMや広告に細心の注意を払うようになった現代社会では、当然とも言える風潮。
しかし、お笑いやテレビが大好きな私としては、笑いの手法が一つ消えてしまったような、そんな寂しさも感じました。
もっともこれは、セクハラを容認する“オジサン”と同じような言い回しのため、自分自身もセクハラの被害者であり(また十中八九加害者でもある)、かつジェンダーやセクシュアリティを学び、真剣に考えている私としては、なんとも矛盾した複雑な気持ちに苛まれるものです。
この記事を書くにあたり、この「人を傷つけない笑い」について検索してみると、予想外の予測検索が。
なんと、「人を傷つけない笑い」に対して不満を持つ人が、自分と同じ意見を持つ人を探してこんな検索をしているようです。これに限らず、みんな自分と同じ否定派を探して検索しますよね。「タレント名 嫌い」という検索予測もよく見ます。
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そもそも、人を傷つけない笑いなど可能なのでしょうか。いや、現にぺこぱやティモンディの人気を見れば、可能だということは言えます。
しかし、「水曜日のダウンタウン」や「月曜から夜ふかし」のように攻めたバラエティ番組も依然として人気が高いです。ひょっとしたら、現代のコンプラ意識へのアンチテーゼとして価値が高まっているのでしょうか?
社会学専攻とバラエティ好きというのは、なんともアンビバレントなものです。ルッキズムとの関係も考えると、社会学専攻とアイドル好きも二律背反な部分があります。
だからこそ、この二つは両立できないものかと考えるようになりました。実際にアイドルの中でも、私が好きな櫻坂46は前身の欅坂46の頃に他の女性アイドルグループとは一線を画す存在として人気を博していたり、日向坂46はバラエティ集団として活躍するなど、かわいらしさ、おしとやかさ、清純さとは違った魅力を発揮しています。
「犬も歩けばぼうにあ○る」が編集の闇に葬られなかったのは衝撃的であると共に、潔さや痛快感さえ感じました。日向坂について言えば、ぶりっこをある種カリカチュアなほどに発動させているのも面白いです。
バラエティ・お笑いでいえば、3時のヒロインの福田麻貴さんはこの時代にゴリゴリの女芸人っぷりを見せていましたが、最近「容姿ネタを封印する」という発言をして話題になっていました。その真意については未だ語られていないようですが…
その一方で、納言の薄幸さんは街をけちょんけちょんにdisるネタがウケています。また、ぼる塾のネタでも田辺さんは自虐・他虐共に笑いを生んでいます。「人を傷つけない笑い」を巡る動きは今後も展開されていくでしょう。
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セクハラ、パワハラ、モラハラなど、〇〇ハラスメントという言葉がよく聞かれるようになり、一方ではハラスメントに苦しめられてきた人たちの解放を促進し、その一方で「何にでもハラスメントをつければいいってもんじゃない」と言うように、窮屈さを覚える人も出てきました。
私としては、窮屈さを覚える気持ちは大いに理解できますが、その鬱憤がハラスメントに実際に苦しめられた人に向かないことを願うばかりです。
しかし、何にでもハラスメントをつけるということは、言い換えれば何にでも嫌な気持ちにさせられている、ということになります。ある人は上司から性的な言葉を投げかけられて極めて不快な思いをして、またある人は鬼滅の刃によって極めて不快な思いをしているのでしょう。そしたら私はモルハラかな?
と思ったら、こんな記事もありました。軽く目を通しただけですが、元の文章を読んでみたいですね。本じゃないのかな、検索しても出てこないのが惜しいです。
とりあえず私は今のところ、何に対しても不快に思う人が誰かしらはいて、何でもハラスメントになるんだという方向で考えています。
しかし、そうなると極論どんな発言も文化も作品も「ダメ」ということになり、最終的に人間は見えない敵に怯えながら当たり障りのないことだけ話すようになるでしょう。そして行き着く先は、タガが外れて激しいバックラッシュが起こります。まるでお店や施設は空いているのに外出はするなと言っている昨今の〇〇○禍のようです。何が大事で、何を緩和していいのかを、表に出る人の号令だけで判断するべきではありません。
傷のつかないことだけ所望し、そうならないために躍起になる。人間総潔癖。総処女厨になるのでしょうか。
乱暴な例ですが、アレルギーを持つ子供が増えた理由に生活環境の改善があげられたりしますが、要するに人間の体に害となる、雑味の部分を刺激として受けなくなることで、かえって異物に反応しやすくなったと言えます。
ハラスメント対策も、人から傷つけられなくなることで、かえって打たれ弱い人間になるのではないかと心配しています。
最も、大気汚染が改善されなければならない問題なのと同様に、セクハラやパワハラなども野放しにしておいて良いものではありません。
しかし、人間のコミュニケーションというものはそもそも、絶対に誰かしらを傷つけるものだとも思うため、それに負けないように、人間は常にどこかしらから嫌な気持ちになる必要があります(ここでのコミュニケーションとは、人間の表現全てを指しています)。
誰かがよかれと思った発言が、誰かの心を傷つけます。
誰かが面白いと思ったものが、誰かを不快にさせます。
誰かが重視する倫理観が、誰かの倫理観を侵します。
万人にウケるものなどないのです。
ですから、万人誰もが傷つかないものを探求するよりも、誰かに傷つけられても、別の誰かが癒してくれる、もしくは傷つけられても平気になるような社会の方が、建設的なのではないでしょうか。
自分の好きなものが否定されたり、逆に自分が嫌だと思うものを自由に否定する時、抑圧されることなく自由に反論・折衷に向けた議論ができることが一番です。
マイノリティ・被害者の声(クレームメイキング)とマジョリティ・加害者の声(カウンタークレイム)、その間に立つ人間として、今後もいろいろ発信していきたいと思います。
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