『シャクシャインの戦い』/平山裕人

学校教育でさらっと習う北海道の歴史について。当時は蝦夷地と本土の人が呼んでいたこの地。あまり深く習うことは無く、「シャクシャインの戦い」という言葉、原住民アイヌの人たちと本土の人たちの戦いがあった、という程度の知識は持ち合わせてる人は多いのではないでしょうか。

この本は、当時のアイヌの文化や生活など、なせ戦いが起こってしまったか、などを忠実に説明されている文献のように感じた。まだ研究途中で明らかにされていない部分もあるが、歴史の真実を知るには良い本だったと思う。

以下に簡略にまとめています。

1・松前藩とアイヌ

北海道地方のアイヌ民族についての文献は様々あるが、いずれも確証を得られるものではなく、複数の証言を元に整合性をとりながら浮かんでくる歴史を見る他はないようだ。

まず、現在の函館周辺、道南地方には奥州藤原氏の一族の一部が移り住み、その子孫がやがて領主となった。このときすでにアイヌとも交易があったという。

15世紀に入り、アイヌの少年が和人に殺害された事件を発端に両者が対立関係になっていった。

やがて、道南地方を巻き込む戦いへと発展。これを「コシャマインの戦い」という。これはアイヌ側のコシャマイン父子と和人の領主・蠣崎氏との戦いである。

後述するシャクシャインも松前藩と戦闘になるが、決してアイヌ側が江戸政府へ反乱を起こしたものではない。こういう認識が歴史を読み取るには必要である。

やがて、蠣崎氏が松前藩として豊臣政権や徳川政権によってアイヌとの交易の独占を認められ、アイヌの住む地域への進出の足掛かりとなる。

2・シャクシャイン

シャクシャインが生まれたのは江戸幕府が誕生した前後だと推定される。つまり、生まれた時にはすでに松前藩がアイヌとの交易を政府のお墨付きのもと行っていた。

松前藩や他の地方からもアイヌの住む地域から、砂金や鷹、豊富な魚などを捕りに入ってくる和人が増えた。松前藩はいざこざが起こればアイヌの長を騙し討ちにして殺害する、という行動に出ていた。こうした流れがアイヌ側にとっては蜂起のエネルギーとなる。

シャクシャインはとても体格の良い大男だったという。力も強く回りのアイヌの首領との連携を進め、蜂起を呼び掛けを行った。そして松前藩を倒すため旗揚げを起こす。

「アイヌ」といっても各地域にそれぞれの首領がおり、松前藩への反発に共鳴したアイヌもいれば、静観したアイヌ、そして松前藩の味方をした地域のアイヌもいたという。

しかし江戸幕府の大きな後ろ楯のある松前藩を倒すことは叶わず、シャクシャインはやがて殺されてしまう。アイヌ側の敗北である。この他、シャクシャインに味方した地域のアイヌの首領も松前藩に連行、殺害されている。

3・その後

こうしてアイヌを江戸幕府に逆らえないような条件をつけ、実質支配することになる。シャクシャインとは別に、松前藩と対立し続けていたアイヌも各地あり、自らの土地を簡単に奪われることはなかった。

やがて、ペリーが来航し日米和親条約によって函館が開港される。 この時以降、蝦夷の海岸部は幕府直轄とされてしまう。和人がそれまで神威岬以南にしか住むことはなかったが、そのラインを越えて居住するようになった。

ほどなくして戊辰戦争が勃発、幕府が倒れると名実ともに「北海道」と改称され日本政府の一部とされてしまった。こうして和人が北海道全域に居住することとなったのだ。

まだ百数十年しか経っておらず、長い歴史でみるとつい最近のことである。北海道はアイヌモシリといって、かつてはアイヌの住む地であり、和人が侵略したという事実をなかったことにしてはいけない。現在の沖縄がかつて琉球王国であり、薩摩藩の侵略を受け日本の一部とされたことと同じなのである。

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