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映画「アイアンクロー」から考える毒親の呪い&男らしさの弊害

先日、映画「アイアンクロー」を鑑賞した。

鉄の爪でおなじみのプロレスラーフリッツ・フォン・エリックと、彼の家族、主に息子たちの人生を描いた実話ベースの作品だ。

プロレス映画なのだが、テーマは家族。

「呪われた一家」と称されるフォン・エリック一家はプロレスラーになった息子たちが次々と若くして命を失っていく。

これは全て実話だ。

さてこちらのポストを引用させていただこう。

父のフリッツが毒親も毒親。自己愛の強い典型的な毒父として描かれていた。

彼は幸いの息子が亡くなっても、家族に「悲しんでいる暇はない。乗り越えろ」みたいなことを言って鼓舞し、亡くなった息子をプロレスの興行のネタとしてストーリーに組み込んでしまう。

これは家族が歪んで当然だと思った。

フリッツは成功したプロレスラーで、家父長制のボスとして君臨し続ける。

父のフリッツが強くて、息子たちは精神的に弱いから亡くなったと見る向きもあるがそれはちがう。

フリッツには共感能力が欠如しており、問題と向き合う力が弱い。

息子たちの問題には関心がなく「お前らで話し合って解決しろ」の一点張りだ。

毒になる男らしさをトキシック・マスキュリニティと呼ぶのだが、まさにフリッツにはトキシック・マスキュリニティが該当すると感じた。

強いのではなく向き合わない。そして息子たちは心優しく問題に対して当事者意識が強い。それゆえ激しく悩み病んでしまうのだ。

家父長制自体は、その時代にマッチしたシステムだったのかなと思うが、大きな弊害もあったはずである。

過剰な男らしさを意識して生きる人間の周囲は、死屍累々であることが少なくない。

彼らが男らしさを発揮できるのは、陰で支えてくれる献身的な人の存在があるからだろう。

「アイアンクロー」は俳優の筋肉美、最後のわずかなカタルシスも含めて非常に見ごたえがある映画だった。

僕の中ではプロレス映画というより「どのような状態になると家族が病むのか?」という負の連鎖を見事に描いた作品という所感だ。


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