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ごみ拾いを6年つづけられる、たった1つの理由。

ぼくはごみ拾いを6年続けている。

最初は単発ボランティアのつもりだったが、蓋をあけてみれば6年も続いている。もちろん毎日ではなく、週に1、2回。月に1回の日もある。しかし、細々とはいえ、確かに続いている。

だれに頼まれたわけでもない
お金がもらえるわけでもない
社会から認められるわけでもない。

むしろ

自分の命ともいうべき時間は減り
かがみながら拾うことで腰は痛み
たまに奇妙なものを見る目で見られる。

このように一見、マイナスなことが多いように思えるごみ拾いボランティアだが、ぼくにとって明確にやる意味がある。「救われている」といっても過言ではない。

ぼくにとってごみ拾いとは「自己満足」つまり「娯楽」なのだ。だからこそ継続できる。

環境を大切に、などという高尚な思いがある訳でもない。ボランティアの輪を広めたい、なんてのもない。

単純に「楽しい」からやっている。

やってる時は無になれる。

目の前にごみがある。
トングで取る。
袋に入れる。
入れ終わりに次のごみを見つける。
トングで取る。
袋に入れるーー。

と、永遠と続いていくのがごみ拾い。

没頭の時間。

ほかの感情や雑念が入りこむ余地のない、シンプルで贅沢な時間を味わえるのだ。これをぼくは「楽しい」と感じる。

袋がだんだんと膨らむさまも好きだ。膨らむさまに哀しみも感じるが、プラマイでいったらプラだ。

拾って拾って、ふと後ろを振りかえると綺麗になった道が眼前にひろがる。これも好きだ。

すべて自己満足。自分を満たすためのごみ拾いなのだ。

2年前ほどから周囲の要望もあって月に1度、SNSで告知をして一緒にごみ拾いする人を集めていたりもする。

日曜の朝9時から海でごみ拾いする、愛くるしい変態たち。


SNSへの告知のスタンスとしては「俺は1人で勝手にするよ。したい人はおいで。道具あるけん一緒しよ」だ。

仲間と一緒にごみ拾いがしたい訳じゃないし、ベラベラ喋りたいわけでもない。仲間を集めたいわけでもない。

ただ、粛々とごみを拾いたいのだ。

そこに人が数人〜数十人加わるが、「独り」がたくさん集まっているだけで、集団やコミュニティをつくっているというという感覚は、ぼくにはない。

どこまでいっても自己満足なのだ。

継続してなにかをできる人って多分みんなそう。自己満足できるから続くんだと思う。

そこに他者からの評価なんてものがないから、一喜一憂せずに続けることができる。

凪なのだ。

継続は、凪の中、自分のペースで進んでいく船旅とでもいえよう。

続けた先に何があるかなとも思案せず、思ったように漂う。たまに何かに遭遇したり、どこかに辿りついたり。それもまた面白くて旅路は長くなっていく。

ぼくにとっての6年間のごみ拾いは、まさにこれ。

きっと今後もごみ拾いは続いていくだろう。爺さんになってもやってる自信がある。だってそれが楽しいから。だってそれをやってるだけで満足だから。

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