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ANY%が生まれる、その一年前の『春』の記録(再掲)


・はじめに

先日、ANY%というバンドの初ライブを見た。

その感想を整理するには、どうにも一年前の『春』の記録からさかのぼる必要がある。

というわけで、今回再掲するのは、2022年3月公開した記事からの抜粋、甲斐莉乃の4回目の誕生日記念ライブ『春』について書いた文章になっている。お付き合い頂ければ幸いである。




・一年前の『春』

甲斐莉乃さんは、自らを表現して世に放ち続けてきた。RAYのメンバーとして活動すると同時に、イラストや絵画を描いて個展を開催し、イチからDTMと楽曲制作を学んでオリジナル曲を制作するなど、様々な技法を吸収しては、自らの武器を増やしてきた。その勤勉さと多才さだけでも目を見張るものだが、なにより驚くのは、それらの表現すべてに一貫した世界観が感じられることだ。少なくとも、これまでの誕生日記念ライブについては、ひとつのコンセプトの流れに基づいていると、彼女自身がステージで話していた。

自ら使っておいてアレだが、多才だとかそういった「できる」ということに関する言葉は、甲斐莉乃さんの凄みを表すにはすこし足りないように思う。おそらく、「できる」ということ以上に、「やりたい」というエネルギーが溢れていることに凄みを感じるのだ。たとえば、僕は若干DTMや音楽制作の知識がある。バンドで曲を制作するためのデモレベルであれば、一応は「できる」。ただこれは必要なことを身につけただけであり、そこから表現だとかを「やりたい」というエネルギーが生まれてきたわけではなかった。もちろん「できる」ということ自体に意味はあるが、それは「やりたい」とはまた別物なのだと思っている。彼女が作曲を「やりたい」と宣言したとき、迷わず応援したいと思った。そして彼女がイチから作り上げた「ユメ」という曲を聴いたとき、凄いと感じる心の中に、「悔しさ」が滲んでいることがわかった。もちろん「ユメ」は好きな曲だ。メロディも、アレンジも、歌詞も、好きなところは色々とある。いい曲だ。だからこそ、これを「やりたい」と思えた彼女を羨ましいと思ったのだ。

誕生日記念ライブ「春」にて、甲斐莉乃さんは初のスリーピースバンド体制でのライブを披露した。エンドーサーを務めるトレードマークのゼマイティスを提げ、「ユメ」のイントロを奏で、原曲のフレーズをアレンジしたベースが鳴り、繊細な抑揚がついたドラムが曲を引っ張る。これまで聴いてきたどの「ユメ」とも違う、新しい「ユメ」が僕の目の前に広がった。

§

突然、ちょっとした夢が見えた。はじめてのバンドで、はじめてのライブ。僕はそこに、高校生の僕の姿を重ねてしまった。はじめてのバンドで、はじめてのライブ。あのときの僕にしか見えない夢があった。そして、それはいくつもの夢に繋がっていって、その夢から生まれたエネルギーで、なんとか今まで生きてきた。そうだ、僕はそうやって今まで生きてきた。

§

新宿ロフトにいながら、音楽室の走馬灯を見てしまった僕は、呆然としていた。だから、次の曲で簡単に殺された。リーガルリリーの「リッケンバッカー」。世代としては少し若い曲ではあるが、さすがに何度か聴いたことがあった。シンプルで、でもなんかアツくて。こんな時代でもこういう曲が人気出るって、なんかいいな。いつかの僕はそう思っていた。よもや数年経って、このおんがくに僕がころされることになるなど、想像もしていなかった。

甲斐莉乃さんの作品には、「生」や「死」の気配が漂っている。両極どちらかに振り切れ続けることなく、行ったり来たり、その狭間を漂う感覚がある。そういえば、「死生祭」と銘打った最初の誕生日記念ライブから続いてきたコンセプトは、来年のライブでひとまず区切りとなる予定らしい(無論、ネガティブな意味ではない)。ステージ上からやや饒舌気味に構想を話す姿には、もうすでに新たな「やりたい」が見つかりかけている雰囲気が感じられた。かっちぇーなぁ、と思った。

音楽は何度でも僕を殺すし、何度でも僕を生かす。ゼマイティスも、リッケンバッカーも、テレキャスターも、僕を殺すし、僕を生かす。春らしいひとときだった。




・おわりに

そういえば、ANY%のライブについて感想を書いていなかった。

簡単に言えば、かっこよくて、まぶしくて、嫉妬した。

まだまだ足りない。ANY%についても、甲斐莉乃についても、水槽とクレマチスについても。まだまだ、いまの気持ちを表すには、足りない。

それでも月日は確実に進む。そのスピードのなかで、どこまで自分の形を保てるのか。とにかくいまは踏ん張りながら、僕の旅の出発地点である高円寺に、僕を連れて行くしかない。